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rainy accident

 追い越し車線を走っていると、左のレーンの車列を横切った車が目の前に割り込んできた。突然のことに、カカシは急ブレーキを踏む。カカシの車は、衝突直前で停止した。
 割り込んできた車のドライバーが、すぐそこに見えた。若い男だ。ドライバーは、こちらの急停車に気づきもしなかったのか、正面を向いたまま車を加速させ、すぐそこの右折レーンへ滑り込んだ。
 カカシは悪態をついてから、自分の車をゆっくり発進させた。後続車に追突されなくてよかった。追い越し車線をそのまま直進しつつ、さっきの車のドライバーをのぞき込むと、若い男はぼんやりと正面を向いて、右折のシグナルが点灯するのを待っているようだった
「危なかったのに、気づいてもいない」
 カカシは助手席に座っている妻のムギに言った。前車との車間が十分にあることを確かめてから、ちらりとムギの様子をうかがうと、ムギはワイパーの動きを目で追っている。
「大丈夫だった?」
「何が?」
「何がって、今、急ブレーキをかけただろう? ぶつかりそうになったんだ」
「ああ、そうね・・・。よくあることよ」
 道は渋滞している。先の方で信号が赤になったのだろう、車列の速度が遅くなり、やがて流れは止まった。
「よくあることじゃないよ。あんな不注意なドライバーが多かったら、危なくて道なんて走ってられない」
「そう? あなたが気づいてないだけじゃないかしら」
 カカシはムギの顔を見た。ムギは、相変わらずワイパーの動きを目で追っている。まるでそれが楽しい遊びであるかのように。まだ日の沈む時間ではないのに、雨のせいで車内は暗い。ムギの肌は青白く濁っている。そして、ワイパーの動きに合わせてゆれる瞳に前車のテールランプが赤く映り込んでいる。そのせいで、ムギの顔はインドの邪神のように見えた。
 カカシの胸の中に、重いかたまりができていた。今できたばかりの、鈍く熱い、不快なかたまり。カカシはそれを自覚した。今できたばかりのはずなのに、でも本当は、カカシが気づかなかっただけでずっと前からそこにあったような気もする。あるいは、気づかないふりをしていただけかもしれない。そして、今やっと認めなければならなくなっただけかもしれない。
 それから少し走ると、時々利用しているファミリーレストランが近づいてきた。そこが雨のドライブの目的地だった。レストランは、道の対向車線側にある。真ん中に中央分離帯のある、片側二車線の道の、下り側だ。一旦、レストランの前を通り過ぎてからカカシは車を右折レーンに入れる。ほんの少し左よりに入って、交差点の中に入るときに目一杯ハンドルを切った。そして、対向車線の車列が途切れたタイミングで発進し、歩道ぎりぎりに転回を終えた。
 カカシは、我ながら見事な運転だと思う。カカシは、頻繁に利用するこの道で切り返しなしに転回をするために、コンパクト規格のセダンを買った。確か試乗の時にも、この交差点で転回を試したように記憶している。今では、目をつぶっていても切り返しなしに転回できるんじゃないだろうか。
 本当を言うと、今きったハンドルは、少しあぶなかった。雨で濡れた路面のわずかな滑りを計算するのを忘れて、スピードを出しすぎた。縁石でホイールを削らなかったのは、偶然だった。しかしカカシは、そういう偶然も実力のうちなのだという考えをもっていた。うまく生きるには、少し過剰に楽観的でいた方が、役に立つ。
 この街では、雨の日の場合、平均して一時間に一件の衝突事故が起こっているらしい。それは、不思議なことに、雨の日に届けられる離婚届の平均値と同じなのだという。カカシは想像した。もしさっき、無理な割り込みをしてきた車と衝突事故を起こしていたら、その瞬間にどこかの夫婦が役所の窓口に離婚届を出していたのかもしれない。ということは、カカシがうまく衝突を回避したおかげで、どこかの夫婦が仲直りをして離婚届を出すのを延期したかもしれない。根拠のない想像だったが、どこかの夫婦の妻が離婚届を破り捨て、その妻を夫が抱きしめるイメージはカカシの気分を楽しくさせた。そして、素晴らしいことを達成したような気持ちになった。しかし、見知らぬ夫婦のことなど、どうでもよくもあった。
