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戦国note

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#織田信長

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

【書評】金子拓「長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像」(中公新書)

 天正3年(1575)に起きた長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を撃破しました。  教科書に載る「長篠合戦図屏風」には、織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲隊の活躍が描かれています。いわゆる「三段撃ち」が後世の創作ということは一般にも知られてきましたが、「織田信長が鉄砲を活用した戦い」という認識が普通でしょう。  昨年発行されたばかりの本書は、これまでの長篠合戦の研究をコンパクトにまとめ、現時点での学術的な「長篠合戦像」を提示した一冊です。  三段撃ちの虚飾以

【書評】和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)

 数多の戦国武将の中でも、柴田勝家はかなり有名な方です。織田信長の重臣であり、信長の死後、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れました。  猛将として知られる一方、歴史の敗者である勝家には負のイメージも付きまといます。創作では、あまり頭のよくない猪突猛進型の武将で、時代の流れについて行けず敗れ去った――という人物造形になっていることが多いようです。  しかし、勝家については同時代の史料に乏しく、実像は謎に包まれています。本書は、これまで意外となかった柴田勝家の本格的な評伝です。

安土城~近世の始まりを告げた城

 安土城は、織田信長が築いた城としてあまりにも有名です。  昨年、彦根城や観音寺城と一緒に訪問しようとしたのですが、台風の接近で安土城だけ断念。今年リベンジしてきました。  まもなく安土城の発掘調査が始まるとのことで、現在の安土城の姿がみられる最後のチャンスだろうと思い、酷暑をおして登城しました。 壮大な大手道 JR安土駅から徒歩約15分。まず目に入るのが、大手門西側の石塁です。  門をくぐると方形の狭いスペースに入り込む桝形虎口になっています。  入城の受付(摠見寺

「清須会議」の嘘~秀吉は三法師を傀儡にしたのか

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により、織田信長・信忠父子は自害しました。しかし、ほどなくして羽柴秀吉が中国地方から帰還し、明智光秀を討ち取ります。  その後の6月27日、尾張国清須城において、織田家の重臣が集まって権力の方針を話し合った「清須会議」が開かれました。参加者は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興です。 「清須会議」とは何か 一般に、清須会議の模様は次のように理解されています。  信忠が死んだため、次男の信雄、三男の信孝が家督を争った。勝

本能寺の変で運命が狂った人々

 1582年、明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変。信長が自害し、豊臣秀吉が天下を取るきっかけとなった重大事件であることはいうまでもありません。  本能寺の変の影響は極めて大きく、とばっちりのようにして命を落とした人物も多くいます。 直接的な犠牲者 明智光秀が襲撃したのは、信長の宿泊する本能寺、嫡男信忠が立てこもった二条御所です。  信長の小姓である森蘭丸・坊丸・力丸の兄弟が戦死したことはご存じの方が多いと思います。  それ以外にも、京都の行政を担った優秀な行政官であっ

【六角氏特別展】安土城考古博物館へ行ってみた‼️

もう10年以上前に訪問して以来の再訪となるこちら、安土城考古博物館🎓安土城🏯跡(滋賀県)の直ぐ近い場所にあります。 戦国時代のかつては、城下町でもあり、どうなっていたのかはわかりませんが、現在はのどかな田園風景が広がります。 そんな博物館🎓で、現在面白い特別展が開催されています。それは…「六角氏だってすごかった展」です! 正面上部に特別展の大看板が上がっています!博物館は、中世ヨーロッパのお城🏰のような佇まい。 エントランスには、しっかりとセンサー式体温計・消毒液など

細川藤孝で考える🤔したたかなプリンス(貴公子)とは?~前編~

細川藤孝(幽斎)、その男は戦国時代の中でも、かなりしたたかである。 彼は三淵家という足利将軍近習の名家に生まれ(将軍御落胤説等、諸説あり)、その教育と血統により、学識・教養高く、武勇に優れ、容姿も端麗だったに違いない。 ☝️細川藤孝(幽斎)の顔グラと優秀なスペック!名将と言って間違いない! が、その人生は決して平坦ではない。若き日は京から追い落とされた将軍と共に、朽木(今の滋賀県大津市の山中)に長く潜伏したり、北陸の朝倉家や近江の六角家に世話になる為にその調整役も担って

