野良発達な私の場合 「長男の赤ちゃん期」

まず、私に診断がついた経緯から書いていこうと思う。

ざっくりと簡単に説明すると、

30代で我が子に発達障害の診断がつき、発達障害の事を色々と知る上で、

「それなら自分もそうでは無いのか?」

と思い、どんどんと調べていくうちに、それが確信へ変わり、発達検査を申し込んだら、やっぱりそうだったのである。

私は子供の頃から、周りの大人や友達に、とにかく良く叱られたり怒られたり、イジメや虐待を受けたりする子だった。

それは、不登校に繋がり、家出や早めの社会人になることに繋がった。

そこで他人からの搾取に陥ったり、逆に搾取をする立場に知らず知らずのうちに立たされていたり、私を利用したいだけの人達に、人間の闇の部分を沢山見せられたりした。

つまり、しなくて良い苦労を、無駄に沢山して、自分をすり減らして生きてきた。

その辺のことは、この後からの章で、詳しく書いていくつもりだけど、全て私の性格や態度に、そうされる原因があったのだ。

意識して治そうと頑張っても、根本的にやり方を間違えていたり、無理だったりして。

ひたすら、生きづらい人生だった。

いかん、暗くなった。

まずは、私が発達障害であると、素晴らしい気づきのきっかけを与えてくれた、うちの長男の話をしよう。

うちの長男は、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)強めのADHDも抱えている子だ。

かなりの強い特性を持っているのだが、私が元夫や身内からの大反対に会い、小学校一年生まで、児童精神科に連れて行くことが出来なかった。

連れて行ったら、私の説明と、医師の前での行動を30分程診てもらったらすぐに、自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)強めのADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断がついた。

その位、特性が強かったのだ。


長男は、まだ私が前の結婚をしていた時に産まれた。

切迫流産で入院からの、臍の緒が胎児にたすき掛けに巻きついてしまい、丸2日間かかる難産だった。

最終的に吸引分娩で産まれた長男は、黄疸も出てしまい、感染症にかかってしまっていて、暫く退院ができなかった。

まだ新生児の、もみじの葉っぱよりも小さい小さい手の甲に、痛々しい紫色の採血の跡が、いつもあった。

可哀想で可哀想で。もっと、ちゃんと産んであげられなくてごめんなさいと、産院のベッドを涙で濡らした。

その頃の私は、数日後に何とか退院出来、壮絶な寝ない子育児が待っているとは露も知らず。

とにかく寝ない子だった。背中スイッチも敏感で、少しでも背中にベッドや座布団的なものが触れると、すぐさま「パチッ」と、お目目が開いた。

元夫は出張も多く仕事が忙しい人間だったので、週の半分深夜の数時間だけ帰宅すれば良い方だった。

大阪での里帰り出産が終わり、東京に戻り、全く誰にも頼ることの出来ないワンオペ育児が始まった。

そして、育てるのは、この頃はまだ気がついてない発達特性バリバリの私だ。今考えても、支援の手が入らず、よく乗り切れたなと思う。

先程も記述したが、長男は、とにかく寝ない。こんなに寝ない子が世の中にはいるのか?と、思うほど寝ない子だった。

そしてそれと同時期に、あんまり目が合わないなと気がついた。

でも、私がそばに行くと、両手両足をバタバタと動かして、すごく嬉しそうに、「あぃ〜〜あぃぃ〜〜」と、ヨダレを垂らしながらの嬉しそうな喃語も出る。

でも、顔はそっぽを向いていたり、顔はこちらを向いていても、目は明後日の方向を見ている。

目はちゃんと見えている様なのに、不思議だなーと思っていた。

耳も、話しかけても聞こえてないようなことが多く、反応しない時も多い。

耳に病気があるんじゃないかと悩み、耳鼻科に連れて行ったりもしたが、特に何も無かった。

子守唄を歌えば、「うるさい!」と言わんばかりに私の口をギュッと掴む。

母乳を飲むのも最初は苦手で、満足な量を上手く飲めなくて怒って泣いて、怒って泣いての繰り返し。

やっと上手に飲めるようになったのは、1ヶ月検診位からだろうか…

当時はミルクを哺乳瓶でも与えて、混合にしていた。

その後、母乳だけで足りるようになり、(外出の際のミルクの準備しなくて良いし楽やから)ひと安心していると、今度は、母乳しか飲まない生活が始まった。

あの頃の私は、完全に、長男の「おっぱい製造機」として生きていた。

家でも外でも、なんか口が寂しいなーと思ったら、おっぱいで一服いっちゃう?みたいな感じで使われてた。

「自動おっぱい飲み機」でもあったわけだ。

息子は、お腹を満たすために母乳を飲むことが目的でなく、精神を安定させるため、怖い事などがあって安心したい時にも、おっぱいを飲んだら気持ちが落ち着くことを覚えたのだ。

私が疲れて床に横になっていると、近寄ってきて慣れた手つきで洋服とパッド付きのタンクトップ
をずらし、おっぱいを「おっぱ!おっぱ!!」と言いながら、美味しそうに飲み出す。

おっぱいを吸いながらたまに、顔を前後左右に振って、「ママの乳首どこまで伸ばせるか選手権」を開催する。(そこには、私と長男の二人しかいないのだが)おかげでかなり垂れた。

それでも、その顔は本当に幸せそうで、私が乳牛として生きることで、この子がこんなに幸せならばそれでいいかと思っていた。

思い起こせば、この頃の息子の「こだわり」が、私のおっぱいだったのだ。

「目が合わない」「寝ない」「おっぱい」これが、赤ちゃん時代の息子との記憶の中で、だいぶ幅をとっている。

ちょっと待ってコレ、何回おっぱいって書いた?

では、保育園時期の息子のこだわりは次回で。




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