見出し画像

視聴記録『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」2021.1.31放送


<あらすじ>

もはや己の言いなりにならない正親町天皇(坂東玉三郎)の譲位を強引に進めようとする信長(染谷将太)。その責任者を命じられた光秀(長谷川博己)は、月にまで届く巨大な大木を切る不思議な夢に毎夜うなされるようになる。病の療治のため京にやってきた帰蝶(川口春奈)に、光秀は「こんなとき斎藤道三ならどうしただろうか」と尋ねる。すると、帰蝶の口から意外な答えが返ってくる。

<紀行>

兵庫県丹波篠山(たんばささやま)市。丹波富士の名で親しまれている高城山(たかしろやま)には、明智光秀と対立した波多野氏の居城・八上城(やかみじょう)がありました。光秀は八上城と対面する小山に般若寺城(はんにゃじじょう)を築き、徹底的な兵糧攻めを行います。八上城を攻略した光秀は、続いて黒井城を攻め落とし、ついに丹波平定を成し遂げました。
京都府福知山市。光秀が丹波支配の拠点を置いた福知山城。天守閣には、光秀時代の石垣が残されています。光秀は、由良川の治水工事を行うなど、城下町の基礎を作り上げました。江戸時代からこの地に伝わる福知山踊りには、光秀のことが歌われています。福知山には、今も光秀の面影が息づいています。

https://www.nhk.or.jp/kirin/story/43.html

★戦国・小和田チャンネル「麒麟がくる」第43回「闇に光る樹」
https://www.youtube.com/watch?v=s2yEEgGESAA

 ネットを見てたら、「『麒麟がくる』ダチョウ倶楽部ギャグ説」というのが載っていた。ダチョウ倶楽部のギャグとは、上島さんに「オレがやるよ !」と言わせて任せるというもので、
(肥後)オレがやるよ !
(寺門)それだったらオレがやるよ !
(上島)じゃあオレがやるよ !
(肥後&寺門)どうぞ ! どうぞ ! どうぞ !
ってギャグ。『麒麟がくる』も、
(足利義昭)儂が織田信長を討つ !
(徳川家康)それだったら儂が織田信長を討つよ !
(明智光秀)じゃあ儂が織田信長を討つよ !
(義昭&家康)どうぞ ! どうぞ ! どうぞ !
に見えるというのである。織田信長の周囲の人たちが、皆、反織田となり、その反織田の人たちの期待により、明智光秀が織田信長を討つというのは、脚本家が考える「本能寺の変」の動機へのリードなのか、ミスリードなのか?

 今回は、正親町天皇も、足利義昭も登場せず、今回だけ見ると、「本能寺の変」の動機は、
「織田信長にいじめられたので、仕返しした」
「織田信長のパワハラで光秀が闇落ちして犯行に及んだ」
だと思われる。脚本家が考える「本能寺の変」の動機は次回明かされるが、「私怨」とか、織田信長に「殺せるものなら殺してみよ」と挑発されての「突発事故」ではなく、「日本の将来を考えると、織田信長を討つしかなかったから」としていただきたいものである。
 なお、私の考えは、この記事の最後に書いておきます。

【タイトルの「闇に光る樹」】

 さて、今回は「闇に光る樹」です。

「月にまで届く、大きな樹を伐る夢なのだ。見ると、その樹に登って、月に行こうとしている者がいる。どうやら、それは信長様のように見える。昔話で、月に登った者は二度と帰らぬという。わしは、そうさせぬため、樹を切っているのだ。しかし、その樹を伐れば、信長様の命はない。わしは夢の中でそのことを分かっている。分かっていて、その樹を伐り続ける。このまま同じ夢を見続ければ、わしは信長様を…嫌な夢じゃ」(by 明智光秀)

「満月の夜、月明りに照らされて光る樹」
ではありません。新月の暗闇の中で、それだけがなぜか光っている樹です。そういう非科学的なタイトルを解析すれば、
「明智光秀の心の闇で光る樹」
となりますね。闇の中では何も見えないはずなのに、ただ1本の樹だけが見える、その樹を伐り倒すこと以外に何も考えられないという心境、切迫概念です。「本能寺の変」の動機の「ノイローゼ説」に繋がる話ですね。

