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2 小さな跳躍を重ねて、獲得する大きな自由 光嶋裕介

私が楽観的で実利的な理由

私は、オプティミスティック(楽観的)で、プラグマティック(実利的)な人間であると言われることがある。自分でもそういうところがあると思う。それは、ベーシックなところで無駄なことが嫌いで、常にハッピー(ご機嫌)であろうと心がけているということ。心がけているというのはいささか大袈裟で、日々の生活を通していつしか私の骨の髄まで染み込み、ごくごく自然とそうなったという方が正しいのかもしれない。

まずは、オプティミスティックについて。楽観的であるとは、悲観的にならないことを意味する。物事を常に肯定的に捉える。これは、自らのパフォーマンスに対する内省を繰り返し、自信と不安の間を行き来する中で、勝手に身についた感覚でもある。野球などのスポーツをやっていた私は、大の負けず嫌いだ。勝つためにどうしたらいいかと常に考えるうちに、「やってみなきゃわからない」状況では、必ず全力でバットを振るようになっていた。
悲観的になること、ただ否定することは、驚くほど何も生み出さない。見逃し三振は、試合の流れをピタッと止めてしまう。感情としての嫉妬や妬みも同様に(もちろん、つい嫉妬してしまうことは今でも多いが)、1ミリも生産的ではない。勇気をもって跳躍(jump)するには、ポジティブであることが大事なのである。
私がそのことに気づいたのは、32歳で始めた合気道の影響が大きい。合気道は強弱・勝敗を競わない武道のため試合がなく、他人と比較考量することに意味を見出さない。そんなことをしている時間がもったいない。この「もったいない」という考え方に、次のプラグマティックであることが関係してくる。そう、実利的な人は、兎にも角にも無駄が大嫌いなのだ。

無駄とは、意味のないこと。そもそも「意味(meaning)」とは、自分にとって何が有意義かを考えてみることで初めて生じてくるものである。私は、事前に物事の善悪と価値を判断し、考え抜いた上で、積極的に行動(action)することを大切にしている。要するに、目的と手段をはっきりさせたい。この欲求に合理的に従っていくと、人間は自ずとプラグマティックになっていく。
例えば、つらい受験勉強(手段)を頑張れるのは、どうしても行きたい大学(目的)があるからであって、答え合わせのできないテストのためにつらい勉強をするのは耐えられない。そもそもそんなテストは、受けても仕方がない。これが「偏差値」という基準の合理である。偏差値の存在は、自分を集団の中で定位し、向上しようと頑張る目的になる反面、なんでも査定的に考えるという不自由な癖を植えつけてしまう。というのも、意味は時間の経過によって変わり得る(可塑性)からである。ここが難しい。目的と手段にリンクした固定的な「意味」に執着しすぎると、無意味だと感じることが即座に排除され、無駄に耐えられなくなってしまう。そして何より、誰にとっても平等に与えられているはずの「時間」という大切なギフトさえ無駄にしてしまう。私が根っからの「いらち(関西弁でせっかちの意)」なのも、これで説明がつく。私は、ボーッと何もしないでいることができない人間なのである。

こうして、無駄を嫌い、悲観も(なるべく)嫉妬もせず、暇が耐えられない人間が誕生する。オプティミスティックで、プラグマティックな人間は、根本的にポジティブな人間である。やらない後悔だけは絶対にしたくないから、「やってみなきゃわからない」が、少しずつ「やればできる」に変容する。何事も勇気をもって一歩を踏み出しさえすれば、そのままゆっくり動き出し、跳躍につながると信じている。では、そんな私は、どうやってできたのか?

