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土着への処方箋——ルチャ・リブロの司書席から 22 「忘れたい人を忘れるには?」

誰にも言えないけれど、誰かに聞いてほしい。そんな心の刺をこっそり打ち明けてみませんか。

この相談室では、あなたのお悩みにぴったりな本を、奈良県東吉野村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開く本のプロ、司書・青木海青子さんとキュレーター・青木真兵さんが処方してくれます。さて、今回のお悩みは……?

〈お悩み〉忘れたい人を忘れるには?
数年前に転職活動をしていた頃のことです。ずっと憧れていた人と同じ職場で働けるチャンスが訪れました。
面接当日、なんとその憧れの人が面接官としておられ、ただでさえ面接が苦手な私はすっかり平常心を失ってしまいました。案の定、結果は不採用でした。
不採用の原因は私の能力不足なので、異存はありません。私の中では就職できなかったことより、憧れの人と一緒に働けないことへのショックのほうが大きく、そんな自分に落ち込みました。
いくら憧れの人でも、一緒に働けば憧れの気持ちが薄れる時が来るのだからと自らに言い聞かせて転職活動を続け、別の会社で働き始めたのですが、憧れの人のことがどうしても頭から離れず、短期離職を繰り返しています。

面接を受けてから数年が経つ今も、SNSをチェックし、同じ面接で採用された人と飲みに行ったと知っては、一人落ち込んでいます。私自身の今を大切にできないのがつらいです。
情けない悩みですが、こんな私に何かいい本がありましたら教えてください。 (りく・39歳)

◉処方箋その1 青木海青子/人文系私設図書館ルチャ・リブロ司書

『急に具合が悪くなる』
宮野真生子・磯野真穂著 晶文社

分岐ルートは一本道ではない

本書は、乳がんを患った哲学者、宮野真紀子さんと、人類学者の磯野真穂さんが交わした、魂の往復書簡です。
磯野さんは1通目の書簡で、心房細動を治療中の女性、山田豊子さんの例を挙げます。
山田さんはある日の散歩中、これまでにない速さで心臓が脈打ったことに不安を覚えて病院を受診し、心房細動と診断されます。心房細動が持続し、脳梗塞になることを恐れた山田さんは、自らの生活を一変させます。好きだったお酒やカラオケはもちろん、遠出や犬の散歩までやめてしまうのです。しばらくそれで発作がなかったので、もう治ったかもと喜んでいたとき、通院中に発作を起こし、大きなショックを受けてしまいます。

書簡を読んだ宮野さんは、「豊子さんの気持ちはすごくわかる」と言いつつも、「このリスクと可能性をめぐる感覚はやっぱりどこか変だ」と指摘します。

おかしさの原因は、リスクの語りによって、人生が細分化されていくところにあります。そのとき患者は、いま自分の目の前にいくつもの分岐ルートが示されているように感じます。それぞれのルートに矢印で行き先が書かれていて、患者たちはリストに基づく良くないルートを避け、「普通に生きてゆける」ルートを選び、慎重に歩こうとします。
けれど、本当は分岐ルートのどれを選ぼうと、示す矢印の先にたどり着くかどうかはわからないのです。なぜなら、それぞれの分岐ルートが一本道であるはずがなく、どの分岐ルートもそこに入ってしまえば、また複数の分岐があるからです。

『急に具合が悪くなる』より

分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶことではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入ってゆくことなのです

『急に具合が悪くなる』より

りくさんの分岐の考え方は、どこか豊子さんに近いような気がします。面接という分岐の先が、一本道だと思っているから忘れられない、諦められないのではないでしょうか

私もどちらかというと、すごく後悔するタイプでした。一本道だと考えていると、こっちの道に入ったら、他の道と二度と交わりがないように感じてしまい、だからこそ「あそこだけが分岐だった」とすごく後悔する。でもこの言葉に出会い、実はたくさんの分岐点があって、もしかしたらその先でもとの道と交わっているかもしれない、思いも寄らない道とつながるかもしれない。そう考えられるようになり、すごく気が楽になりました。

この分岐の考え方を知ると、人生で自分にコントロールできる部分は、実はとても少ないことにも気づきます。りくさんも本書を読んで、分岐の発想を切り替えてみてはいかがでしょうか。

◉処方箋その2 青木海青子/人文系私設図書館ルチャ・リブロ司書

『新版 指輪物語1 旅の仲間 上1』
J・R・R・トールキン作 寺島龍一絵 瀬田貞二訳 評論社文庫

手放すことの難しさ

永らく行方知れずになっていた黄金の指輪が姿を現し、冥王サウロンが指輪をとり戻そうと動き始めた中つ国(ミドル・アース)が舞台です。中つ国の隅でのんびり暮らしていたホビット、フロド・バギンズは、この恐ろしい指輪を滅する旅に出ることになってしまいます。

『指輪物語』は、1億人のファンを持つといわれる不滅のファンタジーですが、この物語の主題が、「宝物を手に入れること」ではなく、「手放すこと」である点は、注目に値します。
人間にとって、自ら手放すとはどれだけ難しいことなのかを、大戦を経験して究極の人間の姿を見てきたトールキンにはよくわかっていたのだと思います。

この物語には、人間より体も小さくのんびりした性質のホビットのフロドより、魔法使いガンダルフや人間のアラゴルンなど、ずっと強くて賢い、厳しい使命に向いていそうな人物が結構登場するのですが、そういう人ほど、指輪を触ろうともしません。
フロドのおじさんで元指輪所有者のビルボに「これを取って、わたしの代わりに渡してやってください。それが一番確かでしょう」と言われたガンダルフなど、「いいや、指輪はわしによこさんでくれ、(…)暖炉棚の上に置いてくれ」と断ったくらいです。一度でも触ってしまうと手放せなくなることを、よくわかっているからです。