 まぁ、タイトルは『ウルトラセブン』のパクリとされているので、深読みしない方がいいでしょう。

★『ウルトラセブン』→『麒麟がくる』

第1話 姿なき挑戦者
第2話 緑の恐怖
第3話 湖のひみつ
第4話 マックス号応答せよ
第5話 消された時間
第6話 ダーク・ゾーン
第7話 宇宙囚人303
第8話 狙われた街
第9話 アンドロイド0指令→第4回「尾張潜入指令」
第10話 怪しい隣人
第11話 魔の山へ飛べ
第12話 遊星より愛をこめて
第13話 V3から来た男
第14話 ウルトラ警備隊西へ 前編→第1回「光秀、西へ」
第15話 ウルトラ警備隊西へ 後編→第1回「光秀、西へ」
第16話 闇に光る目→第43回「闇に光る樹」
第17話 地底GO! GO! GO!
第18話 空間X脱出
第19話 プロジェクト・ブルー
第20話 地震源Xを倒せ
第21話 海底基地を追え
第22話 人間牧場
第23話 明日を捜せ→第5回「伊平次を探せ」
第24話 北へ還れ!
第25話 零下140度の対決
第26話 超兵器R1号
第27話 サイボーグ作戦
第28話 700キロを突っ走れ!
第29話 ひとりぼっちの地球人→第10回「ひとりぼっちの若君」
第30話 栄光は誰れのために
第31話 悪魔の住む花
第32話 散歩する惑星
第33話 侵略する死者たち
第34話 蒸発都市
第35話 月世界の戦慄
第36話 必殺の0.1秒
第37話 盗まれたウルトラ・アイ
第38話 勇気ある戦い
第39話 セブン暗殺計画 前篇→第6回「三好長慶襲撃計画」
第40話 セブン暗殺計画 後編→第6回「三好長慶襲撃計画」
第41話 水中からの挑戦
第42話 ノンマルトの使者→第22回「京よりの使者」
第43話 第四惑星の悪夢
第44話 恐怖の超猿人
第45話 円盤が来た
第46話 ダン対セブンの決闘
第47話 あなたはだぁれ?
第48話 史上最大の侵略(前編)
第49話 史上最大の侵略(後編)

1.関連年表


天正7年1月24日 元内大臣・三条西実澄、死没。
天正7年4月29日 元関白・二条晴良、死没。
天正7年6月日  八上城(波多野秀治)、落城。
天正7年6月2日   波多野兄弟(秀治、秀尚)、安土城下慈恩寺で処刑。
天正7年8月9日   黒井城(赤井忠家)、落城。丹波攻略終了。
天正7年11月22日  誠仁親王、二条新御所へ移る。
天正8年閏3月7日   大坂本願寺と織田信長、3度目の講和なる。
天正8年4月9日    顕如、大坂本願寺から紀伊鷺森御坊へ退去。
天正8年8月2日    「石山合戦」、終結。
天正10年3月11日   「天正壬午の乱」。武田勝頼、自害。
天正10年5月15-17日   織田信長、安土城で徳川家康を饗応。

2.ドラマストーリー


シーン1:明智光秀、織田信長に叱責さる。(安土城)
 前回のシーン。明智光秀が正親町天皇との話の内容を報告しないので、織田信長は、不穏な動きを見せる正親町天皇の譲位を決める。
 それにしても明智光秀はなぜ髪を剃らないのだろう? 剃れば血がよく見えるのに。(そういえば、徳川家康も剃っていない。)

シーン2:明智光秀、波多野三兄弟を安土城へ向かわせる。(亀山城)
 天正7年(1579年)夏、明智光秀は、八上城、続いて黒井城を落とし、丹波国平定を成し遂げ、波多野三兄弟(秀治、秀尚、秀香)を「命は取らないから」と安土城へ向かわせる。(実際に送られたのは、波多野秀治&秀尚である。)

※参考サイト「明智光秀×波多野秀治 丹波篠山・八上城ものがたり」
https://kirin-tambasasayama.jp/

シーン3:織田信長、丹波&丹後平定を称賛(安土城)
 織田信長は、明智光秀と細川藤孝を安土城へ呼び、丹波&丹後平定を
「これで儂も天下に面目をほどこした。誠に目出度い」
と称賛した。そして、近習・森蘭丸に波多野秀治&秀尚の塩漬けの首を持ってこさせた。(明智光秀が安土城へ行ったのは、処刑から4ヶ月たった10月のことだという。)明智光秀は、波多野兄弟を助けるつもりであったが、織田信長は安土城下の浄巌院慈恩寺で磔に処した。波多野秀治の辞世は、
 〽よわりける心の闇に迷はねば いで物見せん後の世にこそ
であった。
(明智光秀の第1次丹波攻略は、八上城の波多野兄弟の協力で順調に進んでいたが、波多野兄弟の裏切りにより、明智光秀は命を狙われたが、何とか坂本城に戻ることができた。織田信長は、明智光秀を死の寸前まで追い詰めたこの裏切りを許さず、波多野兄弟を処刑すれば、明智光秀が喜ぶと思ったようだ。)

