列車は必ず次の駅へ。ではオタクは?私たちは? ~少女☆歌劇レヴュースタァライトとルックバックから考える~
TV版および劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』と『ルックバック』のネタバレを多分に含みます。そもそもネタバレ注意以前に未視聴・未読だとわけわからない部分があるかと思います。
また、扱っている作品の性質上、誤読・解釈違いがある可能性があります。
そして、後半はほぼ作品そのものには関係ない個人的なお気持ち表明なので、興味ない人はスルー推奨です。多忙な現代ですから、有意義な時間を過ごしていきましょう。そもそも一般的なnoteの記事に比べてだいぶ長くなってしまいました。
創作者/表現者として生きること、そしてそれを仕事にしていくことについて扱った作品は枚挙にいとまがない。
ここ最近でも『映画大好きポンポさん』が映画化されたり『かげきしょうじょ!!』がアニメ化されたりしている。『ブルーピリオド』はマンガ大賞を受賞したし、「映像研には手を出すな!』は文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の大賞を受賞しているように、作り手自身の人生を反映しやすいのもあり、注目されやすいジャンルと言えよう。さらに、仕事という側面を押し出した作品では、『SHIROBAKO』がすぐ頭に浮かぶオタクは多いことだろう。
この記事では、特にここ数か月で私の印象に強く残った『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下TV版スタァと劇場版スタァと略記)と『ルックバック』の類似点を確認しつつ、両作品で語られた表現者として生きるということについてまとめる。そして、それを受けて我々受け手はどう行動していくのがいいのかについて書く。
モチーフを軸にすることとビジュアル面での強い効果
まずはじめに、この二作品の表現手法の類似点について書こうと思う。
なんといっても、モチーフを軸に据え、ビジュアル面での強い印象を残すという点が挙げられるだろう。具体的に例を挙げるなら、TV版・劇場版スタァにおける「タワー(塔)」、劇場版スタァにおける「トマト」、ルックバックにおける「背中」といったところだ。
「タワー」は、様々な意味合いを持つ。東京タワーは華恋とひかりにとって舞台少女として生きるスタートの原体験を象徴している。約束タワーという名前の楽曲もある。同時に、ひかりと演じる戯曲スタァライトにおける星摘みの塔はTV版時点での華恋のゴールである。それだけでなく、戯曲スタアライトにおいては、タロット的な意味での「塔」、つまり破滅を暗示するものでもある。劇場版の皆殺しのレヴューにおける逆さに描かれた星摘みの塔は、棺・墓標の暗喩であるという解釈もある。
実際、星摘みの塔のビジュアル面でのモデルは、池袋の豊島清掃工場の煙突であり、意味深だ。
これに対応する形で「燃える」表現は、特に劇場版で何度も用いられる。
「トマト」は、まさに舞台少女が駆動するためのエンジン=心臓であり、皆殺しのレヴューでの血であり、野菜であることからフレッシュさ、生命を象徴している。皆殺しのレヴューにおけるブシロード作品らしからぬビジュアル、そしてアルチンボルドのオマージュである野菜キリンは初見の視聴者に大きな衝撃を与えただろう。
ルックバックにおける「背中」はまさに漫画家としての生き様を表したものだ。look backというタイトルは、作中にあったように過去を振り返るという意味だけではなく、この生き様=背中を見るという意味も含んでいる。時間の進行と状況の変化が背景の絵を通して同時に語られることで、その背中が表す生き様を補強する。
一つのモチーフを作品全体の軸となる通念として用いるのは本邦におけるワイドスクリーンバロックとの共通点だ。
劇場版スタァではアイデアの奔流とめまいという点でも共通しているし、「ワイルドスクリーンバロック」というワードが出てくるように、当然意識されている。
あまりSF小説に詳しくないオタクにも伝わりやすい代表的作品でいうと『天元突破グレンラガン』だろう(これも私が大好きな作品だ)。グレンラガンは、少年の成長という個人的なスケールから銀河規模の戦いというばかばかしいほと大きなスケールまでドリル・螺旋というモチーフで貫いている作品だ。
話を戻そう。
ビジュアルで語るというのは、文字で語らないといけない小説ではできない、漫画・アニメならではの表現だ。特にこういった作品が印象に残るのは、最近『プロフェッショナル 仕事の流儀』で庵野監督が言っていたように「説明過多」な作品が増えているから目立つというのもあるだろう。深夜アニメの視聴者が低年齢化したり一般層に浸透したりしていることもあり、このような流れは自然に思う。しかし、個人的には最近「喋りすぎだよね......」と感じることは多い。(90年代後期にエヴァの後釜狙いでガワだけ難解な作品が流行ったらしいのもどうかと思うが)
あふれる「考察」材料とその効果
次は表現手法というよりは、もう少しギミック的な話をしよう。
レヴュースタァライトにしてもルックバックにしても、多くの意味深な「考察」材料やオマージュをちりばめているのが特徴的だ。これはSNS時代(ネット掲示板が出てきた時点ですでにそうだったとは思う)において、「考察」材料を与えることでコミュニティを活発化させ、話題作りをする狙いがあるのではと考えている。
ルックバックについては、Oasisの『Don't Look Back In Anger』や『Once Upon a Time in Hollywood』が作品内容に関連することもあり、大きく話題になった。担当漫画家にツイッターのアカウントを作らせるようにしているなど、SNSに強い編集者としても知られる(?)林氏と様々な作品から影響を受けていると公言する藤本タツキ先生の作品なので、意図的にやっていると考えるのは的外れではないのではないだろうか?