 ファミリーレストランは、地上部分が駐車場で、二階部分が店舗になっている。カカシは、駐車場の暗闇にむかってハンドルを切った。車は、冷たく湿った闇に飲まれて消えた
 車を降り、暗い階段を上がると、くたびれたシャツのホール係が疲れた声で「いらっしゃいませ」とふたりを迎え、マニュアル通りに人数を尋ねた。昼時を少し過ぎている。店は混んでいなかった。カカシは、見れば分かるだろうというように「二人です」と応えた。ホール係はふたりを窓際の空席へと案内した。
 カカシとムギは、席に備え付けられたメニューを開いた。
 ふたりそろって仕事が忙しい時や、どうしても料理をする気になれない時には大抵、このファミリーレストランで食事をしていて、それは月に一度か二度くらいの頻度になる。メニューなど、ほとんど隅から隅まで覚えてしまうほど見ているのに、席に通されると、それが義務であるかのようにメニューを開いてしまうのがカカシは不思議だった。頼む物も、いつも大してかわりがなく、空腹であればハンバーグプレート、そうでもない時はクラブハウスサンドとカカシは決めている。別にそれが好きなわけではない。毎度毎度、注文を考えるのが面倒なだけだった。ならばなおのこと、メニューを開く必要などないのだが、でも何か新しい発見があるかもしれないという紙ナプキンのように薄い期待から、カカシはメニューを開き、そしていつも絶望させられるのだった。
 カカシはメニューを閉じた。今日はクラブハウスサンドの日だった。
 ムギはカカシと違って、いつも違うものを注文する。カカシの選ぶ料理だけを選択肢から外して、もうとっくに見飽きたはずのメニューを端から端までじっくりと吟味するのだ。そうすればまるで、些細だが何か目新しい発見があるんじゃないかというように、メニューと自分の気分の接点をさぐり、グランドメニューの中に適当なものを見つけられない時には、季節の限定メニューへと目をうつす。
 ムギは、カカシの三倍の時間をかけて、シーフードドリアを選んだ。それが今日の彼女の気分だった。雨のせいで、海の底にでもいるような気持ちなのかもしれない。
 ムギが注文をタブレットに入力し、カカシはセルフサービスの水をとりにドリンクコーナーへ行った。水の入ったグラスをふたつ持ったカカシが席に戻ると、ムギは雨に濡れた街の風景の映る窓をじっと見つめていた。
「雨だね」
 水の入ったグラスを差し出しながらカカシが言うと、ムギは驚いたような顔をした。
「今気づいたの?」
「そんな訳はない」
 カカシは笑った。ムギは、指先で机をこつこつと叩く。顔は相変わらず窓の方を向いていて、ムギの顔がガラスに映っている。その、口元のあたりが、ほっと白く曇った。
「雨は嫌いだな。服が濡れるし、車の事故も多くなる」
「そうね。でも私は、嫌いというほどじゃないわ」
「どうして?」
「すべてを赦せそうな気がするのよ。腹の立つことも、悲しいことも。・・・全部を赦せるわけじゃないけど」
 さっき、目の前に割り込んできた車と衝突しそうになったことを思い出し、一瞬、目の前が白くなった気がした。顔が赤くなるのがわかった。
 カカシは水を一口飲んだ。
「赦せないことって、何?」
 ムギは、それには応えず、かわりに、普段と違ってやけに饒舌なカカシを責めるような目で睨んで、それからまた窓の外に目を移した。
「一言じゃ言えないわ。色々よ」
 そこへ、さっき二人を席に案内した、くたびれたシャツのホール係が、料理を運んできた。