他にも、指輪に魅入られた結果、自分から手放せずに彷徨い続けることになった存在も登場します。その姿はすごく恐ろしくて、フロドたちの旅における脅威になるのですが、ある意味悲しい存在としても迫ってきます。
憧れの人に固執してしまっているりくさんも、この壮大な物語に触れて、手放すとはどういうことなのか、考えてみてはいかがでしょうか
シリーズは全10巻。読んでいるうちに気が紛れて、何かを掴めるかもしれません。

◉処方箋その3 青木真兵/人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター

『ソヴィエト旅行記』
ジッド著 國分俊宏訳 光文社古典新訳文庫

憧れの存在の内実を見つめる

りくさんの憧れの人が、どんな方なのか具体的にはわからないのですが、もしその人への気持ちにご自身で問題を感じているのなら、どうにかして近づいて、実際のその人をよく知る機会を探づのも一つの手ではないかと僕は思います。
憧れの存在の内実を知ったとき何が起きるのか--それが描かれているのが、この『ソヴィエト旅行記』です。
著者は『狭き門』で有名なフランスのノーベル賞作家、アンドレ・ジッドです。

20世紀前半の知識人にとって、ソビエト(旧・ソ連)は、まさに憧れの地でした。平等な社会を実現すべく作られた真のユートピアであると、世界中で考えられていたのです。
1936年、ジッドは、ソビエト作家同盟からの招請を得て、当時自由には入国できなかった憧れの国、ソビエトに足を踏み入れます。
到着直後の彼の使命は、亡くなったソビエトの劇作家、マクシム・ゴーリキーの国葬に参列すること。ジッドはゴーリキーの死を悼み、ソ連を称賛する弔辞を読むのですが、その後滞在するうちに、ソ連の実態を知ってしまいます。
貧困が蔓延し、人々は決して平等ではなく、官僚はスターリンを忖度しまくっている。社会主義国の現実に幻滅したジッドは、理想的だと憧れていたことさえ後悔し始めます。そしてこの旅行記に、「ソヴィエトの実態」を赤裸々に書いてしまうのです。
ソビエトに行ったことのない世界中の知識人、共産主義者は、これに激怒し、ジッドは袋叩きにあいます。

憧れが強かっただけに、実物を見たときに「言ってることとやっていることが違う!」と余計に幻滅してしまったのでしょうね。翌年にはさらなる批判を加えた修正版を出版しています。さらにジッドは、共産主義ともきっぱりと決別します。とても誠実な人ですよね。

りくさんも、「憧れの人」がどんな人なのか、本当のところは知らないのではないでしょうか。そうした状態では、その人についての悪い噂を聞いても、「そんなことはない」と批判し、憧れが揺らぐことはないでしょう。
憧れの人に落胆したくない気持ちはわかります。でも、それではジッドのソビエト批判を「そんなわけないじゃん!」と実態を知らずに批判した人たちと、ベクトルは違えど同じことをしてしまう可能性もある。
ぜひ本書を参考に、どうにかして接点を持ち、実態を見た上で、よりリアルなその人像を掴んでみる、という手法もあることを頭の片隅に置いておいてもらえたらと思います。

左から『急に具合が悪くなる』『旅の仲間』『ソヴィエト旅行記』

〈プロフィール〉
人文系私設図書館ルチャ・リブロ 
青木海青子
(あおき・みあこ)
人文系私設図書館ルチャ・リブロ」司書。1985年兵庫県神戸市生まれ。約7年の大学図書館勤務を経て、夫・真兵とともにルチャ・リブロを開設。2016年より図書館を営むかたわら、「Aokimiako」の屋号での刺繍等によるアクセサリーや雑貨製作、イラスト制作も行っている。本連載の写真も担当。本連載を含む図書館での日々を描いたエッセイをまとめた『本が語ること、語らせること』(夕書房)が好評発売中。奈良県東吉野村在住。

青木真兵(あおき・しんぺい)
人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。1983年生まれ。埼玉県浦和市に育つ。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。関西大学大学院博士課程後期課程修了。博士(文学)。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信がライフワーク。障害者の就労支援を行いながら、大学等で講師を務める。著書に『手づくりのアジール—「土着の知」が生まれるところ』(晶文社)、妻・海青子との共著『彼岸の図書館—ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』『山學ノオト2』『山學ノオト3』(エイチアンドエスカンパニー)がある。最新刊は、光嶋裕介との共著『つくる人になるために-若き建築家と思想家の往復書簡』(灯光舎)。奈良県東吉野村在住。

ルチャ・リブロのお2人の「本による処方箋」がほしい方は、お悩みをメールで info@sekishobo.com までどうぞお気軽にお送りください! お待ちしております。

◉奈良県大和郡山市の書店「とほん」とのコラボ企画「ルチャとほん往復書簡—手紙のお返事を、3冊の本で。」も実施中。あなたからのお手紙へのお返事として、ルチャ・リブロが選んだ本3冊が届きます。ぜひご利用ください。

◉ルチャ・リブロのことがよくわかる以下の書籍もぜひ。『本が語ること、語らせること』『彼岸の図書館』をお求めの方には、「夕書房通信」が、『山學ノオト』『山學ノオト2』『山學ノオト3には青木真兵さんの連載が掲載された「H.A.Bノ冊子」が無料でついてきますよ!


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