TV版スタァで意図的に「考察」材料を仕込んでいる例(として明言されていたもの)としては、インタビューにもある通り、第一話と第四話で、子供の頃の華恋とひかりの劇場での座り位置が逆になっているというものがある。
オマージュについても影響を受けた様々な作品への感謝とファンサービス、そしてビジネス的な狙いも込めてやっていそうだ。そもそものモデルとなっている宝塚をはじめ、劇場版スタァにおいては、あからさまなものでいえば『マッドマックス 怒りのデスロード』やアルチンボルドがそうだし、わかりにくそうな部分でいえば『戦場のメリークリスマス』(切腹)など探ればいくらでも出てきそうだ。
こういった「考察」材料の提供とそれによるコミュニティの活発化はフロムソフトウェアの作品群が代表的だろう(もちろんエヴァもそうだ。ここはあえて個人の嗜好を反映させていただくことにする)。過去作品のセルフオマージュに加え、想像の余地を残し、意味深なフレーバーテキストを残してプレイヤーに能動的に補間/補完させる。これによって雄弁な説明テキストによってアクションゲームとしてのテンポが崩れる事態を防ぎながら、ゲーム世界に没入させる仕組みになっている。実際、かなり昔の作品でも未だに「考察」で盛り上がる「フロム脳」たちは多い。
そもそも、一見無関係なピースをつなぎ合わせて、一貫した大きな物語や世界観を作りたいという欲求を、フィクションによって繫栄した人類(『サピエンス全史』などに詳しい)がもつのは必然ともいえよう。
そうでなければ、最近話題のいわゆる陰謀論がここまでリアリティとして力を持つことはなかったのではないだろうか?
このように、オマージュというイースターエッグ的要素や「考察」材料というのは大きな効果を持つ。
特にオタクは文脈の共有による仲間意識・連帯感を欲しているのか、「これ〇〇でみた!」というのが大好きだ。映画『レディ・プレイヤー1』にみられた様々な作品も国もまたいだキャラクターに興奮したオタクは結構いるだろう。
そして、ビジュアルによる衝撃と意図的に仕組まれた「考察」材料のギミックは受け手と作品をリンクさせる。例えば、『ズートピア』が動物のキャラクターを利用することで視聴者の無意識の偏見のようなものを引き出したように、スタァライトとルックバックにおいては再視聴/再読を促すことで、99回聖翔祭の再演を繰り返したなな/過去の自分の選択の後悔にとらわれた藤野と受け手側がリンクすることになるのだ。
追記:以上のように書いてきたが、少なくとも劇場版スタァについては、繰り返し観てもらおうという意図はなかったようだ。オタクの自分語りのためにねじ曲げてしまっていたので訂正したい。とはいえ、これほど強い「体験」を浴びると「再演」を望むのは自然な話であるし、実際4回ほど映画館に足を運んだ。(熱心な人たちに比べるとそれほどでもないが、自分の中では最多だ。)大まかな話の流れとしてはそれほど変わらないので、ご容赦願いたい。
表現者として生きる 再演/ルックバックを超えて
ななは、99回聖翔祭のキラめきはもう訪れず、舞台少女としてのキラめきを失ってみんな燃え尽きていく未来に恐れを抱いて、再演を繰り返した(結果的に、そのおかげでひかりが転校してくるまでの間、99期生がオーディションによってキラめきを失う事態が防がれたのだが)。
藤野は現実の中で先に進めず、才能あふれる京本が生きて一緒に創作できるようなifを夢想した。
彼女たちはそのような状態からどうやって前に進めるようになったのか?ななを起点にみていこう。
ななはTV版スタァ9話の華恋との"絆のレヴュー"において、「舞台少女は日々進化」すること、「どんな舞台も一度きり。その一瞬で燃え尽きるからいとおしくて、かけがえなくて、価値がある」ことを認識させられた(それが腑に落ちて、舞台少女として「再生産」できたのは純那の存在が大きいと思うが)。
その華恋に説得力を与えたのはひかりとの約束である。過去のキラめきの原体験が強いモチベーションとなっているという意味で、これは藤野と共通する(ただ、自分の作品を大切な相手に楽しんでもらいたいという藤野の気持ちはどちらかというとまひるに近いといえる)。
