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支配の中の自由を満喫する

以前チラッと斜め読みした記事で、仏教関連の話ですが、『人間は何かに支配されて生きるものだ』と解説してくれる方がありました。

国家や宗教、自分がたまたま生まれ落ちた時代や場所の決まりごと。その中でルールを植え付けられ、その思い込みによって生かされている。

そういえば、そうです。

わたしの頭に、尾崎豊の『卒業』が流れました。

こーの支配からの、卒業♫

その前の歌詞は

『あと何度自分自身、卒業すれば、本当の自分に辿り着けるだろう?』

中学校の時、普通にまじめでしたが、それでも、尾崎豊の歌に心を熱くしていました。『自由て一体なんだ?生きるて一体なんだ?』尾崎豊の歌にはそんな問いかけがたくさんあったと思います。

で、大人になりまして、改めて。

冒頭の『支配に対する考え方』ですね。

支配から逃れている人なんていないのです。

自然そのものも支配だと思えば、人間、自分の思い通りに生きていくことは不可能。思い通りのレベルがいろいろですけど。日本で生まれたからには、平和な秩序を保つためのいろんなルールがあります。

義務教育という名の素晴らしい日本の教育方針も、みな平等に学力をつけるために良かれと思って皆に強いた。だから、小学校、中学校は学校に行かないという選択肢はなかったし、みな親の庇護という支配もまた二重にあって。親もうるさい、学校もうるさい、決まりばっかり、何も楽しくない、グレる!→結果として、『夜の校舎を窓ガラス壊して回った』、みたいなことになるんですね。実際ほとんどの人は出来ませんから、想像して鬱憤晴らしていたのかなって思います。で、我こそはやってやるぜ!とそこで心意気をぶちまけるのが、実際奇行に走る人たち。公共物を破壊するということは、誰かが修繕にお金をかけなきゃいけないことだ、それはして良いのか? タバコ、シンナーとか、体に良くないものをやって良いのか?

支配から逃れるということは、そういうことではない、とそうやって人は大人になる。だからヤンチャやり尽くした人の方が、お利口さんだった人より我慢強い気がします。。。

それでも、分かったような分からないような感じなのは、大人になったら選択肢は自由に与えられる。必要な決まりごとと、どうでもいい決まりごとが見えてくる。でもグレーゾーンをジャッジするのは自分ではなく、どちらにつくかで、正義にも悪にもなる。そう、自分の立ち位置で支配されるものが変わるのです。そこに矛盾が必ずあり、そうなると、悪いことかもしれないけど、黒を白!なんてことや、長いものには巻かれろ、とか、郷に入っては郷に従え、ということになります。低レベルな話だと、会社の服装規定とかね。古い会社の決まり事。

その支配の中でいかに自分を解放しながら生きるのか?そこには生きていく知恵が必要になるんですね。

わたしにも、わたしを支配する要素があります。

家族との共生のため、宗教の信心や、職場やコミュニティに出没する支配者。

人間が暮らすためには、たとえどこに逃れようと、何かあるんです。となれば、『しゃーない』と覚悟を決めるしかありません。

都会の喧騒を逃れて、田舎暮らしをしたら、土地の行事に駆り出されて大変だった、なんてたまに聞きますよね。無関心で冷たいと思うのか、いちいち干渉されてうるさいと思うのか、自由なのは『自分の捉え方』だけです。

支配される覚悟を持つ、それが健全な大人なのだろうか、と思います。

その中で健全な忖度があったり、妥協があったり。それは悪ではなく、自他の平和を守ることになるのかな、と。自由を追いかけるあまり、自分が不幸になっているということもあるのかもしれません。

確かに、自分を蔑ろにする支配は、見分けなくてはなりません。奴隷のようにこき使われる環境から抜け出そうとするのは当然のことです。あくまで相互関係として幸せがもたらされているか?

『束縛されるのが苦手』と言っていたわたしも、『束縛こそ生きている証』だと思えば、夫からの束縛も本当に幸せだと思うのです。だからこそ、今、自分にはない信心をしていこうという覚悟があるのだと思います。挫けそうになりながら、頑張りますよ。








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