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折れてもまた走るから、繰り返し言い聞かせていく(裏・ゆるぽたなんてなかった)

 久しぶりに立ちゴケをかました。文字通り、天を仰いだ。あと1コーナーだったのに、失速して気づいたら倒れていた。ビンディングペダルは、足とペダルを固定しているため、咄嗟に足をつけない。坂道だと尚更だ。
 週一程度走るようになってから「どんなに遅くても絶対に弱音は吐かずに登り切る」ことだけは守ってきたはずなのに、早々に崩れた。
 自分以外はちゃんと登りきったのだから、どんな慰めの言葉も響かない。
 それだけならまだしも、下りでもまたやらかした。
 楽しかった。それは間違いない。けれど、それと同じくらいに悔しさでいっぱいになった。
 一人になったら負の感情が止まらなかった。悔しい以上に、趣味で勝手に人と比べて落ち込む、そんな自分が嫌で嫌で情けなかった。

 もうこんな思いするくらいならやめてしまえばいい、そう思ったはずなのに。
 気づいたら足は自転車屋さんに向いて、調整をしてもらって。クリートも交換してもらっていて。一人で走るルートを模索して。ドライブ中も「ここを登れたらどんなに楽しいだろう」って考えて。
 なぜか気づいたら走る方に気持ちが向いていた。
 なんだかんだ、走ること捨てられないんじゃん、自分の中にまだやりたい気持ちあるんじゃん、そう思うと少しだけ笑いたくなった。

 少し話は変わるが、中学1年生のとき、私はもっと成績を伸ばしたくて、部活も強くなりたくて、ただ必死に悔しさを原動力に突っ走った。0が1へ、1が10へ……と積み重なっていく間は、自分の成長が目に見えて楽しくて、悔しいことがあってもすぐに立ち上がれた。
 けれど、学年が上がって積み重なってきたものが増えたら、100が101になっても変化が分からなくなって、これ以上自分が成長しないようなそんな気持ちになっていた。
 勝手に突っ走って勝手に自己完結して心折れていた。誰かにそんな生き方を止められることもなかった。正しい頑張り方を教えてほしかったのに、声を上げることもできなかった。結局はそれをずっと繰り返した結果が休学と退学になった。

 今はきっと、ビンディングペダルに変えて、装備も少しずつ増やして、ちょうど自分の変化が目に見えている時期だろう。だから、悔しくても立ち直れるし、笑って立っていられる。
 けれど、あんまりにも無理をして焦って突っ走ったら心も体も壊す。それは経験で分かっている。休学で決定的になった。だから悔しい気持ちに任せて衝動的なことはしないように。それだけは肝に銘じている。そんなときはお風呂にでも入って、ご飯食べてとっとと寝るようにしたい。
 それに、今後経験が積み重なったときに、積み重ねで変化が見えなくなった時に、勝手に自己完結させて投げ出さないように。まだ先のこととはいえ、その時が来たら忘れないようにしたい。
 学業や部活とは違って、あくまでも「趣味」であることは忘れないように。試合で結果を残さないといけない、いつまでに実験をやって学位論文を書いて単位を取らないといけない、なんていう時間制限は存在しないのだから。

 元気なときはちゃんとそうやって自分に言い聞かせられる。でもやっぱり後ろ向きになっていると、どうしても投げやりな感情が先行してしまう。だから、繰り返し自分に言い聞かせて、そうやって刷り込んでいくしかないのだ。折れて立ち上がってをきっとこれからも繰り返すだろうから、もう間違ったやり方を繰り返さないように。

 ――あくまでも「趣味」とは言ったけど。
 でも、どん底のときは本当に走ることに気持ちが向かなかったし走れなくて、自分が戻ってきたら走ってどこかに行きたいって気持ちが自然と湧いてきたから。たどり着いた先で「ちゃんと来れるんだ」って分かるから。
 だから、走ることは「趣味」以上に自分が「大丈夫であること」の確認のためにも必要なんじゃないかなと思っている。

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