太田牛一『信長公記』
惟任、右の趣、一々注進申し上げられ、永々、丹波に在国候て、粉骨の度々の高名、名誉も比類なきの旨、忝くも御感状なしくだされ、都鄙の面目、これに過ぐべからす。

・天下に「都鄙の面目」をほどこしたのは明智光秀であるが、このドラマでは、「これで儂も天下に面目をほどこした」と、天下に面目をほどこしたのは織田信長だとしている。

 また、織田信長はこの場で、佐久間信盛の本願寺攻略の遅さと、羽柴秀吉の浮気を叱責した。佐久間信盛は神妙に反省したが、羽柴秀吉は反省を笑いに変えた。

 なお、織田信長は、羽柴秀吉の浮気を「こん五たうたんくせ事候か(言語同断、曲事候か)」とする手紙を妻・ねねに出し、「文体に羽柴には意見、請ひ願う(この文面(手紙)を羽柴秀吉にも示して(見せて)意見を聞くように)」と書いている。

画像2

ねね宛織田信長書状
おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし、けさんニいり、しうちやくに候、ことにみやけ色ヽうつくしさ、中ヽめにもあまり、ふてにもつくしかたく候、しうきハかりに、このはうよりもなにやらんと思ひ候へハ、そのはうより見事なる物もたせ候あひた、へちに心さしなくのまゝ、まつまつこのたひハとゝめまいらせ候、かさねてまいりのときそれにしたかふへく候、なかんつく、それのみめふり、かたちまて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、十の物廿ほともみあけ候、藤きちらうれんれんふそくのむね申のよし、こん五たうたんくせ事候か、いつかたをあひたつね候とも、それさまほとのハ、又二たひかのはげねすみあひもとめかたきあひた、これよりいこハ、みもちをようくわいになし、いかにもかみさまなりにおもおもしく、りんきなとにたち入候てハ、しかるへからす候、たゝし、をんなのやくにて候あひた、申ものヽ申さぬなりにもてなし、しかるへく候、なをふんていに、はしハにはいけんこひねかふものなり、 (信長朱印)
          又々 かしく
               藤きちらう 
                 をんなとも     のふ

(仰せの如く、今度はこの地へ初めて越し、見参に入り、祝着に候。殊に土産色々美しさ、中々目にも余り、筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候はば、その方より見事なる物、持たせ候間、別に心ざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて、参るの時、それに従ふべく候。中んづく、それの見目ぶり、形まで、いつぞや見参らせ候折節よりは、十の物廿程も見上げ候。藤吉郎、連々不足の旨申のよし、言語同断、曲事候か。何方を相尋ね候共、それ様の程のは、又二度、かの禿ねずみ、相求め難き間、これ以後は、身持ちを陽快になし、いか様にも上様なりに重々しく悋気などに立ち入り候ては然るべからず。ただし、女の役にて候間、申すものも申さぬなりにもてなし、然るべく候。尚、文体に羽柴には意見、請ひ願うもの也。(信長朱印))

【現代語訳】私の命に従い、今回、この地(安土城)に初めて来てくれて嬉しく思う。特に土産物の数々、その美しさは目に余り、筆舌し難い。お返しに、「こちらからは、何をあげよう?」と思案したが、そちらからの土産物があまりに見事で、何をお返しすれば良いのか思い付かなかったので、今回はやめた。次回、来られた時に渡そうと思う。
 そなたの美貌は、以前会った時よりも、10が20になる程、2倍は美しくなっている。藤吉郎(羽柴秀吉)が何か不足を申しているとのことだが、言語同断、けしからぬことだ。どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることは出来ないだろう。これより先は、プラス思考で、奥方らしく堂々と、やきもちなどはやかないように。ただし、女房の役目として、言いたいことがある時は、言いたいことを全て言うのではなく、流すとよい。なお、この文面を羽柴にも示して意見を聞くこと。

・オープニング
 麒麟が炎に包まれている(炎を放っている?)ように見える。
 麒麟は黄色、もしくは、金色であるが、青い麒麟を聳孤(しょうこ)、赤い麒麟を炎駒(えんく)、白い麒麟を索冥(さくめい)、黒い麒麟を甪端(ろくたん)、もしくは、角端(かくたん)と言う。キリンビールの麒麟は聳孤ですね。

