土着への処方箋——ルチャ・リブロの司書席から 22 「忘れたい人を忘れるには?」
誰にも言えないけれど、誰かに聞いてほしい。そんな心の刺をこっそり打ち明けてみませんか。
この相談室では、あなたのお悩みにぴったりな本を、奈良県東吉野村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開く本のプロ、司書・青木海青子さんとキュレーター・青木真兵さんが処方してくれます。さて、今回のお悩みは……?
◉処方箋その1 青木海青子/人文系私設図書館ルチャ・リブロ司書
分岐ルートは一本道ではない
本書は、乳がんを患った哲学者、宮野真紀子さんと、人類学者の磯野真穂さんが交わした、魂の往復書簡です。
磯野さんは1通目の書簡で、心房細動を治療中の女性、山田豊子さんの例を挙げます。
山田さんはある日の散歩中、これまでにない速さで心臓が脈打ったことに不安を覚えて病院を受診し、心房細動と診断されます。心房細動が持続し、脳梗塞になることを恐れた山田さんは、自らの生活を一変させます。好きだったお酒やカラオケはもちろん、遠出や犬の散歩までやめてしまうのです。しばらくそれで発作がなかったので、もう治ったかもと喜んでいたとき、通院中に発作を起こし、大きなショックを受けてしまいます。
書簡を読んだ宮野さんは、「豊子さんの気持ちはすごくわかる」と言いつつも、「このリスクと可能性をめぐる感覚はやっぱりどこか変だ」と指摘します。
りくさんの分岐の考え方は、どこか豊子さんに近いような気がします。面接という分岐の先が、一本道だと思っているから忘れられない、諦められないのではないでしょうか。
私もどちらかというと、すごく後悔するタイプでした。一本道だと考えていると、こっちの道に入ったら、他の道と二度と交わりがないように感じてしまい、だからこそ「あそこだけが分岐だった」とすごく後悔する。でもこの言葉に出会い、実はたくさんの分岐点があって、もしかしたらその先でもとの道と交わっているかもしれない、思いも寄らない道とつながるかもしれない。そう考えられるようになり、すごく気が楽になりました。
この分岐の考え方を知ると、人生で自分にコントロールできる部分は、実はとても少ないことにも気づきます。りくさんも本書を読んで、分岐の発想を切り替えてみてはいかがでしょうか。
◉処方箋その2 青木海青子/人文系私設図書館ルチャ・リブロ司書
手放すことの難しさ
永らく行方知れずになっていた黄金の指輪が姿を現し、冥王サウロンが指輪をとり戻そうと動き始めた中つ国(ミドル・アース)が舞台です。中つ国の隅でのんびり暮らしていたホビット、フロド・バギンズは、この恐ろしい指輪を滅する旅に出ることになってしまいます。
『指輪物語』は、1億人のファンを持つといわれる不滅のファンタジーですが、この物語の主題が、「宝物を手に入れること」ではなく、「手放すこと」である点は、注目に値します。
人間にとって、自ら手放すとはどれだけ難しいことなのかを、大戦を経験して究極の人間の姿を見てきたトールキンにはよくわかっていたのだと思います。
この物語には、人間より体も小さくのんびりした性質のホビットのフロドより、魔法使いガンダルフや人間のアラゴルンなど、ずっと強くて賢い、厳しい使命に向いていそうな人物が結構登場するのですが、そういう人ほど、指輪を触ろうともしません。
フロドのおじさんで元指輪所有者のビルボに「これを取って、わたしの代わりに渡してやってください。それが一番確かでしょう」と言われたガンダルフなど、「いいや、指輪はわしによこさんでくれ、(…)暖炉棚の上に置いてくれ」と断ったくらいです。一度でも触ってしまうと手放せなくなることを、よくわかっているからです。
他にも、指輪に魅入られた結果、自分から手放せずに彷徨い続けることになった存在も登場します。その姿はすごく恐ろしくて、フロドたちの旅における脅威になるのですが、ある意味悲しい存在としても迫ってきます。
憧れの人に固執してしまっているりくさんも、この壮大な物語に触れて、手放すとはどういうことなのか、考えてみてはいかがでしょうか。
シリーズは全10巻。読んでいるうちに気が紛れて、何かを掴めるかもしれません。
◉処方箋その3 青木真兵/人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター
憧れの存在の内実を見つめる
りくさんの憧れの人が、どんな方なのか具体的にはわからないのですが、もしその人への気持ちにご自身で問題を感じているのなら、どうにかして近づいて、実際のその人をよく知る機会を探づのも一つの手ではないかと僕は思います。
憧れの存在の内実を知ったとき何が起きるのか--それが描かれているのが、この『ソヴィエト旅行記』です。
著者は『狭き門』で有名なフランスのノーベル賞作家、アンドレ・ジッドです。
20世紀前半の知識人にとって、ソビエト(旧・ソ連)は、まさに憧れの地でした。平等な社会を実現すべく作られた真のユートピアであると、世界中で考えられていたのです。
1936年、ジッドは、ソビエト作家同盟からの招請を得て、当時自由には入国できなかった憧れの国、ソビエトに足を踏み入れます。
到着直後の彼の使命は、亡くなったソビエトの劇作家、マクシム・ゴーリキーの国葬に参列すること。ジッドはゴーリキーの死を悼み、ソ連を称賛する弔辞を読むのですが、その後滞在するうちに、ソ連の実態を知ってしまいます。
貧困が蔓延し、人々は決して平等ではなく、官僚はスターリンを忖度しまくっている。社会主義国の現実に幻滅したジッドは、理想的だと憧れていたことさえ後悔し始めます。そしてこの旅行記に、「ソヴィエトの実態」を赤裸々に書いてしまうのです。
ソビエトに行ったことのない世界中の知識人、共産主義者は、これに激怒し、ジッドは袋叩きにあいます。
憧れが強かっただけに、実物を見たときに「言ってることとやっていることが違う!」と余計に幻滅してしまったのでしょうね。翌年にはさらなる批判を加えた修正版を出版しています。さらにジッドは、共産主義ともきっぱりと決別します。とても誠実な人ですよね。
りくさんも、「憧れの人」がどんな人なのか、本当のところは知らないのではないでしょうか。そうした状態では、その人についての悪い噂を聞いても、「そんなことはない」と批判し、憧れが揺らぐことはないでしょう。
憧れの人に落胆したくない気持ちはわかります。でも、それではジッドのソビエト批判を「そんなわけないじゃん!」と実態を知らずに批判した人たちと、ベクトルは違えど同じことをしてしまう可能性もある。
ぜひ本書を参考に、どうにかして接点を持ち、実態を見た上で、よりリアルなその人像を掴んでみる、という手法もあることを頭の片隅に置いておいてもらえたらと思います。
◉ルチャ・リブロのお2人の「本による処方箋」がほしい方は、お悩みをメールで info@sekishobo.com までどうぞお気軽にお送りください! お待ちしております。
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