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引っ越す家へのラブレター

2024年5月7日、わたしはあなたのもとから離れました。
恋人と新しい生活を始めるためです。
わたしにとって唯一1人で生活を営んだ場所となったあなたには、たくさんの思い出と感謝の気持ちでいっぱいだから。
この気持ちを、最後にあなたに伝えたいと思います。



2021年8月16日。
両親の助けを借りて、海外旅行用のスーツケースひとつでやってきた。
小田急線の駅から徒歩10分。6畳1Kで家賃は54,000円。商店街をずっと歩くので夜でも安心だと両親を説得した。
ずっと憧れていた、遠くにあると思っていた生活が、踏み出すとあっさりと手に入った。不安と興奮が100%を超えて大増殖。
必要なもの、必要のないものを1から考え直した。自分にとって居心地の良い空間を作るのは苦労もあったけれど、家にあるもの全てが愛おしくて仕方なかった。

幅40cmの、料理するためには作られていないキッチン。ワゴンや突っ張り棒で工夫してほとんど毎日料理をしていた。
1畳くらいのスペースしかないお風呂には毎日お湯を張って、体育座りで湯船に浸かる。
洗濯機の上にはランドリーラックが置けなくて、天井まで届く突っ張り棒を買ってきて自分で作った。
狭かった。けれど、わたしだけが全てを把握して考え抜いた動線に不思議と不便は感じなかった。ずっと前から思い描いていたことを現実にしていく作業にいつもワクワクした。わたし1人が生活するには広すぎるとさえ思っていた。

きっとアジア圏の人が隣の建物に越してきたのか、バスマティライスやレモングラスのような匂いがする廊下。
友達を呼んで深夜まで騒ぐ上の階の大学生。たまにしか帰ってこない隣の部屋の人。
斜向かいに住んでいて、いつも挨拶や簡単な会話をしてくれるおじいちゃん。
歩いて1分のところにバーがあって、1人が物足りなくなるとその場所へ通った。わたしの生活を助けてくれる人、一緒に遊んでくれる友達、たくさんの人と出会った。
安いスーパーやコンビニもすぐ近くにあって、初めて1人で生活をするには十分すぎるくらいの場所。わたしの大好きな場所。

わたしは、自分の家は自分の心だと思います。
中はぐちゃぐちゃで散らかっていても、外に見せる姿はきれいにできたり。本当に気を許した人にしか立ち入ってほしくないと思ったり。
誰にも見えないこの場所で、たくさん悩んで、苦しんで。
あなたはわたしの心で、それを一番近くで見ていた。

2年前、わたしは大好きだったはずのあなたのところへ帰れなくなった。家に帰ることは、わたしが自分の体調と闘うことと同義になってしまった。
けれどあなたは、何週間あいたとしても変わらぬ姿で待っていてくれた。
虫が湧いていたら、何かが壊れていたら。そんな心のざわめきを抑えながら扉を開けて、何も変わっていなかったあなたの姿にわたしはとても安堵した。
最初は15分、次第に2時間、1泊、2泊。ゆっくりじっくりいられる時間を増やしていけたのは、いつでもあなたがそこで待っていてくれたから。
帰りたいと思わない日はなかった。だから、変わらずそこにいてくれてありがとう。
ずっと待っていてくれたあなたと、再び優しく迎えてくれた人たちと、たくさんの支えがあって今のわたしがここにいる。


引越し業者が嵐のように荷物を運び出して去っていって、残されたこの部屋は以前のように広くは見えなくなっていた。
どうしてだろう。もしかしたら、わたしがもう1人じゃなくて、わたしのことを助けてくれる誰かとずっと一緒にいるからだろうか。

今わたしは、広くなった家で新しい生活を始めています。
前のように安いスーパーが見つからなくて、近所のお店を何軒もはしごしている。
一緒に住む人は左利きなので、右利きと左利き両方に生活しやすい空間を作るのに少し工夫も必要ですが、必要なものを話し合って決めていくのは新鮮で楽しいです。
あなたにいた頃のように工夫を凝らしたり、新しく何かを買うことを我慢したりしなくても、物の置き場所がたくさんある。逆に今までの考え方では余ってしまうくらい。
それでも、歩数の多くなった生活やまだ効率の悪い動き方に毎日あなたを思ってしまうのです。



ねえ。
あなたはまた次に住む人の苦悩も、喜びも、一番近くで静かに見つめるのでしょうか。
善いことも悪いことも全て呑み込んで、ただ1人のためだけの自由な空間を作ってあげるのでしょうか。
わたしがそうだったように。

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