 ふたりは黙って食事を摂る。いつものように、カカシが先に食べ終わり、カカシは窓の外を眺めながらムギがシーフードドリアを食べ終わるのを待った。カカシはこの時間が嫌いだった。それが妻であっても、誰かが食事を食べ終えるのを待つ時間ほど退屈なものはない。自宅なら、さっさと自分の皿をシンクに運んで洗うのだが。そうすれば、時間をつぶせるし、夫らしい振る舞いをしている気分にもなれるのだ。タイミングよく妻が食事を終えれば、続けてムギの分の皿も洗うことだってできる。ただし、そうなることは稀だった。ムギは、カカシよりずっと食べるのが遅く、そうするとカカシは大抵、さっさとリビングに行って読みかけの本を開くのだった。
 カカシは、雨に濡れた青黒い車列が流れていくのを眺めながら、結婚してから今日までに、どれくらいの時間ムギが食事を終えるのを待ったのか、その累積について想像をめぐらせた。カカシとムギが結婚してから、もう5年になる。積み上げた時間は、結構な長さになるだろう。それは、いくら雨が美しくても赦せないことのひとつのような気がした。そして、これから先も積み重なり続けるであろうその不幸な時間のことを思うと、カカシはうんざりする気分だった。胸の中にある、あの重い気分も、母親の腹を内側から蹴る胎児のように、カカシの胸を苦しくさせていた。
 ムギは、最後に残したひとかけのマカロニと小エビを、ゆっくりと咀嚼し、時間をかけて飲み込んで、ようやく食事を終えた。それからムギは、カカシの持ってきた水をやっと一口飲み、口紅が落ちないように気をつけながらペーパーナプキンでゆっくりと唇をぬぐった。カカシはそれを、伝票を手でもてあそびながら待った。
「さあ、行きましょう」
 ムギは、帰ったら洗濯物を乾燥機に入れなおさなくちゃ、と言いながら立ち上がり、レジに向かって歩き始めた。カカシはその後ろに従った。
 会計を済ませて、ふたりは車に戻った。
 雨の匂いの充満した駐車場に置いておかれた車のキャビンには、やはり雨の匂いが染みこんでいる。湿気た空気の、なまぬるくどろっとした感じが、カカシの嫌な気分に拍車をかけた。どうして今日は、自分はこうも不機嫌なのだろうと、カカシはいぶかしむ。家を出かける時にはまだ、こんな気分ではなかった。雨のせいだろうか。そうかもしれない。でも、家を出る時にはもう、雨は降っていたじゃないか。では食事のせいか? ムギが食事を終えるのを待たされたせいか? いや、それもいつものことだ。すると、さっき事故を起こしかかったせいだろうか。そうかもしれない。その前から気分が重かったことは確かだが、そのことに気づかされたのは、あの若い男の割り込みがきっかけだった。
 そう気づくと、カカシは無性に腹が立ってきた。今さら何に腹を立ててもどうにもならないとわかってはいても、みぞおちのあたりで熱くなっている苛立ちを、なんとかしたかった。
 カカシは、イグニッションをひねると、いつもならそんなことはしないのに、乱暴な空ぶかしをひとつした。
「ガソリンの無駄だわ」
 ムギがそうつぶやく声が聞こえたが、カカシは気に留めず、車を発進させた。車は飛びださんばかりの勢いで、駐車場の入り口にある短くて急なスロープを上る。歩道は、幸いにも無人であった。車は一気に車道まで進んだ。車列も、ちょうどきれたところだった。
 しかし、ゆっくりと流れる車列の間を、脇見運転のバイクが駆け抜けてきた。カカシはそれに気づかなかったし、バイクのライダーもカカシに気づかなかった。お互いがもうリカバリーできないところまで接近したところで、カカシとライダーの目が、窓と、雨と、ヘルメットのバイザーごしにぶつかった。
 ムギも、接近してくるバイクをカカシの肩越しに見ていた。いつかきっとこうなる。ムギは常々、そう思っていた。だから、どんどん近づいてくるバイクのヘッドライトを見ても、驚きもしなかったし、悲しみもしなかった。だから、自分の側の窓越しに、雨にむかってため息をついた。
 ため息は、窓を曇らせ、雨の風景を隠した。

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