このように、過去の原体験というのは、表現者にとって非常に大きな意味を持つと言っていいだろう。
また、劇場版スタァでは最終的に華恋とひかりだけでなく、他のペア(カップリングともいう)も別々の進路を行くことになる。ルックバックでは、中盤の大学進学と漫画家としての別々の進路を行くこと、さらには死別といったように、歓迎される形とは限らないが、最終的には別離につながる。
そして、これが重要だが、そのような別離を経ても、人として、そして表現者としての生は続くのだ。
もう今は昔のような作品は作れないかもしれない。この人なしで自分はキラめくことはできるかわからない。
しかし、先に進まなければ、なながTV版スタァでよく口にした「こんな〇〇ちゃん初めて」といったような経験をすることはできないのだ。舞台の再演は決して同じものにならず、「舞台少女は日々進化中」。裏を返せば、変化せず立ち止まるということは表現者としての死に等しい。表現者として生きていくということは「こわいなーーーー」であるとか、もっとうまくやれたのではという気持ちをはじめとした過去への後悔だとか、その他もろもろの気持ちと共存して生きていくということなのだ。
そこまでしてもなお、正しく評価されない/誤解された/作品の外側の要素で報われないといったことはあるのだろう。そもそも、この世は理不尽そのものだ。災害・病気・事件・事故の被害に自業自得は基本的に通用しない。どんなに善い行いを積み重ねたとしても、それが実を結ぶとも限らない。
そうであってもなおやっていくというのが表現者なのだろう。
ではオタクは?私たちは?
さて、ここまで表現者として生きるということについて、レヴュースタァライトとルックバックを通して検討してきた。
表現者に大きすぎる重荷を背負わせる一方、コンテンツを享受するばかりの我々オタクはどう生きていけばいいのだろうか?
もちろん、受け手が存在して表現が存在するというのは当然のことだ。だが、それだけでは受け手側で完結しているのではないか。
どうすれば「キラめきの燃料」になることができるのだろうか?
はじめに、どうすべきかということの前に、どういうことをするべきではないかということを確認していく。
表現者を搾取すべきではない
まず、表現者を搾取することを当然とすべきではない。表現において我々受け手はステイクホルダーであるわけだが、その立場を濫用してはならないということだ。
わかりやすい話でいうと地下アイドルとオタクの関係だ。アイドル志望の女の子たちはそれこそ舞台少女のように「女の子の楽しみ」を捨てて「キラめく」ことを目指してアイドルになる。その覚悟であるとか後に引けない状況であるとか精神的な問題であるとかが利用されて、パフォーマンスが過激化されていく地下アイドルが存在するのは否定できない。こういったやりがい搾取的な話に限らず、ルッキズムだとか若さの搾取という論点もあるだろう。簡単な話ではない。
とはいえ、アイドルを廃止しろというのも違うはずだ。「推し」の存在がかけがえのない存在であり救いになることも確かだからだ。信仰と大きな物語が消失した現代日本において、自分の人生はどんづまりであとはただ老いていくだけとなったときに、夢を託せる対象がいるのは大きな違いを生むだろう。
どれだけキラめいて見えても、相手も一人の人間に過ぎないことを少しは頭において、程よい間合いをとっていく姿勢が必要だと思う。
労働問題という意味では、ずっと言われていることではあるが、アニメーターの待遇も改善されてほしいなと思う。クリエイティブな仕事である以上ある程度の長時間労働はやむを得ないんだろうが、少なくともそれに伴った報酬が支払われるようになってほしい。よく製作委員会方式がやり玉に挙げられるように、システムの問題が大きく関わっているように思っているが、実際我々にできるようなことはあるんだろうか?今の自分にはわからない。せいぜい重大な問題であるという共通認識を作って、行政などに訴えかけるとかくらいしかできないのか?
