見出し画像

13年向き合ってきた体調の記録

わたしはもうじき28歳になる。
そんなわたしにはおよそ人生の半分を一緒に過ごす相棒がいる。病気だ。
長いことうつ病と診断され、2年ほど前にⅡ型双極性障害と診断され現在は投薬治療をしながら生きている。

現在の体調についてはその都度綴ってきたつもりだったけど、今まで自分がこの病気とどんな人生を歩んできたのかその記録をきちんとしたことはなかった。
これからともに生きていく人のため、ここで現時点までの記憶をまとめておく。



症状が出始める

発症は14歳の終わり

2011年6月だったと記憶している。
ガリ勉で1日20時間も勉強することもあったわたしが、文章を読んでも目が滑るようになった。頭に入ってこない。思考が遅くなる。
次第にペンを持つ力がなくなった。4Bのシャー芯を買った。うとうとしながら書いたような、歪んだ文字。
座っているのもしんどくなった。頬を机に落として文字を読もうとする。次第にジンジンと痛む頬。

塾の進学クラスでは、宿題を終わらせるのが当たり前だった。
1日4時間も5時間も机に張り付いても、夏期講習の宿題が終わらなくなった。すぐに終わらせて夏休みを謳歌するクラスメイトの中で、一人やる気がないと数学の先生に叱られた。言い訳にしかならないかもしれないと思って口にできなかった言葉の代わりに蕁麻疹が出た。

当時はうつへの理解が皆薄くて、やる気のない奴は出てけみたいな雰囲気で、わたしは塾を1ヶ月休んだ。
復帰した日に塾長室に呼ばれて、「今まで怠けてたんだからもうサボってる暇はない」なんて言葉を1時間くらいかけられて、わたしは塾を辞めた。
(ちなみにこの話をクラスメイトにしたら塾長のブログにわたしのことを悪く書かれたので、わたしは大人不信になった時期がある)

近所の心療内科に行った。
「受験のストレス」当時はそう言われた。受験が終わったら落ち着くだろうということで、最低限の薬をもらった気がする。
母がスクールカウンセラーのところに行ったこともある。

学校でも勉強ができないのを誤魔化しながら通った。今までの真面目すぎる授業態度が功を奏したのか、先生の態度は塾より柔和だった。
第一志望の高校は発症前の自分の偏差値から見ると少し低めの学校だったけれど、1年近くをかけて入れるかどうか怪しくなっていった。
第一志望の高校、もともと考えていたその滑り止め、そのさらに滑り止めの他に自分では考えられないくらい偏差値の低い田舎の学校を受験した。
その高校に行って内申を相談したらびっくりされてもう推薦の枠がないことを伝えられたのを覚えている。
第一志望と滑り止めに受からなかったら死のう、そう漠然と考えていた。

結果、第一志望の高校に受かった。
というか補欠含め全ての高校に受かった。当時は人生で一番嬉しいと思った出来事だった。


切なくも素晴らしい半年間の高校生活

第一志望の高校は、思った通り自分に合った場所だった。
一人ひとりの個性が光っている。それを中学のように妬んでいじめたりする人なんていなくて、個性を尊重しながら勉強や部活や好きなことを互いに切磋琢磨している。

入学当初はなんでもできそうな気がした。いろんなことがしてみたくて毎日ワクワクした。
部活に入らない人がまずいない校風もあり放送部に入った。もともと発声や話し方について勉強をしていたので、新入部員のホープと呼ばれて舞い上がったりもしたけれど、2週間で体調との折り合いがつかなくなり退部。
5月の体育祭でダンス担当に立候補し、休みの日も学校に足を運んで練習した。体育祭は委員でもあったのでいろいろなことに携わりながらなんとか完遂した。

学校の勉強はすぐにできなくなった。
何も変わらなかった。滑る目、握れない手、重たい体。
机に突っ伏して、毎日ばれないように泣きながら眠った。
テストの日も同じ。名前だけ書いて、あとは1日中眠っていた。
先生には本気で心配されて何度か呼び出された。もちろんその中には「このままでは進級できない」という言葉もあった。
いつか状況が変わる日を夢見てわたしはこの生活を続けた。

10月に文化祭があった。
その準備は夏休みにもあり、帰宅部のわたしは時間があるだろうからとよく駆り出されていた。
出しゃばりな性格もあり、クラスでやる案について自分の内容が多く採用されたので、自分の頭の中のアイデアを人に伝えたり手を動かしたりしなければいけない機会が多くなった。それは精神的にもかなり疲れた。
結局文化祭当日から学校に行けなくなってしまった。
朝ごはんを食べ、制服に手を伸ばそうとすると涙が止まらなくなってしまう。
今までは体が重くてもなんとか学校まで行けていたのだが、涙が出てしまうともうおしまいの合図だった。
母が作ってくれたお弁当を一人家の中で食べるとまた涙がこぼれる。泣きながら観る笑っていいとも。
毎日同じ時間に目覚ましをかけ、学校に行こうとする日々が1ヶ月続いた。

