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なにをしにこんなに遠い星まで



 三日三晩寝不足の旅先からへとへとで帰宅した、とある深夜。

 W杯のグループリーグを突破した日本代表のクロアチア戦があるというので、サッカー好きのパートナーは準備万端でテレビ前に陣取っている。熱々のお風呂に久しぶりに浸かってきもちがほぐれて、たまには一緒に観てみるのもいいかあ、という気分になった私も、眠たい体を引っ張ってパートナーの隣に座る。
 入場前の緊迫した選手たちの表情を、今にもくっつきそうな距離まで近づいたカメラが次々に映していく。この人たち、いったいどれだけの緊張とプレッシャーを一身に引き受けているんだろう、精神集中したいだろうときにこんなにカメラに寄られてしんどくないのかなあ、とぼんやり思ったのと、またあの感覚がやってきたのがほぼ同時だった。

 未来に何が起こるか、もう決まっているのにな。

 それは今にいるわたしたちは知りようのないだけで、すでにある。今日のサッカーでいうなら試合結果。それなのにこの人たちは今から全身全霊投げうって闘って走り回って忙しく一喜一憂するんだもんな、人間ってすごいな、すばらしくて哀しいな、さみしくて可愛くていっしょうけんめいだな。画面のむこうにいる選手たちや監督やスタッフも、かれらを応援しに行っているサポーターたちも、みんな会ったこともないしらない人たちなのに、そう思ったとたんに皆おなじひとつの命を生きている仲間のように思えてきて、いとおしくなる。

 未来は、もうある。今しらないだけで。

 今日だけじゃない。ふとなにかがやさしく空中分解するみたいに、たまにそういう感覚に陥る瞬間がある。この名づけようのないふしぎな感覚はいったいどこからくるんだろう。なにかに似ているような気がするけどなんだろう。ああそうだ、死ぬと分かっていて生きるのと、似ているんだ。

 いつか死ぬことを知っていながら生きる動物はじつは人間くらいだと、以前なにかで読んだことがある。このことを考えてみればみるほど、なんて無茶苦茶でおかしな筋書きを生きているのだろう、と途方に暮れかける。よくそんな設定で生きているよなあ、そんな定めのなかでよく正気を保っていられるなあ、と。
 そして、必ず死ぬとはっきりわかってしまっている私たちがこの短い生涯を「よくやった、たのしかった」と終えるために必要なものについて、考える。そのためにほんとうに必要なものについて。

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 その寝不足の旅の最後に、沼津港にある深海水族館へ行った。世界初の深海生物をテーマにした水族館だった。もともと行くつもりはなかったのだが、昼ごはんを食べた魚介の店の近くにあったので面白そうと思い入ってみることにした。数年ぶりの水族館はたのしかった。

 海の生き物は我々の祖先である。そう思うと、私たちは五億年も昔の古生代からえんえんとつづいている命だ。その命も長い長い地球の歴史のなかで、大量絶滅ビックファイブという70〜90%以上が一気に死滅するという絶滅危機に5度ほど遭遇したそうだ。
 なかでも2億5100万年前のペルム紀末は地球規模で最大の絶滅期で、海洋生物で96%、全生物種でも90%以上が絶滅したらしい。そんなたいへんなできごとを経てなお生き残った命が、今生きている私たちのおおもとである。

 そう思うと、ふだんは意識していないが、私たちの体のなかには強烈な運をふくむ生き残るためのしぶとい命のプログラムみたいなものが連綿と伝わってきてちゃんと備わっているんだなあ、と感動せずにいられない。

 ひとひとりの人生は、ここまで繋がってきた命の歴史がどれだけしぶとく頑丈で奇跡のようなものだとしても、その歴史を作る一部としてカウントするには砂粒より小さくて、流れ星より早くて短くて、ほんとうにあっというますぎてたった今生きていたとしても次の瞬間にはもう死んでいるようなもので、もっと言ってしまえば生まれのたか死んだのかさえ判別できないくらい一瞬のことにすぎないような気がする。

