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関ケ原の戦いで寝返った6人

つい先日、どうする家康で関ケ原の戦いが描かれました。
小早川秀秋と吉川広家の裏切りが描かれていましたが、他にも寝返った人物はいます。
今回は関ケ原の戦いで寝返った6人を紹介します。


小早川秀秋  

関ケ原の戦いで西軍を裏切り東軍についた武将の代表格・小早川秀秋
彼は元々は豊臣秀吉の養子です。
しかし実子の豊臣秀頼が生まれたことで小早川家に養子に出されます。

小早川家は関ケ原の戦いで総大将を務めた毛利輝元の毛利家の分家。
そして元々は豊臣家の人間です。
小早川秀秋が西軍につくのは自然な事でした。

しかし秀秋は元々毛利家とも小早川家とは関係ない生まれ。
そして西軍の重要人物である石田三成に、朝鮮出兵の際に所領を減らされており嫌っていました。

一方の徳川家康は減らされた所領を復帰させてくれた人物であり、育ての親の北政所からも「必ず内府殿[徳川家康]に内応せよ」と助言をされていたのです。

秀秋は板挟みになったまま、関ヶ原の戦いを迎えることになります。
一応は西軍と行動をしていましたが、松尾山に着陣した時点でどちらに付くか明確にしていませんでした
そして中立の立場を取っていたことで、東西両軍から「こちらの軍に就け」と催促されます。

そして痺れを切らした徳川家康が小早川秀秋のいる松尾山に向かって「問鉄砲」(といでっぽう)を撃ち、これに驚いた小早川軍が西軍に攻撃を開始したというのが通説です。

小早川秀秋が寝返ったことで西軍諸将が呼応し、続々と東軍に寝返ったことで関ケ原の戦いの形勢は決定することになります。

関ケ原の戦いののちは所領が増えますが、関ケ原の戦いの2年後に21歳で亡くなります。
しかも小早川家は後継ぎがいなかったことにより、断絶しています。

吉川広家

吉川広家は毛利家の分家、吉川家の当主です。
広家は関ケ原の戦いの前から家康の勝利を確信しており、主君である毛利輝元が総大将になることに反対しています。
しかしこの意見は聞き届けられず広家は独断で家康に接触し、徳川につく代わりに毛利家の所領を安堵させるという密約を結びます。

密約通り関ケ原の戦いでは兵を動かさず傍観。
広家が動かないと兵を動かせない毛利秀元や長曾我部盛親の動きを抑えました。
この時、広家は「兵たちに食料を食べさせているから動かせない」と言ったことから「宰相殿の空弁当」と名付けられています。

関ケ原の戦いの後、毛利家は改易(領地も屋敷もすべて没収)されることになります。
家康は約束を守らなかったのです。
そこで広家は毛利家を残す代わりとして、自分自身も毛利家と同じ罰を与えてほしい内容の起請文を家康に送ります。

広家の嘆願のおかげで、毛利領は減封処分を下されました。
しかし裏切つたことから毛利家から冷遇されます。
この為子孫にまで両家の間に確執が残りました。

脇坂安治

安治は関ヶ原の戦い前から徳川家康よりの立場でした。
その為東軍に加担する内容の書状を送り、家康もそれを理解していました。しかし石田三成が挙兵した時、大坂にいた安治はやむを得ず西軍として戦いに参加しました。

関ケ原の戦いでは小早川秀秋の寝返りをきっかけに東軍に寝返ります。
元から東軍につくと書状で述べていたこともあり、戦後もお咎めなく所領も安堵されています。

朽木元綱

朽木元綱は金ヶ崎の退き口で織田信長の撤退を助けた武将です。

関ヶ原の戦いの際、元綱は藤堂高虎に東軍へ寝返る調略を受けていました。そして、秀秋に呼応して東軍へ寝返ります。

戦後は内通の意思をハッキリさせるのが遅かったため所領を減らしますが、のちに返還されています。
一説では、元綱は関ヶ原の戦いに参加していなかったとも言われています。

赤座直保

北条征伐で功績を挙げた2万石の大名である赤座直保。

関ケ原の戦いの際、大谷吉継と行動を共にしていましたが、小早川秀秋の寝返りに便乗し東軍に加担します。
大谷吉継隊に斬り込んで西軍の敗北を決定的にしました

しかし、高虎から受けた東軍に寝返る返答をうやむやにしたままの寝返りだったので、加増も所領安堵もされずに改易(領地も屋敷もすべて没収)となりました。
その後「前田利長」の家臣となりましたが、川の増水を見に行った際に落馬し、川に転落。
そのまま溺死するという不運な最期を迎えます。

小川祐忠

北条征伐や文禄の役、慶長の役などで存在感を示し、伊予国今治7万石を領有する大名である小川祐忠。

関ケ原の戦いでは小早川秀秋の寝返りをきっかけに東軍に加担します。
大谷軍の平塚為広を討ち取るなど活躍します。
しかし事前に寝返ることを明らかにしていなかったこと、素行が悪かったことや石田三成と親しい関係であったため死罪を言い渡されます。

しかしのちに親族の助けで、なんとか死よりも軽い改易(領地も屋敷もすべて没収)を言い渡されました

まとめ

関ケ原の戦いで寝返った6人の中で脇坂安治以外は所領を減らされたり改易されたり悲惨な目に合っています。

事前に寝返ると明らかにしていない日和見の結果、寝返っても得る物が無くむしろ失っている人物が多いです、

事前に寝返ると明言していた吉川広家ですが、流石に敵の総大将をお咎めなしにするわけにはいかなかったのでしょう。

家康としては優柔不断な人物は信用できず、毛利家のような大勢力を放置することも出来ないという今後の統治を考えた処分を下した印象を持ちます。


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