あるときを境に学校に行けるようになった。
気になっていた実習があって、なんとしても行こうと思って午後から学校に向かった。
なぜかすっと、実習室に入ることができた。
その日からまた学校に通うことができるようになったけれど、クラスメイトが他人のようによそよそしくなって話せる友達がいなくなってしまったことに耐えられず結局2週間ほど通ってそれっきりだった。

教科書などの荷物は置いたままだったが、年度末にはさすがに家に持ち帰らなければならず、母がわたしの荷物を学校からすべて引き上げることになった。
家に置かれると多く見えるその教科書や体育着を見て、わたしの居場所は学校から完全になくなってしまったんだと痛感して何時間も声を出して泣いた。
持って帰ってきただけなのに、母は何度もわたしにごめんね、ごめんねと繰り返して2人で泣いていたことを覚えている。

その頃はたしか学校の先生が勧めてくれた学校近くの病院に通っていた。
メインは内科で、見た目は本当に普通の病院だったのが当時の自分にはありがたかった。



世界を卑屈な眼鏡を通して見ている

高認をとって準備期間とする

高校に行けなくなってから半年ほどは家からほとんど出なかった。
母のパートが休みの日には一緒に買い物やお出かけをした。
毎朝目を覚まして今日は何をしようかと考える日々は、義務教育がほぼ皆勤の自分には新鮮に映った。
最低限の家事だけを手伝い、洗濯物を入れるときに感じる日光や風に季節の移ろいを感じる。今はそれを気持ちいいと思えるけれど、当時は自分が世間に適合できずに何をやっているんだと責められている感覚のほうが強かった。
今でも春の気温や暖かさに触れると少しだけ焦りの感情が生まれる。

2013年の夏に高認をとった。勉強はなかなかできなかったけれど、とりあえず受けて落ちた教科だけ考えればいいと思った。中学で学んでいない世界史は大学生の幼馴染から教科書を借りて半分くらい音読しただけだったけれど、全ての教科に一度で合格できたので身体の負担は少なかった。

同じ年である高2のGW明けくらいには、一日中家にいることが退屈になってアルバイトを始めた。
家の近くのファミレス。時給は820円。朝の開店からランチ前後まで。万年人員不足で週6日働くことになって疲れたこともあったけど、不思議と体調不良につながることはなかった。優先順位をサッと組み立てて効率よく動くための考え方は、今日での仕事や料理にも生かされている。
今では考えられないような言葉を浴びせる上司の下で半年働いた。最後の日にはよく朝のシフトに2人で入っていたキッチンのおばさんと固い握手を交わしたことをよく覚えている。

働く気はなかったけれど、幼稚園の頃通っていた歯科医院の求人を母が見つけてきて2月頃から再び働き出した。
歯科医師の他になぜか若いギャルしかいなかった職場で、黒髪だし男性経験もなかったわたしは浮いた。仕事は楽しかったけれど、患者が途切れると始まる会話に入れず一人で床を磨いていたり、先輩に自分だけ冷たい態度をとられることに次第に耐えられなくなって体調を崩した。
先輩の一言がきっかけで通えなくなってしまい、荷物は再び母が引き上げた。


死ぬまいと決めた日

嘘をついていた。
ほとんどの人に、わたしは高校に通っていることにしていた。それは年に1,2度会う祖父母にも同じだった。
高校に通えなくても、勉強して大学に入ってしまえば辻褄を合わせられると思ったからだ。

そんな矢先、高2の6月に父方の祖母が亡くなった。自室で首を吊ったそうだ。
自ら死を選んだ人の、遺された家族の苦悩を一番近くで見た。
もともと毎晩晩酌をする父が深酒に溺れるようになった。
「どうして話を聞いてあげられなかったんだろう、助けを求めてくれなかったんだろう、なんでも、なんでもしてあげられたのに」
感情をあまり表に出さない父が泣いたのを見たのは後にも先にもあの一度きりだ。
嘘をついたまま亡くなった祖母に今でも思い残しがあるのと同時に、わたしは自分の一番大切な人を悲しませないためにその選択は取らないと誓った。


閉ざされた大学の扉

高3の年齢になる頃、体調も少しよくなり、大学受験を目指すべく個別指導塾を探し始めた。
たくさんの場所を比較検討して、体験授業も受けて、入学金も授業料もみんな払っていざ初回。
行けなかった。
当時頓服で処方されていた薬を3倍くらい飲んで、気絶するように4時間眠ってしまった。当時はODなんて認識まったくなくて、母には怒られた。
アルバイトはできるのに、勉強だけができない。その後も勉強ができないかトライしようとしたものの、具体的な行動には至らずに大学進学を諦めた。
ちなみに今でも大学に行かなきゃという夢をよく見るので、自分にとってどれだけの意味合いがあったかを時々振り返る。

その代わりに専門分野の勉強ができたので、歯科助手の経験から進路を歯科衛生士に定め、何校か見学して一番学費が安くて頭が良くなさそうな学校に入学した(入学試験なんてあってないようなものだった)。
物は試しの感覚だった。すぐにやめるかもしれないなら両親の金銭的負担は小さい方がよかった。