アメリカ社会のマイノリティに生まれて

そこで、アメリカである。私は、父の仕事の都合で家族が滞在していたアメリカのニュージャージー州で生まれた。3人兄弟の真ん中である。3つ上の兄と4つ下の弟に、日本語の名前と同じ頭文字を冠するイングリッシュ・ネームを付けたのに対し、「裕介」の「Y」から始まる名前が思い浮かばなかった父は、私が4月の第2日曜日のイースターに生まれたことから「Easter Bunny(イースター・バニー)」の「B」を取って「Brian(ブライアン)」と付けた。キンダーガーデンに通うようになると、私はこの「ブライアン」という名とともに家族という共同体から飛び出し、小さな社会へと仲間入りしたのである。
「ブライアン」という名前はとても気に入っているし、愛着もある。しかし同時に、別人格(複数性)を有して生きていくような、どこかしっくりこない違和感もずっと抱えている。それは、私が生まれたときからアメリカ社会のアジア人というマイノリティであったことによる違和感である。特段に嬉しいことでも、悲しいことでもない。ただ偶然(by chance)そうであったとしか言いようのないことである。

ボン・ジョヴィを聴き、チョコチップ・クッキーとピザが大好きな私は、アメリカの広い空の下でニューヨーク・メッツのキャップを被ってベースボールをしながら育った。私にとってアメリカは、「スケールが大きく(big)」、「圧倒的に自由(free)」な国である。白岩さんが『講義 アメリカの思想と文学』(白水社)の冒頭で、アメリカの「声(voice)」に耳を澄ましていく上で、アメリカという国の通低音として流れる3つの特徴を説明していて、深く頷いた。(1)広大な国土、(2)歴史が浅いこと、(3)多様な民族性が、アメリカなのであると。

アメリカの自由を担保するもの:責任

芝生の香り漂うだだっ広い公園や、ひたすらまっすぐ伸びるアスファルトのハイウェイ、バケツみたいなドリンクのサイズなど、アメリカにまつわるすべてが大きいことは、説明するまでもないだろう。それより考えてみたいのは、圧倒的自由についてである。
自由であるということは、「何でもできる」ということである。「アメリカン・ドリーム」という言葉があるように、自立した強い個人(フランクリンの言う「セルフメイドマン」)が夢を現実にできる、可能性に満ちたフェアな社会がアメリカなのである。白岩さんも引いているように、アメリカの独立宣言が第一に「すべての人が平等である(all men are created equal)」と謳っているのは、たいへん重要なことである。機会(chance)は平等に与えられているし、個人の人権は守られている。その個人が社会の中で自由に、好きなことをやりたいだけやるには、どうしたらいいのか。
ここで、倫理(ethics)という大きな問題が出てくる。自由な社会を持続させるには、一人ひとりが他者への想像力を働かせ、多様性(diversity)を認めながら、社会全体が民主的につくった「ルール(規範)」を守らなければならない。ルールは完璧ではない。他者と対話を重ねながら、少しずつ自らの手で改良していくのが、健全で成熟した社会なのだ。

この自由な社会には「責任(responsibility)」が伴う。私がそのことを経験したのも、アメリカだった。家族旅行でグランドキャニオンに行ったときのこと。あまりにスケールのデカい風景を前に、ただただ言葉を失った。目の前に広がるのは、まるで『スターウォーズ』の世界。ごっこ遊びに熱が入り、調子にのった兄が足を滑らせてしまった。危うく高い崖を転げ落ちそうになって、母にこっ酷く叱られた。
その夏、日本に一時帰国した際に祖父母のいる田舎へ行く途中、日本海に面した東尋坊を家族で観光した。グランドキャニオンで怒られた私たちはおとなしくしていたが、海に迫り出した東尋坊には安全柵が張り巡られていて、落下の危険が回避されていた。波しぶきの上がる圧巻の風景とは、ずいぶん距離があって残念だった。フェンスの一切ないグランドキャニオンで体験した、景色と一体化する感動は、そこにはなかった。

