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戦国note

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#戦国時代

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

猪崎城~福知山のハノイの塔?

 京都府福知山市の城といえば、もちろん福知山城が挙がります。  しかし、福知山市内には別の城跡もあります。福知山城の北2キロ弱ほどの距離にある猪崎城は、史跡として整備され見学もしやすい中世城郭です。塩見氏という丹波の国人の城でしたが、明智光秀が丹波を攻略した際に落城。城主の塩見家利は討ち死にしたといいます。  今回の旅では、福知山駅でレンタサイクルを借り、福知山城~猪崎城を回りました。  福知山城から北進し、由良川を渡ります。途中には、明智光秀が治水のため築いた堤防の一部

福知山城~明智光秀が築いた名城

 京都府福知山市にある福知山城は、続日本100名城のひとつです。もとは丹波の国人の城でしたが、丹波を平定した明智光秀によって「福知山城」と改められ、近世城郭が築かれました。  城代には、光秀の甥である明智秀満が置かれましたが、本能寺の変の後に明智氏は没落します。その後も、交通の要衝にある福知山城は福知山藩庁として機能し、江戸時代には朽木氏などの大名が入りました。 福知山城の立地 由良川を天然の水堀とし、小高い丘に築かれているため福知山盆地を一望できます。  JR福知山駅か

勝竜寺城~細川ガラシャゆかりの城

 勝竜寺城は、京都府長岡京市にある城跡です。江戸時代初期に廃城となったため遺構は少ないですが、近世城郭の原型になった城として重要です。  足利義昭を奉じて入京した織田信長は、三好三人衆の石成友通が籠る勝竜寺城を攻略。同城を細川藤孝(幽斎)に与えました。  藤孝は、小規模な砦であった勝竜寺城を大規模な城郭に改修。勝竜寺城は天守や石垣を伴う近世城郭の先駆けとなりました。一般に近世城郭の祖とされる安土城よりも5年も先行しています。  現在、勝竜寺城跡は公園として整備されていま

大和郡山城~秀吉の弟が整備した名城

 奈良県大和郡山市にある郡山城は、石垣や水堀などの遺構が多く、続日本100名城にも選定されています。  大和(奈良県)は京都や大阪に近く、政治的に重要な地域でした。郡山城は大和の支配拠点であり、織田信長は筒井順慶を、豊臣秀吉は弟の秀長を城主とし、大和を任せました。  江戸時代にも、郡山城には水野氏や柳沢氏などの譜代大名が入りました。郡山城は、時の支配者の信頼厚い人物が城主に任じられる城だったのです。 天守台の「逆さ地蔵」 郡山城の最大の見所は、やはり天守台です。  郡

【書評】平山優「武田氏滅亡」(角川選書)

 武田信玄(晴信)といえば、最も人気の高い戦国大名の一人です。「最強の戦国武将」系のアンケートでは必ず上位に来るといってもいいでしょう。  しかし、信玄の死(1573年)からわずか10年足らずで、後継者の武田勝頼は織田信長によって滅ぼされます。  「最強」だったはずの武田氏は、なぜあっけなく滅亡したのか。本書は、勝頼の家督継承から滅亡までを丹念に描いた700ページ超の労作です。  父・信玄の築いた領国を維持できなかったことから、勝頼には「暗愚」「無能」のレッテルを貼られ

【城郭ミステリー】変な城

 これは、ある城の縄張図である。  あなたはこの城の異常さがわかるだろうか。  おそらく、一見しただけではごくありふれた近世城郭に見えるだろう。  しかし、注意深くすみずみまで見ると、城中そこかしこに奇妙な違和感が存在することに気づく。  その違和感が重なり、やがて一つの事実に結びつく。…… 「変でない城」とは パロディはここまでにしておいて、この城のどこが「変」なのか解説していこう。  城は築かれた地形によって、「山城」「平山城」「平城」に分かれる。下図の姫路城