病院は高1の年齢から少し大きな病院の子どものこころ外来に通っていた。
知り合いが通っていて、初回の予約を取るのはかなり難しかったけれど親切な先生やカウンセラーさんに出会った。
大きな駅の近くにあったので、帰りに母と食事や買い物をできるのが楽しかった。



揺らぐ、のちに安定する

人がいなければ立ち直れなかった

専門学校に入学した。
最初の1ヶ月で疲れが溜まってGWと合わせて体調を崩し、通えなくなった。10日ほど休んでしまうと、主要教科の出席が足りなくなった。
たった1ヶ月しか持たなかった。自分はやはり社会不適合者だと思った。
付き合い始めた彼氏がいて、自分が幼くてずけずけと偉そうなことを言うなよと思ったこともあったけれど自分の話を親身に聞いてくれて、ダメ元でいいからもう一度だけ挑戦しようという気持ちが湧いた。
学校に行き、担任の先生に「まだ間に合いますか」と尋ねたら「もちろん」と迷わず答えてくれたその言葉に希望を持った。また学校に通えるようになっていった。


この生活が続くのだと思っていた

それからのわたしは本当に”普通”だった。
勉強をしてもしてもしわ寄せの体調不良がこなくなった。勉強が楽しい。1週間があっという間に過ぎた。
初めの1ヶ月くらいはそのしわ寄せに怯えていたけれど、次第にそれも忘れて思う存分勉強をするようになった。

10月からはアルバイトも始めた。最初は平日2日と土日どちらかの週3日、のちに平日1日と土日の週3日。平日は学校が終わったらダッシュで赴き、19時過ぎまで働いた。土日は9時から17時半まで。
彼氏とは毎週木曜に会って、祝日には終日デートをした。
たぶんこの頃がわたしの人生で一番アクティブで体調がよかった。薬も1種類1カプセルしか飲んでいなかった。
世界が広がって、お酒も飲めるようになって、さまざまな場所に出かけた。
今までいろんなことがあったけれど、自分は立ち直れたのだと思った。
こんな生活が1年半くらい続いた。


綻びは理由もなく

始めたバイト先は1年半でやめている。
同じ立場の人がおらず、テスト期間で休みたい場合には立場が上の人と交渉しなければならないのが負担だった。だから休みたいと言い出せず、言い方が奇妙になり、みんなの前で院長先生に怒られた。
アルバイト先の最寄り駅から帰れなくなり、3倍くらいの時間をかけて電車でしゃがみ込みながらなんとか自宅の最寄り駅で待っていた母と合流した。帰り道に興味半分でことの顛末を聞きたがったのだろうお局先輩から電話がかかってきて、わたしはスマホを投げた。スマホを拾い上げた母がお局先輩と1時間くらいバトルして、電話を切った後に「もう明日から行かなくていいから」と言った。
きっとその頃から少しずつ、ストレスに対してセンシティブになっていたのだと思う。

決定的な出来事があった。
Ⅲ期と呼ばれる最後の臨床実習。若者が多く集まる繁華街の近くにあり、働いているスタッフも気の強いキャピキャピした人たちだった。
ペアを組んでいたクラスメイトはわたしより4歳年上で、彼女らの懐に上手に入り込み可愛がられていた。もともと仲はよかったものの助けてはくれず、わたしはやっぱり浮いて、一人で黙りこむことが多くなった。
嫌なことなんてそれくらいだと思っていたのに、実習先に行こうと考えるたび体が重くなった。最後には死ぬ気でなんとか到着したものの開始時間に遅刻し、怒る実習担当のスタッフの前で倒れた。

特例として実習先を変えてもらえることになった。
以前お世話になった実習先。スタッフがみんな優しくて、実習時間が終わっても診療時間いっぱいまでアルバイトをさせてもらうくらい居心地のいいところだった。
しかし、そこには1週間しか通わなかった。

わたしの留年が決まったからだ。
理由は忘れ物。

偶然がひとつ。
その年から学校の理事が変わり、忘れ物をした場合も欠席扱いとなって補講での補填ができなくなった。
偶然がふたつ。
忘れ物に気づいたのは早い時間だったので、学校に置いてあった予備をピックアップしてから実習先に行こうとした。ところがその日たまたま早い時間から出勤している先生がおらず、学校が開いていなかった。

体調が悪く脳のはたらきが低下しているときには驚くほどに忘れ物をしやすい。
明日行かなければいけないところに行く、それだけで精一杯で持ち物の確認が甘くなっていた。
担任はこの偶然を配慮し、「大丈夫よ、大丈夫だからね」と言ってわたしは数日間通常通りの生活を続けた。
もし留年したら死のう、そう漠然と考えていた。

その頃心療内科は自宅から数駅のところに母と通っていた。
次に心療内科を受診したとき、ずっと辛そうな顔をしていた母が先生に向かって「実は、留年したんです」と打ち明けたとき、わたしは発狂したと言ってもいいような反応をした。
どうして言ってくれなかったのか、母を大きな声で責めたあと部屋を飛び出してビルの階段を駆けあがろうとした。それを母が全力で止めた。
「死にたい!死ぬの!死なせてよ!お願い」わたしはそう叫びながら抱き止める母を振り解こうとして本気で殴った。歳をとったと思っていた母にこんな力があると思わなくて、マイナスに支配されている感情の中で唯一母の愛だけが温度を持っていた。わたしが母に手をあげたのはこれが最初で最後だ。

