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師走だけどはしらない日記


2023.12.1 金
 東京の書店さんまわり。未来都市みたいになった渋谷から三茶にむかうとちゅう、俳優をはじめたばかりのころの友人がすんでいるのを思いだす。ついこの前、ひさしぶりに連絡がきたんだったな、げんきかな、と電話。家でしごと中だったけれど、でてきてくれた。原田さんにあうのは、十年ぶりくらい。スナフキンみたいな帽子に、ほそいからだ、木みたいに高い背丈。あんまり変わっていない。どこまでもすなおな人だなあ、と、おもう。会社をはじめて、うまくいっているみたい。社員のつだくんもいっしょ。ふたりは焼き鯖のジェノベーゼソースのランチ、わたしはルイボスティー。

 三茶での用をおえると、お腹がたっぷりすいていて、おいしそうなお惣菜のいっぱいならんだ昔ながらの魚屋さんに吸い寄せられて、さわらの南蛮づけを買う。紅葉のみごろな、住宅街の公園をみつけ、ベンチにすわる。南にむかってひろく傾斜になっていて、鳥のように街をみわたせる。ここが世田谷かあ、と思いながら、さわらをたべる。
 下北へむかっていると、なんでもない住宅街の一角でふと、タイムリープした感覚になる。そうだ、これはメキシコ料理とかけもちしていた牛乳配りのアルバイトで、一瞬だけ受けもっていた地域。あったものがなくて、なかったものがあって、なにかがちょっとずつちがうのに、あのときのまんま。じぶんが今いつにいるのか、ひさしぶりにわからなくなった。おもたい冷蔵ケースをひいて、炎天下にサンバイザーをかぶって、一軒一軒アポなしで、くる日もくる日も営業訪問をした。ほんとうにあの日々がじぶんにあったんだろうか。あのケースには、牛乳びん以外にもいろいろなものをつめこみすぎていてとても、おもたかった。

 淡島の森巌寺というところに、しんじられないくらいおおきな、真っきいろのいちょうの木々。京都の知恩院の末寺で、江戸時代はお灸でしられていた、とある。木の下で、きょうはじめての深呼吸。吉祥寺の百年さんに追加分の納品をして、大久保駅へ。Yと関野くんが、ホワイトハウスの展示にきてくれた。韓国粥のお店で、夜ごはん。新宿の雑踏がなつかしい。むかしはこれに、飲み込まれていた。泳ぎかたもしらないから、ただ飲まれて、流されるままに、そうしたらどこか望むところにいきつくかもしれないとおもっていた。今はもう飲み込まれない。これはもうわたしを飲み込めない。


2023.12.2 土
 午前中はいろいろとたまっていたことを片付けて、お昼すぎに鎌倉駅方面へ。風がきりりとつめたくて、毎年着ているCOOHEMのノルディックセーターを、この冬はじめておろす。
 本の郵送、ひさしぶりにフォーラスカル。いつものベジタブルフォーがおわっていたので、チキンフォー。チキンはYにあげる。里芋とえびのマッシュされたものがくるまれている揚げ春巻きが、べらぼうにおいしい。
 道すがらの生涯学習センターにふらりと入る。地域のチラシコーナーで、紫式部と源氏物語にまつわるおもしろそうな講演会があるのをしる。ところがしめきりが、昨日まで。受付の人にきくと、となりの郵便局で往復はがきを買ってきて必要なことを書いて、今渡してくれたら大丈夫、という。郵便局へもどり、往復はがきを買い、無事に申し込み。
 地下で東北物産展をやっていて、りっぱな山芋としいたけを買う。鎌倉市民活動ギャラリーというのもあり、鎌倉で市民の手によって活動しているさまざまな運動をしる。六国見山の畑で無農薬栽培をしているおじいさんから、おおきな菊芋を買う。土のにおいがくん、と薫る。
 アムネスティ鎌倉のコーナーで、イランで拘束されている今年のノーベル平和賞受賞者の人権活動家ナルゲス・モハンマディさんの即時釈放をもとめる手紙(英語ですでにかかれてあるコピー)を一枚とり、また郵便局へ舞いもどり署名をし、イラン大使館宛に郵送。お世話になっている人から本を一冊ほしいとちょうどれんらくがはいったので、持っていたさいごの一冊も送る。
 小町通りで帆立と銀杏の揚げをたべる。川喜多映画記念館でやっている是枝監督の展示。東急で買い物、帰宅。