深大寺城~都内に残された戦国の城

 南北朝時代~戦国時代にかけての動乱の時代、各地に城が築かれました。しかし、その多くは開発の波に飲まれ遺構は破壊されています。  東京都調布市にある深大寺城は、大都市近くの中世城郭としては例外的に保存状態が良く、国指定史跡となっています。 北条氏VS.扇谷上杉氏 16世紀前半、武蔵国に勢力を伸ばしたのが扇谷(おうぎがやつ)上杉氏です。しかし、相模国からは新興の北条氏が攻め込み、上杉氏を脅かしていました。  深大寺城は、扇谷上杉朝興によって改修され、防衛拠点となります。し

【書評】金子拓「長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像」(中公新書)

 天正3年(1575)に起きた長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を撃破しました。  教科書に載る「長篠合戦図屏風」には、織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲隊の活躍が描かれています。いわゆる「三段撃ち」が後世の創作ということは一般にも知られてきましたが、「織田信長が鉄砲を活用した戦い」という認識が普通でしょう。  昨年発行されたばかりの本書は、これまでの長篠合戦の研究をコンパクトにまとめ、現時点での学術的な「長篠合戦像」を提示した一冊です。  三段撃ちの虚飾以

本佐倉城~千葉氏の本拠となった土の要塞

 本佐倉城は、千葉県佐倉市と酒々井町にまたがる城跡です。近くにある佐倉城とは別物です。 本佐倉城の来歴 本佐倉城は佐倉城よりも前の時代、下総の豪族・千葉氏の居城として築かれました。千葉氏は戦国時代に北条氏の傘下に入りましたが、小田原征伐後に豊臣秀吉に所領を没収され、没落します。江戸時代初期に佐倉城が築かれると、その役割を終えました。  本佐倉城は国指定の史跡であり、続日本100名城に指定されています。  現在史跡公園として整備されているのは、上の図の「セッテイ山」~「城

松戸市・流山市の隠れた名城~根木内城・小金城・前ケ崎城

 千葉県松戸市・流山市といえば東京近郊のベッドタウンです。そんなところに城跡があるとは、思いもよらないでしょう。  しかし、「城跡は日本全国どこにでもある」と言っても過言ではありません。今回は、交通の便利な住宅地の中に保存されている三つの城跡を紹介します。いずれも、下総の国衆・高城氏が築いた城です。 根木内城(ねぎうちじょう) 常磐線北小金駅から南東へ徒歩15分ほどで、根木内城址公園につきます。戦国時代に高城氏の居城でしたが、天文6(1537)年に小金城に本拠地を移しまし

名君 大友 義長

大友義鎮の祖父として名君とも呼ばれたこの人物の紹介をしないわけにはいきません。生誕は1478年(文明10年)、豊後国の大友氏18代当主・大友親治(おおとも ちかはる)の子として誕生。幼名から名前の改めは6回。塩法師丸(しおほうしまる)、五郎(ごろう)、親匡(ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)とある。 先代の父子対立による家中の混乱を鎮めた父の親治により、1497年(明応6年)、当主として擁立。治世の大半は隠居した父・親治との共同統治だった。義長(このとき親匡)、

湯築城~見事な水堀を持つ中世城郭

 愛媛県松山市にある名城といえば、言うまでもなく松山城が挙がるでしょう。  知名度では劣りますが、松山城から路面電車で10分ほどの距離に「湯築城」という名城があります。日本100名城のひとつで、道後温泉のすぐ近く。現在は「道後公園」として整備されています。  湯築城は伊予の豪族・河野氏の本拠地です。築城は南北朝時代で、天文4(1535)年ごろに河野通直が改修したとされます。 伊予の豪族・河野氏の城 土づくりの中世城郭ですが、二重の水堀に囲まれている点が珍しいです。中央の

伊予松山城~貴重な建築が多数現存する城

 愛媛県松山市にある伊予松山城は、現存天守のある12の城のひとつです。天守以外にも残存建築が多く、21棟が重要文化財に指定されています。これは、姫路城(74件)に次ぐ日本で2番目の多さです。 重要文化財の現存天守 松山城の築城を開始したのは、豊臣秀吉に仕えた武将・加藤嘉明です。関ヶ原の合戦で東軍に与し、伊予20万石の大名となりました。嘉明が会津に移封された後、松平氏の時代に城が完成しました。親藩の普請であるため、現存天守で唯一、瓦に「葵の御紋」を持ちます。  伊予松山城の