シーン4:羽柴秀吉と細川藤孝の密談(安土城)
 羽柴秀吉が細川藤孝に接近している意味は不明。
「近頃上様は何か焦っておられる」(by 羽柴秀吉)
 織田信長の焦りの原因は不明。ワタシ的には、明智光秀と噛み合わなくなって苛ついてるだけのように見えるが、一説に、織田信長は病気で、「本能寺の変」で自害しなくても、数年後には死んでいたというから、死期が迫って生き急いでいたのかもしれない。
 そう言えば、先日、時代小説のネタを思いついた。「豊臣秀吉のトレードマークは煙管。実はタバコではなく、覚醒剤を吸っていたので、戦場では冴えていたが、晩年には精神錯乱状態になった」という戦国マニアの間では有名な話から思いついたのであるが、「イエズス会は、金平糖だのワインに薬を混ぜていたのではないか? 『変な味』と思っても、『きっと、こういう味なのだろう』と納得してしまうのでは? 織田信長が短気なのは、その薬のせいでは?」というネタである。

シーン5:織田信長と明智光秀の対談(安土城)
 
織田信長は、「従五位上」を明智光秀に授けるよう、朝廷に頼むと言う。(なぜ紙で示す? なぜ口で言わない? 「プレゼントするよ~。えっ、何かって? 答えは、じゃーん、これです」と巻いた紙を広げてみせる演出をしたとか?)明智光秀が喜ぶと思ったのだが、喜ばずに辞退した。(どうも、織田信長はプレゼントのセンスが無い。)
 そして、織田信長は、右大臣、右大将を返上した理由を「正親町天皇に頂いた位だから返上した。誠仁親王から頂く」と言い、「誠仁親王に二条新御所にお移り頂き、そこを朝廷とし、正親町天皇には譲位して頂く」、さらに「御所替えの奉行を明智光秀と細川藤孝に命ず」と言って、明智光秀を驚かせた。

シーン6:誠仁親王と奉行(明智光秀&細川藤孝)(京 若宮御殿)
誠仁親王「明日、明日、行けというのか、二条へ。二条の庭で、毎日蹴鞠をやるのか? 信長は、何事も忙しない男子(おのこ)よのう」
 実際の二条新御所へのお渡りは、近衛前久を先頭とする大行列を組んでのことであり、「明日行け」と言われても、準備が出来ない。(実際のお渡りは、天正7年11月22日である。)
 明智光秀は、お渡りを中止しようとするが、細川藤孝が明智光秀を止めた。細川藤孝が止めなかったら、明智光秀は独断で中止していたであろう。織田信長の横にも、こういう織田信長の行動を進めたり、諌めたりする人がいればいいのにと思う。(今までは帰蝶がその役だった?)

シーン7:伊呂波太夫、近衛前久、細川藤孝(三条西実澄の館)
 天正7年1月24日、三条西実澄が亡くなった。なぜ、伊呂波太夫、近衛前久、細川藤孝が三条西実澄の館に入れたのかは不明。
 細川藤孝がいたのは、三条西実澄に「古今伝授」(『古今和歌集』の歌意の伝授)をされたからであろう。机の上には『古今和歌集』が置かれていた。

伊呂波太夫「世の中は公家だけじゃないのです。武家だけでもない。百姓や、商人(あきんど)や、伊呂波太夫一座の芸人もいるのです。皆が『よい世』と思えるような世の中にしなければ駄目なのです」
細川藤孝「私も長らく幕府に仕えていた者として、誠に耳が痛い。我が殿なら、天下一統がなり、世が治まるかと思うたが、戦がやむ気配がない。己の力不足と言う他ない」
伊呂波太夫「そう思うのならなんとかしてくださいよ。信長様が頼りにならないのなら、帝は誰を頼りに世を治めればよいのです? 前様、誰です?」
近衛前久「目下のところ、やはり明智でしょう。明智なら、信長も一目置いている」
細川藤孝「私もそう思います。しかし…」
伊呂波太夫「しかし?」
細川藤孝「荒木村重が殿を裏切った折、明智様は、備後の鞆の浦まで、足利義昭様に会いに行かれた」
近衛前久「それは初耳じゃ」
伊呂波太夫「ふ~ん」
細川藤孝「そのことについて、羽柴秀吉殿などは私に不満をぶつけてきた。『明智様は、我々が切り将軍に、まだ頼ろうとしておられるのか』と。武家の棟梁は足利将軍──その気持ちは私の中にも残っている。よく分かるのだが、百姓の出である秀吉殿には、さっぱり分からぬ話。それもよう分かる」
伊呂波太夫「秀吉というお方は、本音は武士が大嫌いだということを聞いたことがございます。それ故、公家贔屓だと」

 豊臣秀吉は公家贔屓なのか──それで公家と親しい細川藤孝に近づいてるのか?
 さて、もし、織田信長がいなくなったら、明智光秀は足利義昭を担ぎ出す。そうすれば、羽柴秀吉が反抗して戦になるやもしれぬ。とはいえ、足利義昭が将軍になる時、「貧しい者を無くしたい」と言い、悲田院の建設を計画していた。羽柴秀吉も「『平らかな世』とは、昔の自分のような貧しい者がいない世」と言ってるから、2人は似てるのでは?