家に帰って、わたしは何時間もソファに横になり泣いていた。隣に座っていた父がわたしの頭にそっと手を置き、優しく撫でた。口下手で不器用な父なりの最上級の愛情表現であることをわたしは知っていて、そのあたたかさと安心感にまた涙が出た。わたしはこの父の態度を一生忘れないだろうと思った。
学校から帰れなくなった日には、近くで働いている父が学校まで迎えにきてくれたこともあった。最寄り駅から家までの徒歩15分すら休み休みしか帰れないわたしを横で黙ってずっと待ってくれた。父はいつだってそういう人だ。



死に手が届きそうだった

ひとつめの底はここにある

新学期が始まるまで5ヶ月ほど、迷った結果やっぱりダメ元で頑張ることにはしたので、それまで休学という形をとって療養した。期限がある療養はプレッシャーだった。

それからは地獄のような日々だった。
感情の制御がうまくいかなかった。つまらないことで母を怒鳴り、物を投げ、何時間も泣き続けた。母はいつもどうしたらいいのかわからない顔をして、一緒に怒ったり悲しんだりしていた。
家から出られなかった。家で一人になるのも怖かった。ふとした瞬間に留年がフラッシュバックして泣き出してしまう。
両親とスーパーに行って、一旦自分がほしいものを探しに離れたものの、見つからなくてパニックになって電話して自分のいる売り場まで迎えにきてもらったこともあった。

胸騒ぎを止める方法を探して、過食に走った。10ヶ月で体重は16kg増えた。
文字も読めない自分が今置かれている状況から逃げ出したくて、一日中映画を観ていた。映画を観ているときだけは自分のことを考えなくて済んだ。半年近くで120本観た。

とにかく死にたかった。
薬を一切やめてしまったら離脱症状のめまいがひどく生活できなかったので、最低限の量だけ飲んだ。
自分の貯金を全部引き出して、つまらないことに散財した。新幹線で行ける一番遠いところまで行って人知れず死のうと思っていた。自殺の方法をよく調べていた。
一度だけ、本当に死ねる段階までいったことがある。
母と喧嘩して、スマホだけ持って夜に家を飛び出した。11月の少し寒くなってきた頃で、一晩外に出ていたら凍死できるんじゃないかと思った。ブーツで出てきてしまったことを少し後悔しながら、4時間歩き回って死ねる場所を探した。この場所は誰かの土地で迷惑になる、公園は人目につく、なんてことを考えて、ずっと、ずっと、自分がどこにいるかもわからず歩いていた。
そのときに分かったことは、自分にはちゃんとストッパーが機能していて、死のうと思っても最後の一押しがどうしてもできないことだった。
結局当時の彼氏に連絡して、位置情報を伝え、近くのコインランドリーを指定されて夜勤が終わったあとに迎えにきてもらった。唇がとんでもなく紫色だった。


焦りつつも回復してゆく日々

少しずつ外出ができるようになっていった。
最初は5分。徐々に時間を伸ばし、近所のスーパーまで一人で行けるようになった。
出かけるとお風呂やご飯の気力がなくなるので、介助してもらうことも多々あった。
体調がいい日にはパンや焼き菓子を焼くようになった。一人でドライブもした。
3月に友達と海外旅行の計画を立てていて、不安だったけれど最後まで楽しむことができた(ただし最終日に熱を出してしばらくイチゴしか食べられなくなった)。
日雇いのバイトができればいいと思っていたけれど、できずじまいだった。

あの日からトラウマになり同じ心療内科には通えなくなったので、子どものこころ外来でお世話になっていた先生の開業先に転院した。
言い方はちょっときつめだけど現状をよく見極めてくれるし良い先生だ。

焦る心は回復を遅らせた。新学期の前に学校に行かなければいけない用事があった。わたしは先生の話なんて聞きたくなくて、100円ショップで耳栓を買ってつけるほどだった。4月1日には絶対間に合わない状態でその日を迎えたけれど、周囲の無関心もありわたしは2周目の退屈な授業に合流することができた。



昇れば緩やかに降りる

安堵と恨みの専門学校ラストイヤー

友達がいないことは気楽だった。前の学年から留年していた元クラスメイトと少し話すことはあったけれど、基本的には群れずに一人で行動した。
もともと人に合わせることが苦手なので、快適な空間だった。

学校、特に理事を恨んでいた。
寛大な処置もできたはずなのにしなかった。殺してやりたかった。
何か復讐する術はないか考えた。わたしには勉強しかなかった。首席で表彰されておきながら卒業式をバックれてやろうと思った。だからとにかく勉強した。朝5時過ぎに目が覚めてしまうので、先生が学校のシャッターを開けるのと同時に学校へ入って図書室で勉強した。昼休みも食べ終われば勉強した。休学して読めなくなっていた毎月3冊の専門誌も、期間分含め全部読んだ。
結果、首席を取って卒業式の日には渋谷のHARBSで就職先の同期とケーキ食べながら談笑した。袴の写真を撮らなかったことだけは後悔している。


