見出し画像

現実と自分の世界が矛盾する人々について 二階堂奥歯「八本脚の蝶」

久しぶりに読書。書店にて美しい表紙が目に止まったので帯を見ると、若くして亡くなった女性の日記をまとめたものが今回文庫になったらしいとわかり、その場でタイトルを検索したところ同タイトルのウェブサイトが検索画面に現れて結構驚いた。結局、ウェブで読めるならと文庫は買わず、その日のうちにウェブの日記は読み終わってしまった。ちなみに、サイトでは最後の日記がトップにきているので衝撃的な感じになってしまっています。読みたい方はリンク貼っておきますのでそちらからどうぞ。

八本脚の蝶

読み終わってまず思うことは、彼女の目を通して観る現実が私の見ている世界とは違うなということ。彼女の使う言葉のせいかもしれない。とても言葉を綺麗に使う人なので、言葉によって現実が歪められているような気さえする。本当に、世界はこんなに美しかっただろうか?と一瞬考えて、たしかに、現実の世界はとても美しいねと、もういない奥歯さんに語りかけたくなる。たとえばこんな文章だ。

鬱蒼と葉の茂る桜並木の下をバイクで走る。
日差しに白々と浮かび上がった道路も厚い葉の重なりの下では暗い。その下を駆け抜けていくと、影と光とが目まぐるしく移り変わる。
光。影。光。影。光。
ちかちかする街並みは一瞬ごとに新たに作り直されるように見える。

私はバイクで桜並木の下を走ったことはないけれど、早春のやわらかな日差し、頰を撫でる風、どこか懐かしいけれど全てが新しい、春という季節のみずみずしさを感じることができた。実際にそれを経験したことがあるみたいに、世界の美しさを感じることができた。
二階堂奥歯という人は、読書によってグロテスク・エロティックな世界を垣間見つつも、少女のように純粋な瞳で世界を見ることをやめなかった人なのだろう。彼女の膨大な量の引用文を見ていると、その感性の若さと鋭さが伝わってくる。じっさいに25歳なのだからそれは若いだろうという人がいるかもしれないが、彼女の引用する文章に彼女が心打たれていたのだとすれば、それは20代半ばというより10代の少女の感性みたいなのだ。奥歯さんの引用から感じるのは、10代の少女ーーまだ自分の所属する狭い世界しか知らない、けれどそのみずみずしい感性で見た世界は、全てが新しさを孕んでいるーーが初めて読書によって(つまり、他人の目で)世界を見た時の驚きみたいなもの。奥歯さんは、どうしてこんなに無防備でいられるんだろう。

結局、文庫には生前彼女と交流のあった人たちが書いた追悼文が収録されているとわかりあとから書店に買いに行くことになった。他人の目を通して彼女を見ることで、だんだんと二階堂奥歯という人のパースペクティブが明らかになっていくように感じた。まわりからみてとても魅力的な、そして彼女の内面よりもキュートな印象を与える人だったのだな。二階堂奥歯という人に近いところにいる人(雪雪さん、吉住さんなど)ほど、自分に与えられた役割を理解し、奥歯さんの思う通りに振舞っている感じがして不思議だった。奥歯さんと二人の男性の関係性に、当人同士の間に齟齬がないというのがその理由かもしれないけど、奥歯さんの世界に取り込まれている気がした。二人とも奥歯さんのワールドの住人になってしまったみたい。

防御する鎧を持たなかったひとなのかもしれないと思った。それはみずみずしい感性と引き換えなのかもしれなかった。まだ世界に対して薄い膜のような鎧しか持たないまま、薄い膜を通して美しい世界を見ながら、あの人は逝ってしまった。若いうちに散るのはもしかしたら彼女の美学なのかもしれないけれど、もっと違うやり方で世界は美しいということを伝え続けて欲しかった。
彼女が理想どおり美しくない世界に絶望して旅立ったのだとすれば、そのことじたいによって彼女のはかる美しさを否定せざるを得なくなる可能性についてもっと考えて欲しかった。
それとも、物語を愛した人は自身の物語性についても自分で編集を加えざるを得なかったのだろうか。だけど、あなたの人生に執筆者も編集者もいない。人生と物語は似ていても違う。物語の方が人生の模倣なんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?