シーン8:「石山合戦」の終結(天正8年(1580年)4月 大坂本願寺)
シーン9:佐久間信盛の追放→剃髪して高野山へ

天正8年閏3月7日   大坂本願寺と織田信長、3度目の講和なる。
天正8年4月9日    顕如、大坂本願寺から紀伊鷺森御坊へ退去。
天正8年8月2日    石山合戦、終結。
天正8年8月25日 「19ヶ条の折檻状」で佐久間信盛を追放。

 佐久間信盛の追放の理由は、19ヶ条にまとめられている。(太田牛一『信長公記』に覚書きが全文記載されている。)この条文では「丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事」(丹波国平定という明智光秀の働きは、天下の面目をほどこした。次に羽柴秀吉の数ヶ国における働きも比類なし。池田恒興は、少禄の身ではあるが、花隈城を時間も掛けず攻略し、天下の覚えを取った。これを以て佐久間信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであった事)が有名である。

※織田信長「19ヶ条の佐久間信盛折檻状」
一、父子五ヶ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、世間の不審余儀なく、我々も思ひあたり、言葉にも述べがたき事。
一、此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇にも構へず、調儀・調略の道にも立ち入らず、たゞ、居城の取出を丈夫にかまへ、幾年も送り候へば、彼の相手、長袖の事に候間、行く行くは、信長威光を以て、退くべく候条、さて、遠慮を加へ候か。但し、武者道の儀は、各別たるべし。か様の折節、勝ちまけを分別せしめ、一戦を遂ぐれば、信長のため、且つは父子のため、諸卒苦労をも遁れ、誠に本意たるべきに、一篇に存じ詰むる事、分別もなく、未練疑ひなき事。
一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
一、柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて、此の春、賀州に至りて、一国平均に申し付くる事。
一、武篇道ふがひなきにおいては、属託を以て、調略をも仕り、相たらはぬ所をば、我等にきかせ、相済ますのところ、五ヶ年一度も申し越さざる儀、由断、曲事の事。
一、やす田の儀、先書注進、彼の一揆攻め崩すにおいては、残る小城ども大略退散致すべきの由、紙面に載せ、父子連判候。然るところ、一旦の届けこれなく、送り遣はす事、手前の迷惑これを遁るべしと、事を左右に寄せ、彼是、存分申すやの事。
一、信長家中にては、進退各別に候か。三川にも与力、尾張にも与力、近江にも与力、大和にも与力、河内にも与力、和泉にも与力、根来寺衆申し付け候へば、紀州にも与力、少分の者どもに候へども、七ヶ国の与力、其の上、自分の人数相加へ、働くにおいては、何たる一戦を遂げ候とも、さのみ越度を取るべからざるの事。
一、小河、かり屋跡職申し付け候ところ、先々より人数もこれあるべしと、思ひ候ところ、其の廉もなく、剰へ、先方の者どもをば、多分に追ひ出だし、然りといへども、其の跡目を求め置き候へば、各同前の事候に、一人も拘へず候時は、蔵納とりこみ、金銀になし候事、言語道断の題目の事。
一、山崎申し付け候に、信長詞をもかけ候者ども、程なく追失せ候儀、是れも最前の如く、小河かりやの取り扱い紛れなき事。
一、先々より自分に拘へ置き候者どもに加増も仕り、似相に与力をも相付け、新季に侍をも拘ふるにおいては、是れ程越度はあるまじく候に、しはきたくはへばかりを本とするによつて、今度、一天下の面目失い候儀、唐土・高麗・南蛮までも、其の隠れあるまじきの事。
一、先年、朝倉破軍の刻、見合せ、曲事と申すところ、迷惑と存ぜず、結句、身ふいちやうを申し、剰へ、座敷を立ち破る事、時にあたつて、信長面目を失ふ。その口程もなく、永々此の面にこれあり、比興の働き、前代未聞の事。
一、甚九郎覚悟の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。
一、大まはしに、つもり候へば、第一、欲ふかく、気むさく、よき人をも拘へず、其の上、油断の様に取沙汰候へば、畢竟する所は、父子とも武篇道たらはず候によつて、かくの如き事。
一、与力を専とし、余人の取次にも構ひ候時は、是れを以て、軍役を勤め、自分の侍相拘へず、領中を徒になし、比興を構へ候事。
一、右衛門与力・被官等に至るまで、斟酌候の事、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。
一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。
一、一世の内、勝利を失はざるの処、先年、遠江へ人数遣し候刻、互に勝負ありつる習、紛れなく候。然りといふとも、家康使をもこれある条、をくれの上にも、兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、その身、時の仕合に依て遁れ候かと、人も不審を立つべきに、一人も殺さず、剰へ、平手を捨て殺し、世にありげなる面をむけ候儀、爰を以て、条々無分別の通り、紛れあるべからずの事。
一、此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。
一、父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事。
 右、数年の内、一廉の働きなき者、未練の子細、今度、保田において思ひ当り候。抑も天下を申しつくる信長に口答申す輩、前代に始り候条、爰を以て、当末二ヶ条を致すべし。請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり。
 天正八年八月 日