いつも性格で無駄な苦労をしている

新卒でメーカーに就職した。同期が7人いて、目立たなければ、差をつけなければといつも焦っていた。
結果出しゃばって、余計なことを言い、会社での自分の居場所が少しずつなくなっていった。
会社の人は全員敵だと思っていた。わたしのことを誰がどう言うかわからないから、常に気を張って行動や言動には一言一句に至るまで気を配っている。そうしていると、だんだん気持ちも体も重くなってきた。
朝支度している段階で帰りたいと呟き、職場で座っていられなくなると給湯室や書庫に行って隠れて休憩していた。土日は家のソファで寝たきりだった。思い切って週末に有給取得してしっかり休んだりもしたけれど、だんだん土日の2日間では疲れが取れなくなっていった。仕事の質も悪くなった。
専務に嫌われてしまい、一度仕事を干されて、自分の行いを哀れに思った上司に拾ってもらってチャンスを得た。結局また専務に文句をつけられ、窓際部署に飛ばされて退職を選んだ。
2年4ヶ月、キャリアとして学ぶことも多かったしコミュニケーション面での実りも多く、今後の自分が取り組む課題を明示しながらその日々を終えた。

退職の1ヶ月ほど前から病院を変えた。
体調不良の原因は薬で解決できるという先生の考え方が合わなくなってきた。いつかは薬を飲まない状態になりたいと思ったわたしと母は病院を調べ、診察だけでなくさまざまな診療で回復を目指す病院に転院した。それが今の病院である。
最初はTMS治療にトライして、仕事後や昼休みの時間に頑張って通ったことで少しずつ良くなっていたのを覚えている。


ジャンプに成功し新しいステージへ

2021年8月。仕事を辞め、一人暮らしを始めた。
少し、というかかなり背伸びの挑戦だった。物件から家具家電、必要なものは全部自分で取捨選択しないといけない。その選択が一度に押し寄せて疲れたこともあったけれど、自分が快適だと思う場所を1からつくれる経験はとても楽しかった。

家の近くの歯科医院に就職した。
院長先生の熱烈ラブコールに負けた形だったけれど、未経験のわたしに院長先生は厳しかった。お局先輩も教えるのが大好きなタイプの人で、「ちょっといいかな?」なんて呼び出されては裏で指導を受けた。
次第にまた行くのが精一杯になった。
勤め始めて1ヶ月で2日休んでしまった。仕事柄休みを取りたいときは数ヶ月前に申告しなければならないので、院長先生にもスタッフにも迷惑をかけた罪悪感は大きかった。
病院で仕事の立ち居振る舞い方を学びませんかと言われてコーチングを受けたことと、少しずつ仕事に慣れてきたことが相まって少しずつ体調は安定したけれど、平日と日曜の連続しない休みや日によって微妙に違う診療時間にわたしの体はついていくのでいっぱいいっぱいだった。

就職してから5ヶ月ほど経って、体調が良くなってきたので少し薬を減らした。そしたらセンシティブになった。ニュースを見て涙し、感情の波がある同僚に怒られてからまた体調を崩して過食するようになってしまった。
そこから少しずつ体調は下り坂だった。なんとか耐えていたものの、限界を感じて院長先生に勤務日数を減らしてもらえないか交渉の最中にその日は来てしまった。


底に至るまでを細かく描写する

過食をするようになった。料理だけでなく、風呂、洗濯、身だしなみ、外では見えないものから次第にできなくなっていった。入浴や歯磨きは3日に1回、食べたものや着た服は床に散らばって足の踏み場がなくなった。
家に帰ると涙が出る。帰り道で買ってきた菓子パンやお菓子を貪った後はベッドで2〜3時間泣いたりSNSをぼーっと眺めながら、身支度をやらなきゃやらなきゃと内心自分をせき立てている。できることもあるが、できないことの方がよっぽど多い。服はそのまま、メイクはシートでなんとか落として眠った。
朝も泣きながら支度をしていたことが多かった。いつもと同じ時間に起きても、倦怠感で休み休みになるので家事まで手が回ることはない。高校時代は泣いたらお役御免だったのにと思いながら、乗らないファンデーションを顔に押しつけて仕事に出かけた。

こんななので一人暮らしの家を放棄して実家から職場へ通うことになった。電車で片道1時間少しかかるが、家事を全部任せられるならそっちの方が楽そうだと両親と相談して決めた。
散らかった部屋は母が来て片付けてくれた。
2週間ほど実家から職場へ通う生活を続けた。


その日

2022年4月。その日は病院の予約があったので、次の日の仕事に備え自分の家に帰ることになっていた。
電車の中で最寄り駅のアナウンスに心がざわざわした。家の200m手前くらいで嗚咽が止まらなくなった。あの一人の部屋に、過食して泣きながら重たい身体と闘うあの部屋に帰るのかと思うと体が動かなかった。