2023.12.5 火 
 一日あけて東京に二度、行ったら、たのしかったぶん、とてもつかれてしまったらしく、ねてもねても眠かった。おまけに、ありったけの色をどばっとこぼしたような、ぐちゃぐちゃな秩序の寝ざめに妙な気分になる夢を、ずっとみていた。
 きのうも今日も、Yが東京なので、ごはんの時間を気にせずゆっくりしごとをする。夕方、鍼灸院まで、一時間半あるく。おわってから、先月撮影した二歳の男の子がたべていたのをみてからというもの、ずっとマックのポテトをたべたかったので、いざ実行。何年ぶりだろう。もっとふにゃふにゃで、へろへろで、へんに味のしみたような感じだったような気がしたけれど、ふつうの、それなりのポテトだった。

 マックをでたわたしは、みるみるジャンクな気持ちになって(鍼灸でととのったあとなのに)、ポテトのはしごをすることにした。はす向かいにファーストキッチンがあったので、まよわず入店。フレーバーポテトというのをみつけ、注文。そういえば、味のついた粉をポテトにかけて袋ごとふってたべるやつ、むかしあったな。あれは、どこのだったろう。
 満足して帰り足になったけれど、道すがらモスバーガーをみつけてしまい、なにも考えずに入店。モスのポテトは、ちょっとふとくて、じゃがいものかんじがいちばんするので、あまりジャンクな印象はない。どれも美味しくたべて、また一時間半あるいて、帰宅。ネットをひらくと、マックをたべることでイスラエルの攻撃を支持することにつながるとして、不買運動がある。それをしって、もうたべないときめた。



2023.12.6 水
 野毛山動物園へ。レッサーパンダとちいさなアリクイが、かわいらしかった。動物園うまれのライオンはネコで、コンドルは傘だった。野性をねもとから引っこ抜かれて、じっとしている。わたしと同い年。うまれてからずっと、動物園にいる。横浜で保護されたたぬきも二匹。どっちが、しあわせだったろう。
 あるいて黄金町のジャックアンドベティ。野毛山の雰囲気は、とてもすきだった。イチョウの紅葉がまっさかり。「ゴーストワールド」をみる。痛い。イーニドはわたしだ。ほんのすこし前までの。どれだけの人をぶんぶんふりまわして、自分勝手ななみだを流してきただろう。でも、あれらのことは通過儀礼ではあった。わたしはうまれてくるのもだいぶおそかったし(予定日を二週間すぎてやっとでてきた)、おとなになるのもずっとおそかった。おかげでくっきり、血のにじむくらい胸に、刻んだことがある。好きなものは好きといい、好きな人には好きということ。わるかったとおもったら、ごめんなさいということ。そばにいてくれる人に、ありがとうの気持ちをわすれないこと。
 といって、おとなにはまだなりきれていない。けれどすんでのところでならない、このままでいくのかもしれない。

 近くの韓国料理屋さんで、お昼。チャプチェとまよって、タラのクッパ。韓国料理屋さんに入るとかならず、小皿のキムチとか、青菜の油和えとか大根なますみたいなのとか、四つくらいつけてくれるのがうれしい。韓国語がすこしわかるYが、帰りにお店のおばちゃんにマシソッソヨ、というと、おばちゃんがにかー、っとわらった。
 妙蓮寺の生活綴方さんへ、本を渡しにいく。店長のすずきさんとのおしゃべり、たのしい。とおくのだれかに一通の手紙を書くように、わたしもこれからも、本がつくれたらいい。近くのおでんやさんで、イカ天二枚買い、Yとはんぶんこ。人と話すと、おなかがすく。阿佐ヶ谷のときにも、パール商店街にすごく似たおでんやさんがあった。注文すると、ビニール袋で汁ごと渡される。あまりに具を頼みすぎると、あるきながらやぶれてきてしまって、噴水みたいにぴゅー、とこぼれるんじゃないかとはらはらしながら、おそるおそる持ち帰っていた。ジョイナス地下の、いつものラーメン屋さんで、酒粕海苔らーめん大盛り。さいきん具の厚揚げの数がふえた。



2023.12.7 木
 きょうも風がつよい。午前は家で事務しごと。たらの甘酒味噌焼き、やさい煮、味噌汁を超特急でつくる。炊きたての七分つき米とたべて、長谷の海と本へ。店主の鎌田さんと、気づいたら二時間もおしゃべりしていた。『やさしいせかい』を置いていただけることになった。うれしい。お隣の香水屋さんにも、ごあいさつ。材木座のjohnで、三嶋さつきさんの個展をみる。大遅刻していた上岡さんとの待ち合わせは、わざわざ車でひろっていただいた。西御門の山の端にある上岡さんの自宅兼オフィスは、ギャラリーみたいにシュッとしていて、家のなかなのに外みたいに、開放感がある。包みこんでくれそうな、おおきな本棚もすてき。温かいジャスミン茶と、しゅるいの違うラフランスをふたつもまるまる平らげて、すっかりくつろいでしまった。だいぶ年上かなとおもっていた上岡さんが、ひとつ下で、おどろいた。




