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日本に始めてきたアフリカ人:黒人侍の弥助

黒人の侍、弥助をしていますか?
海外のゲームや映像作品で、人気のある弥助。
実際の弥助の人生は、どのようなものだったのでしょうか?
本記事では、奴隷から織田信長の家臣になった、弥助を紹介します。


黒人の侍:弥助

弥助は日本の戦国時代に、織田信長に仕えた黒人です。
当時の日本には、ヨーロッパ人に連れてこられた黒人がいました。どれくらいの黒人がいたのかは分かりませんが、弥助もヨーロッパ人に連れてこられた1人です。

諸説ありますが、弥助は20代のころに日本にやってきたようです。身長は約180㎝あり、当時の日本人の平均身長を大きく上回っていました。
健康な肉体を持ち、10人の男に匹敵する、力持ちだったとされています。

詳しく分かっていることは少ないですが、日本の歴史では珍しい日本で活躍した黒人です。

アフリカ:モザンビーク出身

弥助の出身は、アフリカ大陸南東部にある島です。
現在のモザンビーク共和国にある、モザンビーク島であるとされています。

当時のモザンビークは、イエスズ会の影響が強い土地でした。
日本で名の知られている宣教師:フランシスコ・ザビエルも、日本来訪前に半年ほど滞在しています。
そんなモザンビークでは奴隷売買が盛んでした。弥助も奴隷としてモザンビークから、インドの奴隷市場に送られた可能性が高いと言われています。
インドに送られた弥助は、イエスズ会の宣教師ヴァリニャーノに買われ、日本へ向かうことになりました。

イエスズ会の宣教師に連れられ日本へ

1581年に日本へ着いた弥助は、ヴァリニャーノと織田信長の謁見に、従者として参加します。信長は、生まれて初めて見る黒人の弥助を見て驚きます。

肌が黒いことが信じられなかった信長は、弥助が体に墨を塗っている思い、体を洗わせています。勿論、肌の色が変わるわけはなく、むしろより黒く光り輝いたそうです。
信長の伝記である『信長公記』に記された信長の感想には、弥助を「黒坊主」と呼び「黒い牛のような肌」と述べています。信長にとって、相当な衝撃だったようです。

織田家家臣:弥助

弥助は謁見でのやり取りで、信長に気に入られます。
信長はヴァリニャーノに対し、弥助を召し抱えたいと希望しました。
ヴァリニャーノはこの申し出を受け、弥助を信長に献上します。

こうして織田家の家臣となった弥助。
この時に初めて「弥助」という名前を貰います。それまでの名前は不明で、現在も本名は分かっていません。
織田家での弥助の仕事は「御小姓」です。信長の身辺に仕えて、雑用をするのが仕事でした。この仕事は名門の子弟から選ばれることが多く、奴隷の身分から考えると大出世といえます。
信長は、将来的に弥助を城持ちにまで抜擢しようと考えていたとされ、信頼を置いていたようです。

しかし、弥助が城持ちになることはありませんでした。
弥助が信長に仕えてから、約1年後。本能寺の変が起こったのです。

本能寺の変での活躍

本能寺の変の際、弥助は信長の供をし本能寺に泊まっていました。
そこへ、謀反を起こした明智軍が来襲します。
弥助は本能寺で明智軍と戦ったとも、信長の嫡男・信忠の居所だった二条新御所に、謀反を知らせたとも言われています。
最終的に明智軍に捕まりますが、日本人ではないとして一命をとりとめます。弥助はイエズス会の教会に引き渡され、その後の消息は分かっていません。

一説にでは、モザンビークに戻ったともされますが、はっきりとしたことは分かりません。
出身地のモザンビーク島では刀をカタナと呼ぶなど、日本語が伝わっており、弥助が日本語を広めたのだと考える人もいます。

しかしこの時代に、日本人もアフリカを初めて訪れています。
天正遣欧使節団の4人の少年たちです。ヨーロッパに向かっていた彼らは、船の乗り継ぎのためモザンビークで半年過ごしています。
この時に日本語が伝わっている可能性があり、弥助が日本語を広めたとは限らないのです。

やはり弥助のその後は、歴史の中に埋もれてしまったようです。

現代での活躍

日本では知名度が低い弥助ですが、近年の海外では人気があります。
ハリウッドで映画化の話や、ゲーム『アサシン クリード シャドウズ』の主人公の1人に選ばれています。

しかし『アサシン クリード シャドウズ』での扱いが物議を呼んでいます。
歴史考証の適当さと、准教授のトーマス・ロックリーが書いた、願望や憶測の強い本を参考にしていることが問題になっているのです。(2024年7月時点)
黒人差別の問題なども関係し、終わりの見えない炎上に発展しています。

弥助をモチーフにしたキャラクターが登場する作品は、日本にもあります。
ゲームであれば『婆娑羅2』 『仁王』 『戦国無双5』などがあります。
漫画でも登場しており『信長の忍び』『へうげもの』『信長のシェフ』などで、活躍しています。

ゲームや漫画だけでなく、モザンビーク共和国との交流にも影響を与えています。
モザンビーク北部カーボデルガード州産のうるち米を使った清酒には「サケヤスケ」と名付けられています。勿論由来は弥助です。
令和5年11月27日に行われた「日・モザンビーク外相会談及びワーキング・ディナー」で提供されるなど、両国の交流に貢献しています。

弥助という人物は、現代でも多いに活躍しているのです。

まとめ

ここまで黒人の侍:弥助について紹介しました。
まとめると以下のとおりです。

  • アフリカ:モザンビーク出身の黒人

  • 奴隷として来日し、織田信長に仕えた

  • 信長死後の消息は不明

日本で活躍した数少ない黒人です。
弥助の生涯は、不明な点が多いからこそロマンを感じるのでしょう。



参考:外務省ホームページ(日本語)https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000470116.pdf

参考:外務省ホームページ(日本語)https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000480416.pdf

参考:日・モザンビーク外相会談及びワーキング・ディナー|外務省

参考:第2章 日本に渡ったアフリカ人|本の万華鏡 第14回 アフリカの日本、日本のアフリカ |国立国会図書館

参考:ご存じですか? 織田信長が可愛がった黒人サムライ・弥助の「史実での来歴」 本能寺の変の後は不明(歴史人) - Yahoo!ニュース

参考:【戦国こぼれ話】織田信長が登用した黒人武将・弥助とは、いったい何者なのか(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース


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