家の近くの神社にとりあえず腰を落ち着けた。1時間そのまま泣いていた。母に電話したらもう寝ていて、友達に電話した。彼女が泊めてくれることになった。
次の日、母と友達と相談して休みの連絡を入れることにした(この時点で自分での判断はもう全くできない状態だった)。不幸にもその日は土曜日で、予約が埋まっているからできるなら来てくださいと言われた。わたしは行くことにした。
電話越しの母は泣いていた。友達は「熱と何が違うん」と激怒していた。そんな彼女と表面的なケンカのような状態で家を出た。
彼女の家は職場から歩いて10分の距離にあった。10分ならなんとか通勤できるんだ、と思った。

仕事はなんとか終わらせて、終業後に改めて院長先生に少しお休みをもらえないか相談した。やはり仕事の性質上難しくて、その話を聞きながら泣いてしまったら院長先生は困ったようにメガネのつるを持って振り回していたのが印象に残っている。
職場の最寄り駅にある自転車置き場の横にしゃがみ込んで泣いた。道ゆく人が何人も大丈夫ですかと声をかけてくれて、その度に大丈夫ですと答えた。このシチュエーションは初めてじゃなかった。だからこそ、こんなことを繰り返していくのかと自分にうんざりもした。恥ずかしかった。

後日、病院へ行って休職を勧める診断書を出してもらった。就業規則で勤務の期間が短すぎて休職ができないと言われ、その場で退職を申し出た。
申し出たはいいけれど、人が足りないので毎週土曜は出勤してほしいと言われた。通常は3ヶ月前に退職を申告しなければならないので、負い目を感じて仕方なく週1日だけ続けることになった。

その帰り、実家の最寄り駅のスーパーでお菓子を手当たり次第にカゴに入れていくわたしの姿を見て、母は一瞬辛そうな顔をしてわたしのことを叱った。こんなになるまで自分を犠牲にしちゃダメだと。わたしはスーパーで声を出して泣いた。

この頃に病院で双極性障害の可能性を指摘され始め、治療薬も変わってきた。



10年前には考えられなかった生活

ふたつめの底、新しい生活の形態

留年した頃と同じような生活が戻ってきた。自分の家には帰れなかった。つまらないことで母を怒鳴り、物を投げ、何時間も泣き続ける。自分の意識の外で人をなじるような話し方をするので、母を何度も泣かせた。
体調の回復は目覚ましく、実家近くのジムを1ヶ月だけ契約して週5日くらい泳いだ。食事制限もできるようになったので、8kg増えた体重は次第に落ちていった。
1ヶ月も経つと仕事のシフトも半日増やせるようになった。

自分の家に帰るためのトレーニングメニューを組んだ。まずは車で両親と、次は一人で2時間滞在、といったように少しずつ時間を伸ばしていった。2ヶ月後には1週間の半分を自宅で過ごすようになった。
仕事の次の日には1日寝込んでいたのが半日になり、生活の時間が伸びていった。

今までもフルタイムの学校や仕事に縛られない生活は経験していたけれど、実家にいた頃よりもずっと自由度が増えた。一人で東京のいろんな場所や国内旅行にも行くようになった。
実家に数ヶ月帰っていたことで、築いた交友関係はリセットされてしまったと思ったけれど(自分の今までがそうだったので)、いろいろな人が心配していてくれ、また仲間に入れてくれた。楽しい日々も少しずつ戻ってきた。


みっつめの底あるいは天井

シフトを少しずつ増やし、週3日にしたときに体調の変化は訪れた。
1週間のおよそ半分を仕事に費やすため、「明日は休みだけど明後日は仕事」という状況が起きる。それがたまらない恐怖になった。
家に帰ると明日の準備をしなくちゃいけない。再びその恐怖に怯え、家のことを考えると体が重くなり、人といるときだけ普通に振る舞えるようになった。
しっかり寝て体が回復するとイライラしたり思考がネガティブになる。しかし夜中まで遊び歩いても日中には倦怠感が強くなかったため、2日に1回はバーで夜中までお酒を飲んでいた。
双極性障害について学び始めたのなんてここ数ヶ月で、自分の上の状態を意識したことがなかったけれど、これは確かに躁だった。

酒を飲みたがる女はけっこうモテた。タダ酒にありつけるバーを覚えてテキーラを求めて通った。お店から出ると決まって呼吸が速くなった。
何かを解決することはないけれど、考えが自分の内面から離れてどうでもいいことにゲラゲラ笑うのは楽しかった。帰り道の歩道橋に差し掛かると飛び降りることをいつも考えていた。