2023.12.9 土
 大磯へ。このまえ、金時草をねりごまあえにしたらおいしかったので、またおなじものを買う。ほっこり名物、春巻きも二本つける。つきやまBooksに納品。土でできたおとこの子の置物にひとめぼれをして、購入。ちかくの大磯図書館を、はじめてのぞいた。内かべがずっと木だったり、机が竹を編んだものだったり、陽ざしもよく入り、あたたかい。円地文子さんのしるした源氏物語についてのぶあつい本があった。

 小田原の南十字に納品。皆本夏樹さんの『フェミサイドは、ある』を購入。お昼は、とおるたび気になっていた小田原食堂だんへいく。江ノ浦丼という、地魚のどんぶりを注文。小ぶりなうつわに、扇風機の羽みたいにくるりと、五つのしゅるいの刺身がのっている。一面のガラス戸から、根府川の青い海がひろがる。陸地に松の木。地面にちかいところ、すすきの合間に、しろいちいさな百合。ひとつの茎からふたつの花がそれぞれ西と東をむき、じっと咲いている。そこがどこでも、ここで咲くと決めて咲く花には力がある。さらに西へ、真鶴の草書店に納品。畳のへやの奥に、洞窟みたいなおこもりコーナーがある。本の流通にかんする本と、森まゆみさんの『谷根千のイロハ』を購入。離れて四年以上たっても、ずっとずっとすきな町。

 きょういちばんの西、気流の先生のところ。マッサージと鍼をしながら、気の流れをととのえていく。さいきんどう、と先生がいい、気のせいかもしれないけれどすこしづつ、エネルギーのようなものがあがってきているとおもいます、大丈夫じゃなかったことが、大丈夫になっていっています、とこたえる。先生は、そうだろうね、はじめてここへきたときはどうしようもなかったけど、今はしごとがうまくいってるからね、とさらりという。しごとのことなんて、なにひとつ話していないけれど、どうしてか先生にはわかる。以前あちこちがおかしくなって、いつもからだのどこかが痛んでいて、ほんとうにいきることに負けそうになっていたとき、エネルギーがあがっていれば病気にはならないよ、あなたは病気をじぶんでつくるタイプだよ、といわれ、肩の荷がおりた。長年こびりついていたまっくろい不安が、するするとほどけていく予感がした。それならば、病気をつくらないようにいきる工夫ができるという、ことだからだ。それからもうここにいない先の人たちを思った。祖母はひとりは九十代、もうひとりは百を過ぎるまでいきた。祖父たちも八十過ぎまでいきた。きっと、からだは弱くても、つよい心をもらっている。つよいというのはけっして折れないのではなくて、なんど折れてもたちあがれること。

 さいご、いつものように先生が、手のセンサーでじいーっと内臓をみていく。ひだり胸の上あたりでしばらくとまり、うん、いやなものじゃないから大丈夫だ、といっておしまい。そこには言っていないけれど乳腺症がある。先生の手はそれに反応したのだと思う。帰り、熱海銀座にある鮮魚の料理店で海藻サラダとお寿司をすこし。富山の白えびがおいしい。ファミリーマートで、植物由来のものだけでできたショコラテリーヌとミニサイズの厚切りポテトチップスを買う。漁港のそばのベンチでたべる。空気がなまあたたかく、春の夜にはぐれたよう。




2023.12.10 日
 下北沢で、関野くんといっしょに日記祭に出店。『ある回復の記録』と『やさしいせかい』を販売する。noteやインスタグラムをみてくれている方がたが来てくれた。差し入れに、米とじゃがいもでできたうどんやよもぎもち、乾燥もずく、クリスマスのにぎやかなイラストの入ったてがみをくださった方もいた。ちいさな手づくりの本を買いに、わざわざ足をはこんでくれたことがうれしかった。今日はじめて会う方たちが、ちらりとためし読みをしたあとにこれください、といって本をゆびさしてくれる瞬間も、とてもまぶしかった。じっさいに顔をみて、手から手へと渡して、そういう機会がたくさんあったらいい。本は、形あるものをとおして、形のないものをやりとりできる。ずっと昔から本がうつわになって、人びとはいろんなものを交換してきた。その連綿としたものに、みんなで浸かっている巨大なお風呂のようなものにわたしも、ほんのすこし足を踏みいれた。

