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大事なことは異なる種類のストレスを同時に2つ以上抱えないこと

創業者のメンタルは強靭なのか?

ベンチャー企業の創業者ともなると強靭なメンタルを持ち合わせているのか?と思いがちでしょうが、うーん、まぁ、一理あるけれど、強靭なメンタルというよりは問題を分離して考えることができるという意味においてはそのとおりかも知れない。私が知る限りにおいて創業者という生き物は誰よりも繊細で、繊細が故にいくつかの問題を分離しておかないとメンタルが持たないが故に、結果的に分離して考える術を手に入れた、というのが正しい表現に近い気がする。半ば消去法であり、諦めに近く、広く括ればメタ認知の一種のようなものだ。

過大評価されがちだが、創業者なんてものは既存の社会に適合出来なかった故に、自身が適合しうる新たな社会を作り上げる、いわば社会不適合者というだけだからねぇ。創業11年を超えると想像もし得ないようなハードシングスが幾度となく突発的に繰り返し訪れるわけで、様々な問題を分離して考えなければあっさり離脱していただろうなとも思う。

やはり生存戦略の一つとして問題を分離して考える術を持っているというのが正解に近い。私自身も初期のうちは強靭なメンタルを持っている選ばれし者と勘違いしていた。でも違った。今回はその経験を書こうと思う。いつかきっと誰かの役に立つはずだ。

車から学ぶ、異なる2つの動作を同時に与えてはいけないという話

先日、友人の誘いで大人の自動車教習所へ行ってきた。そこでは耐久レースの最高峰『ル・マン24時間耐久』等で活躍するプロドライバー、澤圭太さんなどから直々にドライビングテクニックを富士スピードウェイの巨大なコース内で学べるというものだった。とんと車に興味のない私だが、信頼している友人の誘いということもあり誘いに乗ってみた。車だけにね。私がそこで学んだのは車の構造、限界、運転の仕方も勿論なんだが、人の心のメカニズムと共通するものを見つけたので少しだけお付き合い願いたい。

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澤さんが言うには、車というのものはマシンそのものの限界を知り、同時に二つの操作を組み合わせなければ物凄く安全でより楽しめるのだそうだ。操作とは主にブレーキ、ハンドル、アクセルの3点だ。例えばコーナリングをする際に、大事なことは①ブレーキをかけ、②ハンドルを切り、③アクセルを踏む、という順の動作だ。どんなプロドライバーでも上記3つの操作のうちの2つを掛け合わせるとスピンしてしまうという。

※正確にはブレーキ+ハンドル、アクセル+ハンドルを組み合わせるとスピンする。また、マシンの限界値を知らずに限界を超えた操作をするとスピンする。いずれも人に共通する話だと感じたが、今回は主題通り前者に焦点を当てている。

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※右から、綺麗なコーナリングのコツは、①ブレーキをかけ、②ハンドルを切り、③アクセルを踏む、という順の動作

つまり、どんなに優れた車であっても、異なる2つの動作を同時に与えてはうまく曲がり切ることは出来ないのだということだ。実際にアクセル全開でコーナー直前まで向かい、一気にブレーキをかけ、ハンドルを切り、アクセルでコーナーを過ぎ去るという手順を踏むと面白いくらい綺麗にコーナリング出来た。ここまでスピードをだしてもコーナリングがスムーズにできるんだな、という発見だ。今まで私は車をダンプカーのようなものだと捉えて運転してしまっていたのだと盛大な反省である。

今度はスピンの経験を積むために、ブレーキ中にハンドルを切ったり、アクセル中にハンドルを切ることで盛大なスピンを経験することで、異なる2つの動作を同時に与えるだけで、こんなにも簡単に車はスピンしてしまうのだという貴重な経験をした。

人が壊れる時の共通点

話を戻そう。恥ずかしい話、病む、ということ自体、あまり理解できない過去があった。きっと冷たい人間だっただろうし、何処か冷めた人間だった気がする。

見た目は良い人でなければいけない。だが実際に良い人である必要はない。
ニッコロ・マキャヴェッリ

マキャヴェッリがいう言葉はいつも強烈だが、どこかで芯を食っている。だからこそ現代でも支えられる部分が大きいとは思うが、当時の私もきっとマキャヴェッリのいうようなそんな冷たい人間だったと思う。そんな取り繕ったような状態で私が生き残ったのはただただ運が良かっただけなのだ。それに気づいたきっかけがある。