アメリカの自由を担保するもの:公平性

ガラッと話題を変えてみよう。
今、ロサンゼルス・エンゼルスに所属する大谷翔平選手は、アメリカン・ドリームを生きている。100年前のベーブ・ルースしか比較対象がいない二刀流という新境地を開拓し、今年はホームラン王にもなった。史上最高の野球選手というリスペクトを込め、彼は「ユニコーン(unicorn)」と呼ばれている。
シーズン前の3月に行われた国際大会ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では決勝マウンドに立った。日本が1点リードする9回表2アウト。打席には、エンゼルスの盟友でアメリカ代表のキャプテン、マイク・トラウト。大谷は豪快なスイーパーでこのスーパースターから空振り三振を奪い、みごと世界一に輝いた。

しかし、このWBCにおける漫画のようなサクセス・ストーリーには、不可思議なルール変更があったことを、多くの人は知らないだろう。大会主催者(メジャーリーグ機構とMLB選手会)が、アメリカが予想に反して準々勝進出に苦戦、日本と同じプールに入ってしまったため、アメリカを急遽トーナメントの反対側のプールにスライドし、日本とアメリカの対戦が決勝に来るように変更したのである。筋書きのないはずのスポーツトーナメントのルールが、興行収益の最大化という大人の事情のために変更されたのである。その結果、世界中の野球ファンが興奮する素晴らしい大会となり、主催者は大成功を収めたわけだが、公平性という観点では考えさせられなくもない。
あれだけ盛り上がった大会だ、野暮なことを言うなと思われるかもしれない。公平性よりも娯楽性を優先させただけの話ではないか。しかし、倫理的にどうもスッキリしない。主催者がルールを自分たちの都合のいいように、利益が上がるように変えてしまっては、プレーヤーたちのフェアネスはどうなってしまうのか。

プレーヤーの自由は、ルールというフェアネスの上に成り立っている。フェアネスは、プレー環境や土台づくりに関係してくる。メジャーリーグで大谷が前人未到の記録を打ち立てたり、記憶に残るプレーで私たちに活力を与えてくれるのは、先人たちがフェアネスの信頼性を維持し、その上で道を切り拓いてきてくれたからだ。

自由は、先人たちが少しずつ獲得した

小学1年生だった1986年、応援していたニューヨーク・メッツがワールドチャンピオンに輝いた。その後日本に帰国するも、中学からまた父の仕事でカナダのトロントに住むようになると、1992年と93年、2年連続でブルージェイズが優勝。巡り合わせの不思議さも相まって、私はメジャーリーグに熱狂したが、そこで自分と同じ日本人がプレーすることなど夢見たことさえなかった。

しかし、である。高校に入った1995年、その高く堅い壁をぶっ壊す人物が現れた。なんと野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースと契約したのだ。あのときの興奮は、今でも忘れられない。トルネード投法という誰も見たことのないダイナミックな投げ方と豪速球と落差のあるフォークボールを武器に、メジャーリーグで旋風を巻き起こしたのである。そこから、イチローや松井秀喜など、多くの日本人メジャーリーガーが後に続いた。

何事も「初めて」というのは、大変なのだ。野茂がいて、大谷がいる。同様に、メジャーリーグで人種の壁を初めて破った偉大なパイオニアも存在する。野茂が契約する半世紀ほど前の1947年4月15日、ブルックリン・ドジャースはジャッキー・ロビンソンと契約し、初めてのアフリカ系メジャーリーガーが誕生した。ジャッキーは類まれな身体能力で、それまで「ホワイトマンズ・ゲーム(白人の遊び)」と言われていたベースボールを拡張し、「再生(rebirth)」させた唯一無二のアスリートである。マイノリティであるという逆境に屈さず、チームメイトや観客からの差別的な態度にも毅然として立ち向かい、ボールパークを訪れる人々を魅了し続けた。そのパフォーマンスの高さに加え、人間としての度量が彼に自由を獲得させ、多くのマイノリティへの道を拓いたのである。