メディアコンテンツにおいては、違法アップロードサイトでのコンテンツの享受も控えるべきだ。ある程度の収入を得て可処分所得がある人間にとっては、何をそんな当たり前なことをという話ではある。ただ、そうでない人たちがいる。それは自分で稼ぐ手段のない子供たちだ。自分が10代のころはゲームを買い与えるのは「金の無駄」だからと子供に「マジコン」を入れさせるような風潮もあったように思う。生まれたころからマンガやゲームが存在し、それとともに育った世代が親になることで、それがおかしいことが当然という風潮ができてくれるといいなと思う。
受け手を搾取する構造が暴走するのを良しとすべきではない
ここまで、受け手側が搾取していることについて書いてきた。一方で、コンテンツの提供者側が受け手を搾取するという構造があることもまた事実だ。ソシャゲの廃課金がすぐに浮かぶと思う。
受け手としては素朴な資本主義的システム上でのラットレースに乗っかることからは一歩身を引き、よりよい表現だとかコンテンツに還元していこうという態度が必要になってくると思う。
しかし、ことはそう単純でもない。 広義のアニメ市場規模には商品化のライセンスが半分程度だが、次点でパチンコ/パチスロ産業での売り上げがかなりの部分を占め、アニメ映像自体による売り上げはかなり小さなものだ。
ゲームの運営元にしてもアニメの制作会社にしても編集者にしても、営利団体であるわけでボランティア集団ではないし、マネタイズの必要性からある程度こういう構造が必要になるのは仕方ない部分があると思う。
しかし、こういった現状に自覚的であることは重要だと思う。
依存症の問題は簡単ではない。所詮人間は脳内物質につきうごかされているということを認識させられる機会は多いだろう。単に表現者と受け手という枠組みの問題ではなく、精神的な貧困であるとか法規制だとかそういう観点でのアプローチでシステムの暴走を防ぐことが必要になってくるだろう。
独善的な「愛」を押し付けるべきではない
廃課金へのアンチテーゼとして「課金額ではなく推しへの愛の大きさが重要」という考え方もあると思う。
しかし、個人的にはこういう独善的な価値観を押し出していくのは好ましいとは思えない。よく、「信者とアンチは紙一重」と言われる。暴走した「愛」がストーカー行動につながったり、勝手に作ったイメージを裏切られて勝手に怒り狂って誹謗中傷につながったりというのは、SNS時代の負の側面として非常にホットな話題だ。
ファンとは言うがfanaticであるのはいいことなの?という自問をしていきたい。そもそも「愛」ってなんですかというところからしっかり検討すべきだ。
簡単な意思表明から始めよう
さて、ここまでオタクとしてすべきでないことについて長々とお気持ち表明をしてきた。お付き合いいただけていることに感謝したい。
ここからはオタクがどうしていくべきかについて書いていく。「観客」「読者」として表現のための良い「燃料」になるにはどうしたらいいのだろうか?
