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名君 大友 義長

大友義鎮の祖父として名君とも呼ばれたこの人物の紹介をしないわけにはいきません。生誕は1478年(文明10年)、豊後国の大友氏18代当主・大友親治(おおとも ちかはる)の子として誕生。幼名から名前の改めは6回。塩法師丸(しおほうしまる)、五郎(ごろう)、親匡(ちかまさ)、親元(ちかもと)、義親(よしちか)とある。

先代の父子対立による家中の混乱を鎮めた父の親治により、1497年(明応6年)、当主として擁立。治世の大半は隠居した父・親治との共同統治だった。義長(このとき親匡)、親治が押し進める外交政策のはじめは大内義興(おおうち よしおき)支持であった。これは足利義材(義植)が大内義興の元に居たためとされている。しかし大内義興は大友家の家督が義長であることを不服とし、大聖院宗心(大友親綱の六男)の家督相続を主張した為、関係が険悪化した。足利義材(義植)が仲裁し一時的には和解したが大内氏とは距離を置くようになる。結果、細川政元の擁立する将軍、足利義高(義澄)を援助し、大聖院宗心(大友親綱の六男)を周防に追放した。
1501年(明応10年/文亀元年)将軍 足利義高(義澄)が大友義長(このとき親匡、親元)の家督を承認。豊後・筑後・豊前守護を任じる。この時、足利義高(義澄)の諱をもらって義親と名乗った。

1507年 細川政元暗殺(永正の錯乱)
将軍 足利義高(義澄)の後ろ盾であった細川政元暗殺で機内が混乱し、その混乱に乗じて大内義興が足利義材(義稙)を要して上洛。足利義材(義稙)を将軍の座に復帰させた。
大友義親(義長)はこの時大内氏を支援。豊前守護を大内義興に譲っている。しかしながら豊前、筑前の各地では大内軍との攻防を繰り返されるようになる。
大友義親(義長)はこの後、領土拡大を肥後に定め、菊池氏の家督争いに介入していく。家督争いで表面上は菊池政隆を支持。しかし密かに阿蘇惟長(菊池武経)の菊池氏乗っ取りを支援した。
1506年 肥後、筑後侵攻。
阿蘇惟長を支援する目的で侵攻。1509年に菊池政隆を自刃に追い込んだ。さらに支援した阿蘇惟長も薩摩に追放した。菊池氏家臣団を調略し、自分の子どもの重治を菊池氏に入嗣させた。
1513年 筑後の星野氏、国人衆を鎮圧。
大内氏に通じて謀反した星野氏、国人衆を長年の対陣の末鎮圧。

1515年 この親安(義鑑)に家督を譲り隠居。しかし共同統治の形で実権は握り続けた。
1518年 朽網親満の反乱鎮圧
加判衆だった朽網親満が親安(義鑑)に家督を譲り隠居したことに不満をもち大聖院宗心(大友親綱の六男)擁立という反乱を鎮圧。
1518年 死去 40歳 
死後は父 親治が親安(義鑑)の後見人として支援している。
大友義長は「義長条々」という分国法を定め、家庭のあり方や、政治の行いについて書いている。さらに死後、警戒する一族も指摘。筑後、肥後の星野氏、阿蘇氏、相良氏を警戒せよとあげ、さらには一門の田原氏にも警戒を指摘している。(これらの一族はいずれも以後謀反、反乱を起こしている。)
大友一族の繁栄の基礎を作った戦国初期の名君として覚えて起きたい人物。中央の政治にも介入しながらその視線は領土拡大に向けられており、権威だけでは支配ができない現実をみた名君といえる。大内氏と争いながらも子の親安(義鑑)の縁組みを大内氏から選んだり、一筋縄ではいかない策士だったと思われる。薩摩との同盟もこのあたりでできたのではないでしょうか?あと10年生きていれば肥後制圧をなし、龍造寺の台頭をも防げたかもしれない人物ですね。大友宗麟が幼少期にこの人物に合っていればなあ、もう少し違う人物になったと思うんだけどなあ。毛利元就には後手後手で島津にはかたなしだったもんなあ。

大友義長でした。






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