好きなことをやる自由は、天から与えられるものではなく、ただそこにあるものでもない。先人たちの勇気ある跳躍によって、少しずつ獲得されていった賜物なのである。人間は、一人では生きられない。他者と共に集団をつくって生きていく以上、それぞれが覚悟と責任をもってルールを守らなければ、自由にすることなどできない。自由であるためには、強く(tough)、公平(fair)でなければならないことを、ジャッキーはその背中で教えてくれたのだ。
ジャッキーの付けた「42」という背番号は、今ではメジャーリーグの全チームにおいて永久欠番となっている。これこそ、彼に対する最大の敬意の表明だ。毎年4月15日には、全選手が背番号42を付けたユニフォームでプレーする。みんなが同じ背番号なので、誰が誰だかわからないが、差別をなくし、誰もがフェアな環境の下でプレーすることの大切さを伝えるアメリカらしいルールだ。私は、自分の誕生日がこの「ジャッキー・ロビンソン・デイ」であることを密かに誇らしく思っている。

(撮影すべて:光嶋裕介)

人づきあいとしての対話を重ねる

さて、建築のことを書く前に既に紙幅が尽きてしまった。白岩さんのエッセイへの応答のつもりだったのだが、勢いに任せて書いていたら、ソローのことも、ここちよさや無律、椅子についても触れられなかった。最後に、一つだけ。

白岩さんが「society」を「人づきあい」と訳したことに共鳴し、感じたことについて書いて、筆を置きたい。「society」を「社会」や「世の中」ではなく、「人づきあい」と言うことで、社会というのは単なる他者の集団ではなく、顔の見える他者との泥臭い人づきあいがあってこそ、立ち上がるものなのだと気づかされる。そんなことをイメージするだけで、言葉の表情は変わってくるし、リアリティを持ってグッと迫ってくる。

私は、このリレーエッセイを通して「アメリカ」について考えてみたいと思う。変わり続ける世界にあって、どう生きていくべきかを考えるために、アクチュアルな人づきあいを通して対話を重ねたい。
わかり合えない他者への無関心や無寛容は、社会の分断を深めるばかりだ。敬意ある対話には終わりがなく、魔法のような答えも、デジタルな結論も見込めないだろう。しかしむしろ、わからなさの中でためらいながら対話することによって生成されるフレッシュな意味を丁寧に汲み取っていきたいのである。簡単に他人事と片付けず、対話によって自分の言葉の意味が拡張されていくのを見たいし、意味の世界への執着を解いていきたいのだ。偶然に対して自らを開いていきたいと言い換えてもいい。
生まれ故郷であるアメリカは、私の自我の形成において大きな位置を占めている。ただ、それは、意識して思考し、言語化しないと見えてこないものでもある。

日本語(裕介)と英語(ブライアン)という2つの言語(自我)を往来しながら、自分なりの跳躍をポジティブに重ねるような対話をしてみたい。誠意ある「人づきあい」が今の自分を形成してきたと考えれば、まさに、これから3人で重ねる対話は、オプティミスティックで、プラグマティックな私にとって何よりの学び(自己変容)の契機であり、生き直しである。どうなるかわからないからこそ、やってみたいのである。

〈プロフィール〉
光嶋裕介
(こうしま・ゆうすけ)
1979年、アメリカ・ニュージャージー州生まれ。建築家。一級建築士。博士(建築学)。早稲田大学理工学部建築学科卒業。2004年同大学院修了。ドイツの建築設計事務所で働いたのち2008年に帰国、独立。神戸大学特命准教授。建築作品に内田樹氏の自宅兼道場《凱風館》、《旅人庵》、《森の生活》、《桃沢野外活動センター》など。著書に『ここちよさの建築』(NHK出版 学びのきほん)、『これからの建築―スケッチしながら考えた』『つくるをひらく』(ミシマ社)、『建築という対話 僕はこうして家をつくる』(ちくまプリまー新書)、『増補 みんなの家。―建築家一年生の初仕事と今になって思うこと』(ちくま文庫)など。

写真はすべて光嶋裕介撮影

◉この連載は、白岩英樹さん(アメリカ文学者)、光嶋裕介さん(建築家)、青木真兵さん(歴史家・人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター)によるリレー企画です。次のバトンが誰に渡るのか、どうぞお楽しみに!


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