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ラブなレターと中庸の知覚 2023から2024に向けて

11年前の今日、出産した病院を退院したらしい。

そして息子は先日誕生日を迎え、生まれて初めて女の子からプレゼントとお手紙をもらった。

とっても嬉しかった。
愛する存在が、愛される喜び。
うちの子を大好きって思ってくれて、ありがとう。
私も同じ気持ちですよ。
あなた、ほんとお目が高いわねw

息子がこの世に生まれたのは、夫と私の感情が揺れたから。
好きとか、嫌いとか、怒りとか、妬みとか、愛おしいとか、手を差し伸べたいとか、触れたいとか、触れられたいとか。
今はもうそういうのを超越して、尊敬とか自然発生的な(笑)諦念とかもあるけれど、
でも、感情が動かなければ、結婚なんて人間臭いことしないし、息子も生まれてこなかったかもしれない。

息子よ、これからあなたはたくさんの感情の揺れを経験するでしょう。
それはとても美しく、豊かで、チャーミングなこと。
でも、もしあなたが年を重ねてその先に、
私たちは誰もが、喜びすぎない、哀しみすぎない自分が自分の中に確かにいるということを知っておくだけでも、
この世の中は時に、あなたに、そしてあなたの周囲の人にも、
優しさをもたらしてくれるように、今、ママは思っている。
喜びすぎたり、哀しみすぎたりするあなたももちろん、
ママは大好きだけどね(自分で自分の体をいじめるようなことがなければ!ということを学んだママからのメッセージ)。

センジュ出版の対話は創業から2023年11月まで、感情と理性のあわいを言葉にする、ということを大切にしてきたけれど(あわい①)、
来年からはこの2次元(体を通じた潜在意識にまで相手にするなら3次元的:あわい②)的な対話に加え、もう少し俯瞰的な存在との対話(あわい③)をも手がけていく必要を感じ始めた。
というより、体力的にも俯瞰的な存在の力を頼りたくなった、というのが正直なところかもしれない(苦笑)。

そのことを思い出すきっかけになったのが、今年6月の哲学対話にまつわる、自分の投稿。

私の中には「誰に認められたくもない私」と「誰からも認められたい私」とが共存している。
そして、それぞれの自分をジャッジするというよりも、ただその存在を知覚している中庸の私もいる。
この「知覚」は、「認める」という言葉の持つ、複数の意味のうちの一つでもある。
「誰に認められたくもない私」と「誰からも認められたい私」とをそれぞれ「認めている」私もいる。

私にできる「認める」は、存在を許容することでもなく、承認することでもなく、ただそこにあることを知覚すること。
だから、私に向けられる「認められる」もまた、家族からでも、友人からでも、顧客からでも、取引先からでも、社会からでも、世界からでも、天からでも、神からでも主語はいずれでも等しく、
ここに自分が存在することを「知覚される」ことを意味することかもしれない。
ただ、私のバイオリズムや環境の変化や、あれやこれやをもって、時には「承認される」ことだと捉えたり、あるいは「認定される」ことを意味したり、「一目置かれる」ように感じたり、することがあるかもしれない。

でも、願わくば、機嫌よく、ただ「知覚」されることで生きていける自分でありたい。

なんだか、この後に起こることを知っているかのような自分の文章(汗)。

この「ただその存在を知覚している中庸の私」とは、おそらく感情と理性のあわいを「問いつづける」私とは少し異なっていて、俯瞰的に感情と理性を、そのあわいを、ただ知覚している私。
どっちでもいいとか、どっちもいいとかを超えて、そもそもいいもわるいもない、な感覚。
この中庸の自分とも対話できると、最後は楽観的でいられる気がする。

調子が良すぎたとしても調子が悪すぎたとしても、誰の中にも中庸の自分が存在しているはず。
そんな対話の拡張を来年からはお伝えしていこうと思った、嬉しい嬉しい、ラブなレターからの連想時間。

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