それは数年前に私が病む一歩手前まで蹴落された経験まで遡る。以前にも書いたが、私は自他ともに認めるお休み3秒のショートスリーパーだ。寝れない、ということは年に一度程度あるかないかで、ベットに入るとその瞬間に記憶は飛んでいる。途中で起きるわけもなく、集中した4時間の睡眠を取ることで翌日も何の不具合もなく活動できたのだ。今書いててもなんて恵まれていたのだろうと思う。

しかし、第一子誕生によりその法則が歪み、地獄を見た。どうも私は第一子の鳴き声の周波数が合うようで、僅かでも泣かれると起きてしまうのだ。これまで近くで大きな音が鳴っても、大きな地震が来ても目を覚ますことはなかったのにだ。これにより、4時間連続した深い睡眠を取ることが出来ない事によるパターン中断が体を蝕んでいることに気づかずにこれまでと同じように働き続けた。

そんな時に限って会社でそこそこのハードシングスが起こる。すべての予定を一旦キャンセルし、対応に追われ、次の一手を模索する日々。数日経過した頃だろうか、狼狽し、ベッドに入るなり目を閉じると、意識はハッキリしているのに体が動かない。瞬間に察した。この先は戻れなくなる、と。金縛りというにはあまりに長い時間であり、その体が動かない時間で多くのことを考えた記憶がある。必死に体を動かそうと藻掻いたこと、なぜこんな事になったのかということ、これから私はどうすべきか?などだ。

それにしては妙だ。ハードシングスなんてものはそんなに珍しいものではなく、今までも心はすり減るが乗り越えてきたことじゃないか?なのになぜ今になって体が動かなくなるのかを探るうちに答えを見つけた。前述したパターン中断のストレスと仕事のストレスが同時に掛け合わさったということだけが唯一のこれまでとの違いだったのだ。その瞬間に察した。どれだけメンタルが強いとも言えど、同時に異なる2種類のストレスを抱えると、人はこんなにも簡単に折れるのだということを。

これまでメンタル不調を訴えていた知人や友人を見回すと、1つの悩みというよりは、必ず異なる種類の2つ以上の悩みを抱えていたこと。自身の経験則に基づいても1つの悩みというのは多少大きなものでも然程こたえないこと。また、1つの悩みに紐付いたもう1つの悩みを持ち合わせていてもそこまで落ち込まないこと。例えば、「お金がないから○○出来ない」みたいな、連鎖する問題ではそんな簡単には心は折れないこと。

勿論、これは私の経験則に基づく一般化のワナである可能性も否めないし、医療従事者などによる明確なエビデンスがあるわけではないが、前述した車の話同様に、人間にも異なる種類のストレスを同時に2つ以上引き受ける事が非常に良くないのではないかと考えるようになった。実際に周りに調子が良くない人がいたら聞いてみてほしい。不思議なほど、例外に出会ったことがないのだ。

話を戻そう。どのくらいの時間をその状態で過ごしたのかは覚えていないが、体の自由を取り戻した時、このままでは駄目なのだと考え改め、パターン中断される前提の生活を受け入れ、睡眠を始めとした時間配分を確保するように心がけた。更には自分自身でどうにかできるものと、自分の力ではどうにでもならないものだったり、アレはあれ、コレはこれ、と物事を分離して考えるように出来るようにもなり、結果的に難を逃れることが出来た。

まとめ

今思えば私は私自身に対して自信過剰だったのだと思う。私はそれまで奇跡的に異なる2つのストレスを同時に揃えることがなく、たまたま運よく生きながらえただけであり、その危険性に気づかせてくれたのが第一子だったと言えるだろう。まさにGIFTだった。

私の場合、第一子がきっかけでこの出来事の引き金は引かれたが、これらは誰にでもいつか突然訪れる可能性のある話であり、決して他人事ではない。私に限って、なんてことはほとんどないし、責任感の強い人ほど無意識の中でストレスを受け入れ、このドツボにはまる可能性が高いと言える。

私が皆さんに言えることがあるとすると、まずは自身の限界を知ること。自身の限界知らずして継続的な成長はあり得ない。そして、異なる種類のストレスを同時に2つ以上抱えないこと。仮に1つのストレスを抱えているのであれば、もう1つのストレスは容易に引き受けないこと。回避できる可能性があるのだとすれば、それに全力で取り組むこと。それを意識するだけで、少し世界は変わるかもしれない。

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