 『寛政重修諸家譜』の「佐久間信栄(正勝)」の項に「後、明智光秀が讒により、父・信盛とともに高野山にのがる。信盛、死するののち、右府、其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附属せしむ」とある。佐久間信盛の追放は、明智光秀の讒言によるものらしい。「19ヶ条の折檻状」の原案は、明智光秀が書いたのではないかと思う。

画像3


シーン10:明智光秀が高木を伐る夢
「月に届く高木」のはずですが、画面では月と繋がってません;
「月は正親町天皇だ」という人が多い。確かにその通りだと思うが、次の天皇の誠仁親王だとも思う。というのも、誠仁親王の墓所は「月輪陵(つきのわのみささぎ)」と呼ばれているので。(誠仁親王は、皇位につくことなく、天正14年に早世した。)

シーン11:明智光秀が駒に夢を語る。(京都 望月東庵邸)

駒「少し、お疲れのご様子ですね」
明智光秀「寝不足かもしれぬ。このところ、毎日同じ夢を見て、目が覚めてしまう」
駒「同じ夢?」
明智光秀「月にまで届く、大きな樹を伐る夢なのだ。見ると、その樹に登って、月に行こうとしている者がいる。どうやら、それは信長様のように見える。昔話で、月に登った者は二度と帰らぬという。わしは、そうさせぬため、樹を切っているのだ。しかし、その樹を伐れば、信長様の命はない。わしは夢の中でそのことを分かっている。分かっていて、その樹を伐り続ける。このまま同じ夢を見続ければ、わしは信長様を…嫌な夢じゃ」

※月に登った者は二度と帰らぬ。わしは、そうさせぬため、樹を切っているのだ。:月へ行くと帰ってこないのであれば、月へ行こうとする人が今後、出ないように、月へと続く高木を伐る。ここでは、「月を目指す人が出ないように(天皇と肩を並べようとする人が出ないように)樹を伐る」のであるが、樹を伐れば、現在、月に登ろうとして木登りの最中の織田信長は落ちて死ぬ。

 望月東庵によれば、帰蝶が眼病治癒のため、京都の曲直瀬道三の治療を受けているという。望月東庵=曲直瀬道三ではなかった!

シーン12:帰蝶、今井宗久と明智光秀

 鷺山で平蜘蛛の茶釜を使って苦くて美味しいお茶を飲むのかと思ったら違った。
 帰蝶が眼病なのは、京都にいる理由付けのためだけか?
 今井宗久がいたのは、お茶を点ててもらうためだけか?

