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自分が何に疲れていたのか気がついたかもしれない 『うしろめたさの人類学』

英語には「肩こり」にあたる言葉が無いから英語圏のひとは肩がこらないという。噂話の類なので、本当かどうかはわからなけど……

まぁ、それが本当だったとして、なぜ日本には「肩こり」が存在するのだろう? 「構築主義では」こう考えるそうだ。それは、日本で生活する私達は、肩の嫌な感じを嫌い、さすったりグルグルとまわしたりしながら「あー、これは肩が凝ったのだ」と説明しそれが一般化していった。こういう流れをして「肩こり」は社会的に構築されてきたと。

何事も最初から本質的な性質を備えているわけではなく、さまざまな作用の中でそう構築されてきた、と考える視点だ。

構築主義は批判理論のひとつとされる。なぜか、既に構築され定義された秩序や体制を批判するのにとても便利なフレームワークだからだ。

批判に使うときの理論構成はシンプル。「肩こり」には必然性が無い、よって「肩こり」は悪である、「肩こり」を排除することで世界は(私の肩は)良くなるのだ。

そのとおりだ、ごもっともだ。でも、肩こりじゃわかりにくい。肩こりは「ストレス」や「性差別」と入れ替えても成り立つ。

「セクハラ」や「児童虐待」、「ストーカー」といった概念が構築されたことで社会問題として扱ってもらえるようになったのが現代だ。

著者は「構築人類学」という(おそらく)新しい概念で、現代人がかかえる漠然としたストレスや違和感などを「構築」する作業にどう関与しているのかを明らかにし、それを別なもの変えていくことはできないかと思い悩む。

「構築」され明らかになった事柄について、批判からどうやって先に進み

「どこをどうやったら構築しなおせるのか?」という問いへの変換

していくか。

そこで、本書の取っているアプローチは、著者がフィールドワークの土地としているエチオピアとの比較となる。日本とエチオピアの文化的なFit&Gapを見ていく事で問題の輪郭を明らかにしていこうとい試みなのだけど、これが面白かった。おそらく、戦前、戦後の日本もこのような雰囲気だったのではないかなと思う。そういう意味では、戦後の高度経済成長下で、物質的な豊かさを得るために何を捨ててきたのか、という読み方も出来る。

筆者によるこの比較で、私達のような日本で生活する人々の窮屈さを明らかにしてくれるのだけど、まるでアスファルトを破って窮屈に生きる植物が、その環境に疑問を挟まず生きてきた事を、やっと自覚するような感じだ。

自分が何に疲れていたのか、本書を読むことで、その事にうっすら気がつくことが出来たのはとてもよかった。社会や他の人との関係性が変質し続ける世の中で、漠然とした違和感やストレスなどを感じていたにも関わらず、それを無視して生きてきたのだろうなと。オススメ。

けっきょく使わなかったけど、せっかく目次を書き起こしたので最後に。

はじめに
第一章 経済――「商品」と「贈り物」を分けるもの
第二章 感情――「なに/だれ」が感じさせているのか?
第三章 関係――「社会」をつくりだす「社会」と「世界」をつなぐもの
第四章 国家――国境で囲まれた場所と「わたし」の身体
第五章 市場――自由と独占のはざまで
第六章 援助――奇妙な贈与とそのねじれ
終 章 公平――すでに手にしているものを道具にして
おわりに 「はみだし」の力

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