楽しさと、抗えないくらいの胸の苦しさを四六時中抱え、回復しきれない疲労を少しずつ蓄積させながら再び限界を迎えた。


その日は一度とは限らない

体が全く動かなくなったので、2日間実家に帰っていた。実家から職場に向かう予定だった。明日が仕事だと思うとよく眠れなくて、朝目覚めると体は鉛のように重く、化粧の時間もなくなって泣きながら家を出た。
最寄り駅までは母が荷物を自転車に乗せて一緒に来てくれたけれど、わたしの足取りは重く、途中壁に手をつきながら、腰を曲げてつんのめって転びそうになるところに前足を放り出すような、誰から見てもおかしい歩き方をしていた(ゾンビ歩きと母が命名)。なんとか駅には着いたけれど、当然カバンが持てるはずもなく、立つ気力もなくなってしまった。
予定の電車をとっくに逃し、駅前で母と「帰ろうよ」「行く」の押し問答を20分ほど続けた後にわたしが折れて家に帰ることになった。行きの倍の時間がかかった。

「誰かが患者さんに連絡をしなくちゃいけないから、一刻も早く休みの連絡を入れなきゃ」そう思っていた。
家の中に入った直後に別の考えが浮かんだ。
「職場で悪口を言われるかも」
そう思ったら行かなきゃと思ってパニックになってしまった。先にリビングへ入ろうとしていた母に「カバン持ってこい!」と怒鳴った。
びっくりしてカバンを持ってきた母に「行く!」ともう一度怒鳴った。勢い余って壁を思い切り殴った(壁は無事だったけどこの後わたしの手は大あざになった)。
母は半分呆れたような、困ったような顔をしていた。わたしの心のどこかは少し遠くから「怒鳴ることないのにね」「行けるわけないけどね」と冷静に見つめていた。
玄関に倒れ込んでただ声を出しながら泣いた。

実はこれで終わりではない。
1週間休みをもらって、9日後に出勤しようとしてまた失敗している。
そのときは自宅で、いくらでも時間をかけられるなら転がってでも行くのになあと考えたけれど、さすがにこの街には知り合いも多いので見つかったらまずいと思い諦めた。
玄関で靴まで履いたけれど扉が開けられないまま横になった。母からこちらに来ると連絡が入っていた。水筒の蓋がきちんと閉まっていなかったのか水が漏れて、少しずつひんやりとしていく背中を感じながら母が到着するまでの1時間をぼんやりと過ごしていた。


退職とリハビリ

その後、結局わたしが仕事に行けることはなく、父が院長先生に電話をかけて退職の手筈を整えてくれた。実に半年越しに退職が実現したのである。このとき2022年11月。
退職してしまったら、院長先生が紹介してくれて今では居場所となっていたバーに行けなくなるのではと心配していたけれど(そのせいで行くことにこだわっていた節もある)、父と先生が円満に解決してくれて変わらずバーに行くことができた。

しかし、やっぱり何もない生活は物足りなかった。
リハビリとして週1から働きたい自分と、年末で猫の手も借りたい院長先生の需要と供給がマッチしてわたしは1ヶ月で再び働き始めた。今度は分院だったので、散々迷惑をかけて陰口を言われたであろうお局はいない。自宅から徒歩5分の好立地で、体調が悪ければ昼休みに帰宅できるようになった。
院長先生に可愛がられていたわたしに院長反対派の先輩は一言も口を聞いてくれなかったけれど、彼女はもともと退職予定だったので特に気にならなかった。この辺り自分の人間としての成長を感じるけれど、それは今回の本題から外れてしまうので割愛する。



現在に至る低空飛行

薬に支配される自分に嫌気がさす

2022年11月頃から同じ病院内で先生が一旦変わり、精神科の薬に詳しい先生が診てくれることになった。今よりも高い水準で体調を整えられるならと思っての判断だった。
聞いたことのない薬を何種類か処方され、飲み始めると体や気分に変化が起きた。

まず、便秘と腹部豊満感がひどくなった。お腹がずっと苦しくて、夜中に嘔吐したこともあった。市販の便秘薬を足してもよくならないため、定期的に浣腸を使っていた。
次に睡眠時間が短くなった。今まで服用している薬によるが8〜10時間は寝ていたところ、7時間連続で眠れなくなった。早朝から出かけたり用事を済ませたりできるので自分としては少し嬉しかったけれど、自分の体の中で何が起きているのかわからなくてできるだけ昼寝をとるようにした。
さらに、食の嗜好が変わってしまった。自分で作った料理がおいしく感じないので外食ばかりしていた。便秘などのストレスで過食気味だった。夜になると気持ち悪くなるので、薬を飲むのにすごく苦労した。水分も厳しいのでバーから遠ざかった。
最後に、意欲が減退した。新しい人と話すこと、趣味の水泳や筋トレをする気分にはなれず、このときは飽きたのだと思っていた。大好きな両親も、2日も実家に帰っているとイライラしてしまうくらい自分以外の不確定要素が苦手になった。

すべてが嫌になった。いっそのこと薬をやめてしまえばこの悩みから解放されると思った。
そしてわたしは全ての薬を飲むことをやめてしまった。
2,3日はハッピーだったけれど、離脱症状が出てきて今までの副作用とどちらが大変かわからなくなった。だけど今までよりずっとマシだと思った。