 そういう刹那を限界まで濃縮したみたいな命をたった今与えられているのがこの自分なのかと思うと、なんかもう笑ってしまうほど全身の力がへなへなと抜けて、これ以上ないくらいスリリングで身軽な気持ちにもなって、急に視界がぱあっとひらけていく感じになる。

 この短い生涯でいったいなにができるんだろう?とだれもがいちどは問う。私はいちどや二度では飽き足らず、小学生のころからほぼ毎日のようにしつこく自問自答している。考えすぎだと折々で友人に突っ込まれるほど。そしてじっさいできることなんて、ほとんどなにもないんじゃないかと今は思う。もっと若いころは、人生を有意義なものにしなくてはと常にあがいて生きてきたのだが、今はそうするのはもったいない気がしている。

 そんなことより、もうすでに有意義に値しているし、このままでなにもかもいいんだということにある天気のいい朝に自然に目が覚めるみたいにハタと気がついて、気の向くまま、心と体が風に乗るように自然と向かうほうへ、好きな人たちや好きなことが待っているほうへ、ゆらゆら揺れる海の生物だったときを思い出すみたいにして身を任せて流れていったほうが、ずっといい。

 とにかくやりたくないことを歯を食いしばってやる必要はどこにもないのだ。ちいさな目標みたいなものは持っていると日々に張り合いが生まれるけれど、あとはそんなにがんばらなくていい。いつか死ぬのだから、それを分かりながら生きていく宿命なのだから、あとは好きに生きるしかないじゃない。

 たとえば私なら、毎朝の味噌汁と炊き立てのごはんさえあれば一日幸せでいられる自分がほかになにも持っていなくても、自分を好きでいていい。隣の家の認知症のおばあさんなら、「妹がこちらに住んでいるんだけれど、元気かしら?」とひと月おきにうちを尋ねてきても全然大丈夫。元気だと思います、ここには今いないんですけど、と私がこたえると「あらそう。じゃあ大丈夫ね」と不安の消えた顔でおばあさんはにこっと笑うので、私もすっきりドアを閉めてまた仕事に戻る。だから大丈夫。

 お金のことしか頭にない人が四六時中目をぎらぎらさせて獲物を狙っていても、かかりつけのお医者さんがドラマのキャラクターみたいに高圧的でも、幸せになってほしい友人がいつも世界を呪っていても、バスの運転手さんに降りる時にお礼を言ったらきれいに無視されても、庭の花がなぜか次々枯れても、そこに邪悪な力なんて働いていないし、私もあなたも世界がほろびる一端も担っていない。きっと明日も陽がのぼるし、のぼらないのなら雨でも降るし、じつはそんなに簡単には身も心も死んでしまわない。

 人生は壮大な暇つぶし、とたまに誰かが言うのを聞く。表現はちょっとつよいけど、言わんとしているその中身については、最近なんとなくわかるような気がする。
 そういうふうに思っていたほうがへんな力みが消えて楽になるし、あるべき未来を自然体で思い出すことができるような気がするのだ。人生はもともとただの白紙で、それがどうしたってよごれていくのが生きていくということなら、好きによごしたらいい。憎しみや妬みや失望でよごすこともできれば、一枚の壮大なラブレターを書くように愛でいっぱいにすることもできる。
 
 だって私はいったいなにをしに、こんな遠い星まで来たのだろうか。二度とおなじことのない瞬間瞬間をどんなときも楽しみ、慈しむため。変化という時間そのものを体験するため。朝日をみるため、青い空に抱かれるため、おいしいものを味わうため、どんなことも糧にするため、悲しいことがあれば立ち上がるため、好きな人とお茶をするため、好きな人の笑顔をみるため、生きていることのよろこびに気がついて満たされるため。

 そういうことをわすれずに地味にでもひとつひとつできたら、よくやったよな、いい人生だったな、と思えるんじゃないだろうか。

 






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