『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく⑤~つつもたせ事件

前回はこちら。 『信長公記』の本筋に関係ない記述を紹介していくシリーズは、今回が一応最終回です。 つつもたせ事件(巻十四の二十二) 天正9年(1581年)12月のできごとである。  近江国の野尻の郷という場所に、延念という徳のある僧侶がいた。ところが、蜂屋の郷の「八」という男がつつもたせを企て、若い女を用意した。  雨の降る夕刻、女は延念の寺に駆け込んでしばらく宿を借りたいと願った。僧侶は「迷惑である」と言ったが、女は庭の隅で火を焚いて居座った。そこに男が押し入って、

『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく④~京都四条の殺人事件

前回はこちら。  天下人・織田信長の事績を記した良質史料『信長公記』の、本筋に関係ない記述を紹介する本シリーズ。  今回は天正7年(1579年)のできごとです。おそらく、京都の町中で話題になった出来事を書き留めたものでしょう。 京都四条小結町の殺人事件 京都で前代未聞のことが起こった。京都四条の小結町に、70になる後家の老婆と娘が暮らしていた。4月24日の夜、娘は上等の酒を買い求め、母に飲ませた。娘は、寝てしまった母を刺し殺し、革張りの丈夫な籠にいれてしっかりと縛った。

『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく①~妖刀のたたり

『信長公記』は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将・太田牛一が書き残した史料です。桶狭間の戦いや長篠の戦いなど、信長の生涯のできごとを知るための基本史料です。  記述も詳細で精度が高いと評価されていますが、通読すると面白いことに気づきます。  若いころ「うつけ」と呼ばれた信長の奇行、斎藤道三と対面した逸話、浅井久政・長政父子と朝倉義景の髑髏を酒の肴にした――といった有名な話に混じって、世間の人々の噂になった事件など、大衆紙の三面記事のような記事がしばしば挟まっているのです。

【書評】『現代語訳 信長公記』(ちくま学芸文庫)

 織田信長の家臣であった太田牛一による信長の一代記。信長を知る基本史料である。 『信長公記』の活字翻刻版は刊行されておらず、同書の全貌を知る貴重な書籍である。もっとも、ちくま学芸文庫版は1980年に刊行されたものの復刊で、見解が古い点もある。  例えば、桶狭間の戦いは従来言われてきた「奇襲説」は否定されており、『信長公記』本文を分析した「正面攻撃説」が有力になっている。が、本書67ページの地図は古い見解のまま…そうした点がもったいなく感じる。  大元の史料ではどうなって

朝倉宗滴で考える🤔~想いは子孫に伝わるか否か~

朝倉宗滴(朝倉教景)という武将、皆さまは、ご存じでしょうか?本人は戦国大名ではありませんが、戦国大名朝倉氏の一族(名家中の名家)で、越前(福井県)では戦国時代の名将として名高い存在です。ただ、少し全国区には及ばなかった感じの戦国武将です💧(私にとっては十分全国級ですが) で、活躍した時代は、織田信長躍進の少し前といったところです。 さて、知らない方が多いかも知れませんが、この方、一説には「今すぐ死んでも後悔はないが、後三年、織田上総介(信長)の行く末が見たい…」と言い残して

攻めの姿勢で拠点を変える

住む場所が変わると仕事も変わります。 というか、「仕事の都合上、住む場所を変えられない」と思いがちかもしれません。 ここで、戦国時代において、拠点を次々と変えた革命児・織田信長を紹介します。 ▼ 拠点を変えない常識当時の武将(大名:だいみょう)の間では、拠点を変えないというのが常識でした。何故なら、大名というのは元々「守護大名」という職業で、室町幕府により割り当てられた土地・地域一帯を警護・治安維持する代わりに年貢の取り立てを行うという領国管理職です。足軽という戦役時の軍