空白の2ヶ月間

2週間ほどすると身体が言うことをきかなくなってきた。旅行をきっかけに体調を崩し、そこからよくなることはなかった。
1日のほとんどをベッドで寝て過ごした。傾眠傾向だったのだけが救いだった。映画を観ながら寝落ちしていると部屋は暗くなっていた。そんな毎日。
入浴や歯磨きはまた3日に1回になった。1日1回コンビニやスーパーになんとか出かけ、お菓子やお弁当を山ほど買ってひと息に食べてしまう。判断力がないので、何をどう食べたらいいかなんてもうわからなかった。前の生活から過食が続いているので、6ヶ月で8kg増え、体重は人生最高になった。
週1日の勤務日は、帰り道にあるコンビニ全部に寄って菓子パンやスイーツを買い漁る。家まで耐えられないので歩きながら食べる。食べた後ベッドに横になって、たまに寝落ちもするけど3時間ほどスマホをいじって身支度を試みる。大抵はそのまま眠ってしまう。

新しい薬はすぐに効くわけでもない。10日くらいかけてゆっくり効果が出て、血液検査をして次の来院まで1,2週間、濃度が足りなかったら増やしてまた10日。
日々の苦痛に薬の効果が追いつかなくて、毎日何もできないことがさらに苦痛だった。ここは永遠に続く地獄だと思った。
わたしの人生は2ヶ月飛んでいる。そう言えるくらい何もできない日々だったし、脳がうまく働かなかったのか記憶があまりない。


可能性を模索する

薬が効いて体調が良くなってきたのは2023年4月中旬から(今年もこのくらいに体調が良くなっているので、やはり冬季うつかもしれない)。
睡眠時間が12時間と大きな犠牲を払うことになったけれど、寝たきりよりよっぽどマシなのでわたしはこれを受け入れた。
小さな躁の波が2つくらいあった。1つはライティングの仕事に舞い上がった。2つめは人にお説教を食らった。1つめの波の後にすごく嫌な経験をして、ストレスで寝つきが悪くなったり髪の毛が異様に抜けたり生理が遅れるようになったりスマホの光が眩しくなったりした。健康診断で異常はなかった。2つめの波でアルバイトの面接を受けまくったけど全く引っ掛からなかった。

以前よりずっと体調の水準が低い。すぐに疲れたり体調を崩してしまう。仕事も週2日が限界のようだ。
自分はもう、学生時代のようなアクティブさには戻れないのだろうか。
正社員として働くことをやめて1年以上が経ち、貯金は波打ち際の砂の城みたいに驚くほど早く目減りしていく。この生活は長くは続けられない。
一方でただ実家に帰りたくはなかった。元来自分はやりがいを求めることが好きで、自己成長はライフワークなのだ。
フリーランスとして生きる道、別のアルバイトを探す道、いろいろ試そうとして体調が邪魔をした。どれを試してもこれじゃないと感じてしまう。

病院で体調について相談すると、わたしを2年以上診てくれている先生はこう言った。
「窮屈になっている原因を取り除けば良くなるかもしれません」
自分にとって思いつく窮屈は仕事しかなくて、でもたかだか週2回の、いい人たちに囲まれたあの場所で、苦手だった仕事内容も時間をかけて負担が少なくなってきたところだったのに。
それでも仕事を辞めなければ、そのとき思った。でもこれだけ騒ぎを起こして何度も雇ってもらった院長先生には恩がある。自分の体調が続くなら、その恩を返し続けたい。だけど今の環境で自分ができることにはもう限界が来ていた。数ヶ月かけてじわじわと体調は悪くなっていた。
1ヶ月考えた末、院長先生に退職を申し出た。先生はわたしの未来のためならとあっさりと受け入れてくれた。

こうしてわたしは2023年末に仕事を辞め、無職になった。



エピローグにかえて

仕事の最終日を終えてからの2週間くらいでの回復はすごかった。
しかしショックな出来事もあって、わたしは人生で初めて精神的な不調で食事が取れなくなった。
嫌な人たちの嫌な出来事に頭を支配される中で、自分の中に生まれたやりたい仕事のイメージだけが宝物だった。1日に何度も胸から取り出してビー玉みたいに眺めていた。
体調は回復しきらないけれど、新しい世界を見なければと思ってマッチングアプリを始めた。
そこで出会ったのがあなただ。この後はあなたが知るとおり。

恋人ができたからといって劇的に体調が良くなったわけではない。むしろ一旦悪くなったので、誰を憎めばいいかわからない虚しい気持ちになったこともある。あなたがいなければわたしの今の体調はもっと安定していたんじゃないか、と卑しい想像をしたことも1度や2度ではない。
それでもこれからの道をあなたと歩んでいきたい。あなたがあの日言ったように、わたしも一人で歩けるのはここまでが限界だったのだ。

わたしと両親がこの病気と向き合ってきた過去の記憶をここであなたにみんな渡す。わたしの人生がこの浮き沈みの辛い記憶だけでないことを、もちろんあなたはわかっていると思う。
ここからは、わたしとあなたの物語。この先わたしたちにはどんな未来が描けるだろうか。
どんなにつらくても、あなたと歩いていけるというだけでわたしの胸は躍る。

二人なら、きっと大丈夫。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?