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曖昧な言葉で待つこと

はじめに。
長文です...m(_ _)m

最近の私

酷い倦怠感、めまい。過呼吸、脱力感、身体の痛み。頭痛。感覚過敏の悪化。生活リズムの乱れ。不眠症の悪化。不安定な感情。

嵐の中にいる船。
その船が私だと、そんな気がしていて・・・曖昧に時間が過ぎていって。
ひたすら長くて、焦って、何も出来てない気がして。

そんな最近の自分を客観的にみて、どうして辛いのか、どうして消えたくなるのか、どうして頑張れないのか...。
いろんな”どうして ”を頭の片隅で常に考えている気がしていたけど、嵐の渦の中で、それは結局、自分への責めにしかならなくて。

でも土日は少し息継ぎが出来て、やっと分かるような気がしました。

今日は、そのうちの一つを書こうと思います。

自分が言うことに対して

「ちょっと待って」「もう少しだから」「また今度」「そのうち」

私は、そういう曖昧な言葉が凄く苦手です。
言わないように気をつけているし、言ってしまった時は大失敗をした気分になります。

確かに自分は気をつけることで対処が出来る。
でも「ちょっと待ってね」ってよく言われることだと思います。


どうしてだろう?

幼い頃の私のことを思い出してみました。

「ちょっと待っててね」「もう少し後でね」

私にとってそれは、急に不安になって、叫んだり逃げ出したくなる言葉でした。でも静かに待っていないと怒られる。私が大丈夫って顔をしないと周りを困らせてしまう。私が気にしてない様子だと褒めてもらえる。

だからじっと抑えていました。

待っている間の不安、待った後のホッとした気持ち、忘れられた時のショック。それを出さないようにしました。状況によって、親の態度によって、周りの雰囲気によって、使い分けるようになりました。

「せなちゃんは偉いね、大人だね」
そう言われることで、心の隙間や不安感を埋めるようになりました。

中1まで母子家庭で育った私は待つことが多かったけど、私にとって苦痛なのは ”待つ時間” では無かったと思います。待っている間は読書したり、想像の中で遊んだり。幼い頃の私にとって、それは”自由な時間”でした。

変化

でも、成長するにつれて ”待つ時間” が、”待つ”だけに変わりました。

「待っててね」って、あと何時間待てばいいんだろう?
もしママが帰って来なかったら?何かあったのかもしれない...。
「後でね」って、いつだろう?
この前も「後でね」って言っていたのに...。
「なんでもっと早く言わないの!?」って怒られたけど、私言ったよ...。
待ってたよ。


小学校中学年になって家事が出来るようになると、”待つ”だけでは駄目になりました。
朝7時前には満員電車に乗って通学、帰ってくると17時過ぎ。洗濯物を取り込んで、宿題をして、洗濯物を畳んで洗い物をして...
 ”自由な時間” は "何かをしないといけない時間" になって、私の生活から"余裕"が消えました。
「適当でいいから、私の話を聞いて」と言ったのも、この頃だと思います。


再び、どうしてだろう?

子供の私は諦めるようになって、それは良くも悪くも、少し楽な気がしてました。
でも、大人になってから「待って、後でね」と言われる不安は増した気がして考えてみました。

多分それは、たくさん待って、たくさん忘れられたからだと思います。

今まで、待つ→忘れられる→責められる、それはほとんどが母親でした。
働くようになってから、事務職でも接客業でも待つことはあったけど、幸い理不尽に怒られることは無くて。社会って、こんなに優しいんだと思いました。

それが19歳で精神科に入院して、福祉に助けてもらうようになって、悪い意味で世界が変わりました。

「後で来るね!」は、今日じゃなかった。覚えてないって。
私は待ってたよ。
「伝えておくからね」は難しいみたい。そんなの聞いてないって怒られた。
私は言ったよ。
「少し待っててね」・・・そのまま帰っちゃったみたい。
私はずっと用意して待ってたよ。

「まだですか?いつですか?」って聞くと、めんどくさいって思われる。
そう周りを見て学んで、言わなかった私は、結果、看護師さんや相談員さんや支援職の人たちに忘れられる事が多くなりました。

当たり前のように忘れられる世界。
「言ってくれたら良かったのに」と責められる世界。
言うとめんどくさがられて、助けてもらえなくなる世界。

その怖い世界から抜け出したくて、自分で手続き関係を全て把握して、行動するようになりました。自分でやると、こんなに簡単に進むのかとスピード差に愕然としました。

一人で把握して、考えて、行動することが楽なことに気づきました。

そして、それに呑まれて、

他人に自分を任せる不安に耐えられなくなりました。


辛い時期でも、苦しくても、死にたくなるような書類作りでも。
他の人は、支援職の方に手伝ってもらってることも。
医療関係者・支援職の方は皆忙しくて私の事は難しいから。
”当事者の私が出来ることは、全部私がする”
それ以外の選択肢は選べなくなりました。

だって誰も、私の生活の責任はとってくれないから。
忘れられていた時、大変になったのは当事者の私だけだから。

そう自分に言い聞かせて行動するうちに「せなさんは出来るから」そう言って放置されることが増えました。完成させてはいけないパズルのピースがはまった気がしました。

人生は、

他人に自分を任せる時が沢山あると私は思います。
「任せる」は私の感覚で意味を持たせたことばですが、

例えば、
・子供は大人に依存する。
・面接は面接官に委ねる。
・プロポーズの答えは相手を待つ。

他にも沢山のことを任せて、任せられて。
そんな気がしています。

・・・少し脱線しましたが、
私が今辛いのは、他人に自分を任せる=待つ状態が続いてること、それが複数あることが一つの原因だと思います。

嵐の中にいる船のように、
壊れないことを願って、嵐が止むことを信じて、息継ぎしながら補修して、
やっぱり耐えるしかないこと。


「他人に自分を任せる=待つ」そのことばの意味、待つことが怖い理由。

頭の整理は出来たけど、読者さんにとっては長文ですね...(どうしよう汗)
読んでくださってありがとうございます。

とりあえずの「そのうち〜」じゃなくて「今は見通しが立てられなくて」って濁さず伝えて欲しい当事者も結構いると思うし、待つことが死ぬほど辛い虐待サバイバーは多いみたい。

わんこ待たせてるので撫でてきます...笑
Sena.🍋

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