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花のかげ~第4章 瓦解(1)

一.また入院

 九月に入ると、五日に私の姉夫婦が娘と孫を連れてやってきた。母にとっては初めてのひ孫に会えることになった。ひ孫は生まれてもう三か月を過ぎており、母はひ孫を抱いては涙したという。残念ながら私はこの日仕事だったために会えていない。だが母からすればやっと娘に会えただけでなく、孫はおろかひ孫に会えたことでそれは充実した一日だったはずである。
 しかしコロナの関係もあり、姉たちは数時間滞在したのちにとんぼ返りするように帰っていった。姉たちが帰宅した後、母はひ孫の写真に嬉しそうに何度も話しかけていた。この日を境に、母が自分の娘、つまり私の姉のことを悪しざまに言うことはなくなった。
 さて、抗がん剤の投与が錠剤での投与でうまくいかなかったこともあり、結局は入院して点滴で投与することになったわけだが、認知症の進行が入院にどういう結果をもたらすか、私も妻もこの時点ではまったくわからなかった。
 九月七日に入院すると、その日はアバスチンと抗がん剤の投与となった。加えてこの日、母はオプチューンの使用について今川医師に正式に断りを入れている。
「裏をとるぞ」
と今川医師は言ったらしいが、これは母の言葉なので真偽のほどは定かではない。今川医師もあまり細やかな言葉遣いをするタイプではないのでそう言ったとしてもわからないでもないわけだが、オプチューンを断れるかどうかですら私たちには不安でもあったので、それだけはきちんと言えたということに少し安心もした。今川医師から私の携帯に連絡がきて、オプチューンをやらないことが正式に決まった。
 オプチューンは脳腫瘍が再発した場合は保険適用とはならない。だからやるなら今というのも理解はできる。だがそれによるストレスを考えると、寿命のことも考えれば使用しないという決断を母がしたことは受け入れるしかない。もちろん私たちにしてもオプチューンを使うことに関しては難しさしか思いつかなかったわけで、それがなくなったということは正直言えば少しホッとした部分もある。
 この入院期間になにごともなければと思ってはいたのだが、残念なことにそうはならなかった。
 木曜日になると、私の携帯に母から留守電が入っていて、
「私だけど……。どうして迎えに来てくれないの? 今、中富にいるから」
というメッセージが入っていた。中富とは八月末で閉店した飯山の百貨店である。私は胸が締めつけられるような思いになった。迎えに来てくれない、つまり自分は見棄てられていると母は思い始めている。最初の三日間はまだ何も連絡がなかったからよかったが、四日はもたないということなのだろうか。
 次の日も携帯にはメッセージが入っていた。内容はだいたい同じだった。母はどうしても自分のいる場所というか地域がもはや私が居住する地域ではなく、自分の住んでいた地域であると思い込んでいるようだった。しかもなぜか病院が百貨店の上に新しくできたところだと思っているようなのである。
 やはり認知症が進行していることは明らかだった。だがコロナ感染防止のため、病院に行ってあげることはできない。こちらから電話をかけたとしても取り次いでもらえるわけではない。病室にいる母の携帯に電話をするのは他の入院患者のことを考えればナンセンスである。手詰まりだった。
 そうしてやってきた日曜日。私と妻が母を迎えに行った。正直かなり不安であった。どんな様子になっているのだろう、そればかりが頭から離れなかった。
 病室を区切るカーテンを恐る恐る開けてみると、そこには上半身裸になってマフラーだけを巻いている母がいた。
「お母さん、迎えに来たよ」
というと、母は一瞬私たちが誰だか理解できない様子だったが、それが私たちだとわかると急に私と妻の手をとって泣き出して、
「やっと来てくれた。もう私は捨てられたと思った」
と言った。
「捨てるなんて、そんなことするわけないでしょう」
といって二人で手をさすってあげたが、母はなかなか泣き止もうとはしなかった。しかし上半身裸のままにしておくわけにはいかない。どうやら自分で着替えようとしてどうにもならなくなってしまったらしい。