明智光秀「帰蝶様、お久しゅうございます。宗久殿も」
今井宗久「明智殿がおいでになると聞き、帰蝶様が大層心待ちにしておられました」
帰蝶「心待ちにしていたのは、宗久殿であろう。丹波と近江の大大名となった十兵衛が参るのじゃ。鉄砲の百挺でも売りつけようと、目の色を変えて茶を点てていたように見えた」
宗久「は、は、はっ。目の色を変えていたのは、帰蝶のお召し物の見事さに感服致しておったのでございます」
帰蝶「堺の商人は、口と心が別のところにある。そう思わぬか?」
明智光秀「帰蝶様がそう仰せられるのなら、そうかもしれませんなぁ」
宗久「は、は、はっ。またまた明智様まで。今日の茶は苦うございますぞ」
明智光秀「目の病とお聞き致しましたが…」
帰蝶「朝はさほどでもないのじゃが、日暮れになると、見るもの全てがぼんやりとして、定かでなくなる。近頃は、この目のせいもあるのか、何かと気の急く思いがしてならぬ」
明智光秀「それは私も同じ。何かとジタバタしております」
帰蝶「昔、父の道三が、あれこれ思い惑い、じたばたして生きておるのを見て、『よい歳をして』と笑うていたのじゃが、皆、同じじゃな」
今井宗久「帰蝶様は、ご気性がお父上によう似ておられると美濃の衆から聞いたことがございます」
帰蝶「そうやも知れぬ。父上もよう申されておました。『お前が男であれば、わしに瓜二つじゃ』と。確かに義龍よりも父親に似ていました。そう思うか?」
明智光秀「それ故、時折、帰蝶様のご意見が聞きとうなるのでございます。道三様なら、これをどうお考えになるのかと」
帰蝶「今日はそれで参ったのか?」
明智光秀「そうかもしれませぬ」
帰蝶「では、父になりかわって答えよう。何を聞きたい?」
今井宗久「今や織田家随一のお大名が、帰蝶様を道三様に見立てのお話とは… 聞きたくもあり、聞きたくもなし。私はあちらの部屋で耳を塞いでおりましょう」(と言って退室)
帰蝶「信長様のことであろう。想像はつく。長年仕えた佐久間を追い払い、他の重臣たちも僅かの咎で罰せられ、帝に御譲位までも」
明智光秀「道三様なら、どうなされましょう?」
帰蝶「毒を盛る。信長様に。胸は痛む。我が夫。ここまで共に戦うてきたお方。しかし父上なら、それで十兵衛の道が開けるなら、迷わずそうなさるであろう」
明智光秀「道三様は、私に、『信長様と共に新たな世を作れ』と仰せられました。信長様あっての私でございます。そのお人に毒を盛るのは、己に毒を盛るのと同じに存じます」
帰蝶「あの時、父上は私に『織田家に嫁げ』と命じ、そなたも『そうしろ』と。私はそう命じた父上を恨み、そなたも恨んだ。『行くな』と言って欲しかった。あの時、ことは決まったのじゃ。今の信長様を作ったのは父上であり、そなたなのじゃ。その信長様が一人歩きを始められ、思わぬ仕儀となった。やむを得まい。万(よろず)、作ったものが、その始末を為すほかあるまい。違うか?──これが、父上の答えじゃ」
明智光秀「帰蝶様は、そのお父上の答えに、どう思われますか?」
帰蝶「私はそう答える父上が大っ嫌いじゃ」
明智光秀「私も大嫌いでございました」(笑い合う2人)
縁側に出た帰蝶は、夕日を受けて顔をしかめた。
帰蝶「日暮れになると、見るもの全てが定かでなくなる。じたばたせずに静かに夜を迎えることができればよいのじゃが、世はままならぬ」

シーン13:「天正壬午の乱」武田氏滅亡
 武田軍最強の赤揃えが、鉄砲で撃たれて死んでいきました。

シーン14:織田信長と徳川家康が合流(信濃 諏訪)
 徳川家康は、織田信長の妻・築山殿と嫡男・信康の切腹命令について相談したことをわび、その後の調査で、2人は武田と内通していたことが判明し、織田信長の判断は正しく、織田信長を恨んではいないし、明智光秀に相談しなくてもよかったと言った上で、「今度の武田氏の滅亡で、三河国、遠江国に加え、駿河国も支配することとなった。明智光秀の丹波国支配は見事だと聞いている。どうすれば国が落ち着くか、穏やかな世になるか、良き知恵があれば、ご教授願いたい」と申し出た。明智光秀は「戦は他国の領地を奪うことから始まります。己の国が豊かで、人並みに暮らせる所であれば、他国に目を向けることはないはず。それ故、己の国がどれ程の田畑を有し、作物の実りがどれ程見込めるのか、正しく検地を行い、それに見合った人の使い方をし、無理のない年貢を取る。まずはそこから始めてみようかと」と理論と実際(理想と理想実現のための具体策)答えた。(この様子を監視している者がいた。森蘭丸である。)
 明智光秀と徳川家康は、気が合うようである。明智光秀は徳川家康が「教えて下さい」と聞いてきたから答えた。以前、織田信長が「どうすればいい?」と聞いてきたから「大きな国を作ればいい」と答えた。今も、織田信長が「どうすればいい?」と聞いてきたら答え、2人の関係は昔のままであったろう。
 最後に徳川家康は、「安土城に呼ばれている。饗応役になっていただきたい」と付け加えた。徳川氏は織田氏と武田氏の領地の間を領する大名であり、織田氏と武田氏の間の壁であった。武田氏が滅亡した今、壁は不要になった。毒殺される危険もあるが、明智光秀が饗応役であれば、食べ物に毒を入れないであろう。
 明智光秀が饗応役に選ばれたのは、ドラマでは「徳川家康の要望」ということであるが、他説には、「光秀は、実は明智氏ではなく、料理に詳しい信士氏だから」がある。