 お昼に、えびとポテトのお惣菜。お客さんと話すのに、ガーリック味のものをたべた。けれど、ちからが湧いた。わたしたちの出店ブースは、駆けつけてくれたデザイナーのさとうさんいわく「秘境」という、背のひくい植え木たちがそばにあるもっとも奥まった場所だった。わたしはそこが、でも落ちついた。けっしておもて通りにはない、そんなにきらきらはしていないけれどちょっとだけいいものがここにはある、そういうふうに思えた。これからもしずかな声をあげていきていきたい。日記祭がおわり、本屋B&Bへいくと、オンラインで買おうかまよっていた『How to Book in Japan』をみつけた。イベントの準備でいそがしそうだったけれど、店長のいとうさんに『やさしいせかい』をよかったら置いてください、とお渡しする。しあわせな疲労で、からだが内側からへなへなとしおれそうになりながら、小田急線にのった。




 
2023.12.11 月
 どらやきの撮影をする。クリスマス商品なので、みどりや赤をレイアウトに使う。赤は庭の木の実をとってきた。夏をすぎて植えたミニトマトは、今ごろになり、はちきれそうな黄色になった。三重からとどいたココナツクリームとあんこを、解凍した皮に慎重にはさんでいく。試しにひとくちたべてみると、鼻の奥までねっとりとあまったるい味がひびいて、空腹のあたまがくらくらと、眠たくなってくる。熱いお茶をずずっとのんで、冬の午後のうすい光のなかでうとうとねたい。

 ウェブから本を買ってくださった方たちに、一筆つけて、梱包していく。沖縄から、北海道まで。なぜか、京都の方がだんとつで多かった。しらない街の、それぞれの場所で、さまざまなくらしを送る人たちがわたしの書いたはじめての本を、読みたいと思ってくれている。はじめて眺める名前をひとつずつ紙に書きつけながら、こころのなかでも、もういちどなぞる。

 なつかしい名前をみつける。さいごに会ってから、春は何回、夏が何回、秋も冬も何回、めぐっていったろう。あんなにあったのに今はもうここにはないものが、あまりに多すぎると、その名前はおしえている。多すぎて、みなこの手からするりと落ちていって、今はどこでどうしているのかわからないのに、わたしはそれをかなしくない。そのことに感謝をしている。何もこわくない。

 その名前はまた、いきてこられてよかったとささやかなやりかたで称えてもくれる。ほんとうにたくさんのことがどうにもならなくて、迷うことばかりで、つまづいてばかりであった人生のなかで、それでもなるべく地に足はつけて、できるだけやさしいこころで精一杯いきていこうともがきながらとり組んできた人生で、こんなにもしあわせに思える瞬間がじぶんの人生にあるものだとあのころは少しも思っていなかった。人生がにがく辛く、酸っぱく、さまざまな味つけではじまっていこうとしているときにその人はわたしのそばにいた。だからわたしは世界を信じていることができた。人はほんとうはいいものだと、人はやさしくて、誠実で、信じるにあたいするものだとこの人がほんとうに最後の最後のところで、そう思わせていてくれた。そのずっと先の今にわたしがいる。大丈夫だよ、何ひとつ心配いらないよ、時間とわたしが保証するよ。そういうことを、これからどうしたら世界に返せるだろう。ありがとうとその手を離し、十何年以上、経った。わたしが書いたものを遠く静岡の、西の荒い海に突きでた町のアパートから注文してくれるその人をあのころのわたしとあのころのその人と今のわたしとみんなでいっしょになって抱きしめたい。

 夕方、歯医者へいく。欠けた歯のあとと歯茎ににがい薬をぬる。なんどもぶくぶくするときの紙コップに、クリスマスの靴下とジンジャーブレッドの絵が、赤で描いてある。先週は、どこにでもあるしろい紙コップだった。歯医者をでると、数歩先くらいしかみえない闇。それでも、とさんぽにでる。よくとおる山の端の道ぞいに、建て売りの家がぎゅうぎゅうになってならんでいる場所がある。どれも、ちいさいころに夢中であそんだシルバニアファミリーの家に、とてもよく似ている。ベランダのふとくてまっすぐに白い枠のかんじや、その向こうにかかっているカーテンのたっぷりした留めかたをみて、そんな気がする。あれはわたしの人生とはちょっとちがうかんじで、近くにあっても交わったりもないかもしれないけれどちゃんとここにあるんだ、と思って、安心して歩きつづける。





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