 二人がかりで着替えを手伝い、退院の手続きをして私たちは病院を後にしたわけだが、車の中でも母は時々感極まって涙を流した。とにかく見舞いに行けないというのはこうも難しい問題に発展してしまうのか、と思わざるをえなかった。だからといって抗がん剤の投与を外すわけにはいかない。だいたい母は抗がん剤を投与する手段がもはやこれしか残っていないわけなのだから。しかし入院しての抗がん剤投与はまだまだ先が長い。抗がん剤を入れるのは二年間になる。その二年間を果たして母は耐えられるのだろうか、という思いばかりが頭に浮かんだ。
 帰宅すると母はかなり落ち着きを取り戻した。だが母は自分がこの入院期間中に徘徊したと言い始めた。病院から徘徊の報告は受けておらず、そもそも母が入院していた病院では徘徊などできるような構造にはなっていないのである。
 私もその大学病院に入院したことがあるからわかるのだが、その病院はフロアごとに独立しているというか、エレベーター以外でほかのフロアへと移動することは原則できないようになっている。非常階段のようなものはあるようなのだが、いまだに私はその階段がどこにあるのかわからない。そのくらいエレベーターでしか移動できないわけである。職員には職員専用のエレベーターがあるわけなので、一般の人や入院患者が使えるエレベーターは夜間には停止してしまう。要するに徘徊するならば同じフロアの中で、ということになるわけなので、当然夜勤の看護師の目に触れることになる。だが看護師からは徘徊したという報告は一切なされていなかった。だが母は、
「私さ、病院の外に一人で出たんだよね。そして歩いてたんだけど、戻れないといけないと思って戻ろうとしたんだけど、やっぱり戻れなくなって手すりのところを指でカリカリひっかいていいたんだよ」
と真顔で言った。
 さすがにこれは修正しなければならないと思って、病院から一人で外にでることはできないことを言うわけだが、母は自説を曲げることは絶対にしなかった。自分は確かに徘徊したのだと言い張るのである。これはしばらくの間繰り返し言っていた。
 また病院も、それまで手術や放射線治療を行っていた病院が移転して、百貨店の上に新しくできたところになったと言っていた。それは違うと言っても、
「私もなんでここになったのかなぁって思うんだけど、中富の上なんだよね」
と言って譲らない。
 母の頭の中では、もうそこは飯山になっていたようなのだ。病院の中にも自由に出入りして食事をとれるところがあるのだそうで、それは一階の脳外科外来の近くにあると言う。これもあり得ないことなのだが、「あるんだよ」と言って譲らなかった。
 このように距離感の喪失は、徐々に混同へと変わっていった。そもそも私の家を自分が住んでいた家だと思うようになったのは八月からである。それまでは自分の家ではないことはなんとなくわかっていて、自分の家まで歩いて行ける距離だと思い込んでいたものが、そうではなくなってきていたのだ。
 妻に対して自分の家にあるものを取り出そうとして、
「ちょっと天袋にあるものを取りたいんだけど」
ということがたびたびあった。もちろん我が家には天袋などというものはない。あるのは飯山の家なわけである。それも指をさしながら言うので、母の目にはそこに天袋があるように「見えている」わけである。妻がやんわりと
「天袋はないんですよ」
というと、「そうだっけぇ?」と首をかしげながら引き下がっていくのがパターンになっていた。
 加えて、私が帰宅した後に母からの質問などに答えていた時のことだ。やはりすぐに行ける距離のところに行きたいことを主張する母に対してそれは不可能であることを言うと、
「ここは飯山だから!」
と声を荒げた。すかさず私も、
「ここは桂田だ」
と返すしかなかった。さすがにそこで母の言葉を否定しなければ、その後の母の要求はますますエスカレートしかねないと思ったからだ。母はびっくりした表情をしたが、「そうなの?」と言ったっきり黙ってしまった。そして、
「私、頭がおかしいんだね」
と寂しそうに言った。できるだけ刺激しないように、否定しないように努めていても、ここだけはどうしても譲れない、譲りようがないというものがある。母に対しては申し訳ないという気持ちはあるものの、こればかりは致し方ない。
 ある時同じようなやり取りが行われた後、母がポツリと誰に対してでもなく独り言のように、
「こうやって私は壊れていくんだね……」
と言っていた。
 こんなことが日常的に繰り返されるようになり始めた。私たちは体力的なものに加え、精神的な負荷もかかり始めた。

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