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「本能寺の変」の真実 ─実は徳川家康暗殺計画だった!?─

《「本能寺の変」の真実》


「徳川家康を討って忠誠心を示せ」

と織田信長に言われた明智光秀は、亀山城から出陣した。

明智光秀本隊は堺へ徳川家康討伐に向かうとみせかけ、

実は堺で徳川家康の接待をしている織田信忠を討つ予定であった。

しかし、途中、鳥羽まで来て、

「織田信忠が堺にいない。徳川家康が逃した模様」という報告

「徳川家康は我らを裏切り、船で逃げた模様」という誤情報

が届いたので、明智光秀は、

「正確な情報を知りたい」

「徳川家康を伊賀国で一揆衆(落ち武者狩り)に討たせろ」

と指示をして、堺へは行かず、鳥羽で待機した。

この情報を筒井順慶から得た徳川家康は、

影武者に甲賀越え、石地蔵に伊賀越えをさせ、

自らは筒井順慶の家臣の手引で、大和国越えで三河国へ逃げた。

一方、斎藤利三隊は、明智家の旗を持って本能寺へ。

「織田信長に中国出兵の御挨拶」

というのは名目で、真の目的は「織田信長暗殺」であった。

そして、斎藤利三は織田信長に自害させた。

織田信長の遺体は、

「晒すのはかわいそうだ」

という明智光秀の命により、明智光遠が密かに阿弥陀寺へ運んだ。

これが「本能寺の変」の真相だというが、果たしてそうか?

※明智光秀が自ら織田信長を討たず、斎藤利三に任せたのは、斎藤利三の提案で、「自分は知らない。家臣が勝手にやったこと」と言い逃れるためか。

《史料》


・「信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったと言うことである」(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン著/佐久間正訳『日本王国記』)
※「余は余自ら死を招いたな」とは、「徳川家康を討とうとしたら、自分が討たれることになった」「人を呪わば穴二つ」ということ。

・「山さきのかたへとこゝろざし候へバ、 おもひのほか、「京へ」と申し候。 我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。 ほんのふ寺といふところもしり不申候。(【現代語訳】山崎の方へ向かうと思っていたが、意外にも「京へ」(「敵は本能寺にあり」)と言われた。我らは、その時、家康様が御上洛中なので、家康様を討つのだとばかり思っていた。(「敵は本能寺にあり」と言われても)本能寺がどこにあるのかも知らなかった」(従軍した本城惣右衛門の語り『本城惣右衛門覚書』)

※『本城惣右衛門覚書』
あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、 ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、 それハミなうそにて候ハん、と存候。其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、 ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこさまびつちうニ、 てるもと殿御とり相ニて御入候。 それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。山さきのかたへとこゝろざし候へバ、 おもひのほか、京へと申し候。 我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、 いゑやすさまとばかり存候。 ほんのふ寺といふところもしり不申候。人じゅの中より、馬のり二人いで申候。 たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、 こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、 我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。それ二人ハきたのかたへこし申候。 我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、 其まゝ我等くびとり申候。それゟ内へ入候へバ、もんハひらいて、 ねずミほどなる物なく候つる。 其くびもち候て、内へ入申候。さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたゟはい入、 くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、 をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。 かやばかりつり候て、人なく候つる。くりのかたゟ、さげがミいたし、しろききたる物き候て、 我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。 うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、 のぶながさまとハ不存候。 其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、 もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。そこにてくび又一ツとり申候。 其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、 刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。 其折ふしハ、もはや人かず入申候。 それヲミ、くずれ申し候。 我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、 かの物いで、すぎ候まゝ、うしろゟきり申候。其時、共ニくび以上二ツとり申し候。 ほうびとして、やりくれ被申候。のゝ口ざい太郎坊ニい申候。

・「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ(光秀は鳥羽に控えたり)」(従軍した斎藤利三の三男・斎藤利宗の語り『乙夜之書物(いつやのかきもの)』)

・「家康公は、定めて堺に居給ふべし。一向に申し合わすべし」と思ひ、人を下して見給へば、「今日、船にて御下向ぞし給ふ」と云ひければ、光秀、思はれけるは、「扨(さて)は家康へは定明が存念も未だ通ぜざりけり。此の上は、遣立ては悪かるべし」と思ひ、「伊賀地にて一揆共に申し付け、討ち取るべし」と思案して、永沼をはせ遣はし、云い触れてけり」(明智定明家臣・森四郎左衛門の語り『明智物語』)

・「神君大和越え」の感状

「6月10日付和田織部宛徳川家康感状」(「大串氏所蔵文書」)
今度、大和路案内、殊に高見峠において相働の段、祝着候。忠賞の儀は、望み行うべきに候。猶、筒井へ申し入れ候。恐々謹言。
 6月10日     家康(花押)
  和田織部殿
(【大意】此度の大和路、特に高見峠の道案内はご苦労であった。褒美は望みのままに与えるので、筒井順慶に申し出るように。)


 亀山城から本能寺へのルートについて、「北陸道か、唐櫃越えか」と、よく話題になる。
・北陸道:広くて大軍の進軍には向いているが、目立つ。
・唐櫃越え:細く険しい山道で、1列歩行を余儀なくされる。
また、「軍隊を2つに分け、明智光秀本隊は北陸道、斎藤利三隊は唐櫃越えを進軍」とも。両隊とも本能寺へ直行したのか、明智光秀本隊は洛中へは入らず、南へ迂回して(鳥羽を通る大回りをして)本能寺へ行ったのか?

ちなみに「イエズス会暗殺説」とは、「明智光秀は夜が明けると同時に本能寺に着くように亀山城を出たが、月は新月で暗く、唐櫃越えの道は細くて険しく、桂川は前日の雨で増水していて橋もなく、本能寺に着いたのは9時で、既に織田信長はイエズス会によって殺されていた」とする説である。

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