シーン15:織田軍の戦勝会(信濃 諏訪)

 武田氏を亡ぼした織田信長の気分は良かったが、森蘭丸が「徳川家康の家老・酒井忠次に安土城での饗応について提案すると、『饗応役は明智光秀に』と言われた。2人は仲がいい」と報告すると、丹羽長秀が「毒を盛られると思っているのでしょう」と言うと、
「家康め、まだ信康に腹を切らせたことを根に持っておるのか」
と気分を害した。
 ここで森蘭丸が「いえ、武田と通じていたことが判明し、信長様は正しかったと反省していました」と聞いたことを言えば収まったのだが、森蘭丸は、父・森可成がいた宇佐山城が明智光秀の領内にあることで、明智光秀を逆恨みしていたという。

※森成利(もり なりとし):織田信長の近習で、俗称は「蘭丸」。「本能寺の変」で2人の弟(坊丸(長隆)、力丸(長氏))と共に討死した。なお、織田信長役の染谷将太さんは、2011年『江~姫たちの戦国』で森坊丸役として出演し、「本能寺の変」で討たれています。

シーン16:安土城での饗応(天正10年(1582年)5月 近江 安土城)

太田牛一『信長公記』
 5月15日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せ付けられ、京都、堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、15日より17日まで、3日の御事なり。
 中国備中へ羽柴筑前守相働き、すくも塚の城、あら々々と取り寄せ、攻め落とし、数多(あまた)討ち捕り、並びに、ゑつたが城へ、又、取り懸け候ところ、降参申し、罷り退き、高松の城へ一所に楯籠るなり。
 又、高松へ取り詰め、見下墨(みさげすみ)、くもつ川、ゑつた川、両川を関切り、水を湛へ、水攻めに申し付けられ候。
 藝州より、毛利、吉川、小早川、人数引卒し、対陣なり。
 信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、「今度間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せ付けらるべき」の旨、上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、惟任日向守、長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
 5月17日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、何れも々々、同時に本国へ罷り帰り候て、御陣用意なり。
【大意】 織田信長は徳川家康を安土城に呼び、15日より17日までの3日間、饗応した。明智光秀は、京都や堺で珍品を集めて接待した。
 そんな時、羽柴秀吉から戦況報告が届き、織田信長は「一気に九州まで平定しよう」と息巻いた。織田信長は、明智光秀らに帰国して出陣の準備をするように伝えたので、5月17日、明智光秀は、安土城から坂本城へ移った。

明智光秀「各地から取り寄せました。お気に召すかどうかは分かりませぬが」
徳川家康「皿まで食わぬよう気をつける」
談笑する2人。冗談を言える仲。遠くから見つめる織田信長は、友達を奪われて嫉妬してる?

織田信長は、饗応役を丹羽長秀に代え、明智光秀には羽柴秀吉の毛利攻めの支援に中国へ行くように命じた。「秀吉が援軍を求めていて」=羽柴秀吉がかわいい、と、織田信長の心は明智光秀から羽柴秀吉、もしくは、いつもそばにいてくれる森蘭丸に移ったようだ。織田信長は、徳川家康に嫉妬し、すねている。

「忠臣」は時には主君を諌めるが、織田信長にとっての忠臣はイエスマンらしい。

画像1

※「信長公怒りて光秀を折檻の図」

「十兵衛、膳が違うぞ! 品数が足りん!」
と怒る織田信長。扇を明智光秀の首へ。
首を刎ねるポーズだね。

対する明智光秀は、手刀(SNSでは「変顔チョップ」)。
「闇にに光る樹」を伐るポーズだね。

さて、次回は最終回「本能寺の変」!
【戦国未来の最終回予想】
①「本能寺の変」の動機は、織田信長に「徳川家康を殺せ」と言われたこと
https://note.com/senmi/n/nb2158135c6fc
②麒麟を呼ぶのは羽柴秀吉
https://note.com/senmi/n/n02c7afa037cc

当たるかな?

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!