二次創作などでコミュニティを活発にするというのもあると思うが、表現力に乏しくてもできるようなことを考えていこう。
まず今からでもできることは、読者アンケートや「いいジャン」を押すなど、自分が「いい」と思っているということを表現者/作り手側に表明していくということだ。アイドルの現場でいえばペンライトの光の一つと言ってもいいのかもしれない。
こういう行動は簡単だからこそ、自分の影響力なんて無に等しいよねという考えから積極的にやらない人は結構いると思う。所詮大きな数字の下1-2桁に介入するだけではあるのだが、投票率のジレンマと同じだ。やらないよりはやった方がいいし、こういうところから始めるのが一番よさそうだ。
最近ではSNSの普及もあり、作り手や配給側に盛り上がりを直に届けることができるようになり、向こう側もある程度それを期待している部分があると思う。例えば、イオンシネマ海老名ではツイッターでの反応を受けて劇場版スタァの公開継続につながった。
SNSで受け手と表現者が直につながる影響は、誹謗中傷のような悪い部分が目立ってしまうが、こういう良い側面を活かしていきたい。
また、昔からファンレターが励みになりますと表明している作家の方はよくみかける。私自身は、恐れ多い、クソリプみたいになりそう、解釈違いのこと書いてしまいそうと思ってしまってできないのだが(こんな長文を書いているのに)、そういう引け目がないなら送るのもよさそうだ。
布教するということ
作り手/表現者にフィードバックするという話の次の話題として、受け手としてオタクが共に行動する方法について書こう。
「作品は作って半分、売って/伝えて/知ってもらって半分」という言葉がある。冒頭に挙げた『映像研には手を出すな!』でもそんな話があった。創作が苦手なオタクでも、後者に介入することは十分可能だ。
近年、特にweb広告が粗悪化している実感はだれしもあると思う。それに対抗して、SNS時代の強みを活かして、口コミベースの宣伝を草の根的にしていくことができるだろう。特にネット民が昔から広告代理店とか「ゴリ押し」が大嫌いなのは周知のとおりだと思うが、その嫌悪感を昇華していい方向にもっていけるのではないか。
草の根運動というのは本邦のデモ的なものへの失望感(こんなので硬直したシステムや偉い人/年長者/マジョリティの価値観なんて変わらんよね。そもそもうっといわ)もあり、冷笑されることもあると思う。しかし、大勢に影響はなくても少しはそれで変わることもあるはずだ。
実際私はツイッターで劇場版スタァが話題になってたのを見て、TV版・総集編・劇場版・舞台を追った「にわか」にすぎない。口コミのおかげでスタァライトされたのであり、今ここにこの記事を書いているわけである。
昔から再放送から人気になったアニメは多くある。最近では『鬼滅の刃』のように(時勢がかみ合ったのもあるが)配信のおかげでたくさんの人が追いついてここまでの社会現象になった。「リアタイ」時点で埋もれた作品はたくさんある。
そういうわけで、これはある程度の表現力が必要になってしまうのだが、「布教」スキルを高めていくのが重要だと思う。そんなにインパクトのあることとか気の利いたことを言えなくてもいい。「ガルパンはいいぞ」といったように、語らないことで相手に託す布教の仕方もあるだろう。純那なら「言葉が役に立たないときには、純粋に真摯な沈黙がしばしば人を説得する。ウィリアム・シェイクスピア」と背中を押してくれるのだろうか。
そして、これも重要だが、他人に自分のお気に入りを押し付けるばかりではなく、相手のおすすめも積極的に摂取していくことで、自分の世界を広げていくのも重要だろう。
長々と具体的な行動指針を書いてきたが、最終的に大切なのは結果そのものよりも態度やプロセス、つまり生き様なのではないだろうか。ルックバックにおいて背中で漫画家としての生き様が示されたように、舞台少女が「女の子の楽しみ」を捨ててキラめこうとする姿に、我々も生き様で答えていかないといけない。
おわりに ~The Show Must Go On~
現実はひどく理不尽でどうしようもない。「善く生きよう」としたところでそれが現実を「善く」してくれるとは限らない。素晴らしい作品を作った人が幸せで恵まれた人生や最期を送れるとも限らないし、それに報いようとしても何もできなかったなんてことは珍しくないだろう。
こういったどんづまり感がなければ、ここまで異世界転生ものが流行ることもなかったはずだ。そんな中で「現実に帰れ」といった擦られすぎたメッセージを提示しても鬱陶しさしかないのも理解できる。
一方で自らの身体が「現実」で生きているということ、そしてフィクションもその「現実」から生まれてくるものであることは否定のしようがない。まさに「基底現実」というやつだろうか。
ルックバックは藤本タツキ先生自身の私小説でもありながら、現実の事件を題材にもしていて、「現実」とフィクションの接点を押し出している。
スタァライトにおいては、東京タワーという日本人の中で強いシンボルとして実在するものであるとか、劇場版スタァでの「トマト」や「列車」には「見てくれた人の日常に食い込みたい」という古川監督の気持ちが反映されている。
人類が他の動物と大きく異なるのはフィクションを操るという点にある。フィクションを通して現実に働きかけることによって人類はここまで発展してきた。フィクションの扱いに長けた我々が「現実」をマシにしていけるのなら、それは素晴らしいことなのではないだろうか?
(シン・エヴァ終盤っぽい話だ。それはそうと「イマジナリー」という言い方は偽物感強くて個人的にはちょっとしっくりこない感ある。陰謀論者にとっては我々が「陰謀論」とみなすようなものは立派なリアリティだと思うし。)
最後に純那に倣って劇作家の名言でも引用して締めようと思う。
"Fiction is the lie through which we tell the truth." by Albert Camus
我々はこの言葉を自分の武器にできるだろうか?
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