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earthquakin' blues (4/11)

④2009/5/**

 私は、プロフェッショナルを尊敬している。
 音楽のアマチュアの世界、特に若い世代の間で、プロとは何かアマとは何かということについての議論は多々あり、時には紛糾し、場合によっては友情の断絶を引き起こしたり、その結果彼らの音楽生活に重大な破綻をきたす原因になったりする。でも、プロであるということは、とても単純なことだ。自分の身につけた技術を顧客の役に立て、自分の収入に換えることができる人を、プロフェッショナルと呼ぶ。どの世界でも同じじゃないだろうか。プログラマーでも、フォトグラファーでも、銀行員でも、政治家でも。プロのミュージシャンは神でも仏でもない、そのように勘違いしている人を時々見かけるし、そんな風に喧伝する広告に出会うこともあるけれど。
 私が最初に出会ったプロのミュージシャンは、中学三年から高校二年まで世話してもらったフルートの先生だった。クラシックのプレーヤーで、イベントや合同リサイタルで演奏したり、時にはアマチュアのオーケストラの指導や賛助演奏をしていた。若い女性の演奏家で、サンカンとかジョリヴェとかをがっちり丁寧に吹くのを得意にしていた。インターネットが普及してから彼女の名前を何度か検索してみたけどひっかからなかったから、演奏者としてはすぐに引退してしまったのかもしれない。若くて意欲的なプレーヤーが引退するのは哀しいことだ。どこかでひっそりと教室を開いたりしていないか、そんな風に私はかつての恩師の活躍に期待することがある。ヨシエ先生といった。
 ヨシエ先生の楽器はレギュラーモデルのオールドヘインズだった。ベネットの教えを乞うたことがあるというヨシエ先生は、モイーズとランパルを尊敬していて、私もその影響を強く受けたから、いつかはケノンかヘインズを手に入れたいと夢見ていた。もちろん、地方在住の高校生がそんなマニアックで高価な楽器を手に入れるのはサウナで雪だるまをつくるより難しくて、私はその憧れを額縁に入れて頭の片隅に飾っておく他なかった。
 私がついにオールドヘインズを自分の手元におくことができるようになったのは、教員に転職してすぐのことだ。新大久保にある楽器屋のオーナーが半分自分の趣味でコレクションし、普段は店頭に出さないのだけれど、その価値を理解する人から強い求めがあった場合にだけ出すものを、私の大学の先輩でその店長と馴染みの人の伝手によって譲ってもらったのだった。私はそれまで使っていた台湾製の楽器を、それはそれで大変気に入っていたのだけれど、下取りに出したうえで不足分を月賦にし、以後はアマチュアとしての演奏活動をそのオールドヘインズでこなすようになる。
 このヘインズについては、地震にからんだ思い出が一つある。
 楽器を乗り換えてから最初の、オーケストラでの演奏会のゲネプロのことだ。ゲネプロとは通し練習のことで、その演奏会の演目を全部、通して練習する。本番前の重要な練習なのだが、この日、東京を中心とする関東一帯は震度五の強い揺れに襲われた。公共交通機関はことごとくストップし、練習をしようにも、誰も練習会場に辿りつけず、この日のゲネプロは中止され、数日後の平日の夜、緊急のゲネプロが設けられた。アマチュアの演奏会とはいえ、ゲネプロの延期というのはなかなかない。大箱の練習場を緊急に確保するのは簡単なことではないし、オーケストラは大勢の人間が予定をすり合わせて練習に来るのだから、一度設定した練習を変更するというのは、よほどのことなのである。
 ヘインズと地震に何の因果関係もないだろうけれど、どうもこの楽器はゲンが悪い、と私が思ったのは確かである。私は迷信深いタイプではないが、この事件はちょっと印象的だった。ただ、オールドヘインズの音色は、文句なく素晴らしい。多少のピッチの低さを補ってなお余りある魅力を備えていると、私は信じている。もし問題があるとすれば、仕事の忙しさにかこつけて練習をさぼりがちな私の方だ。所属しているアマチュアオーケストラの練習以外には週に一度か二度ぐらいしか触ることができないヘインズは、私にはもったいない楽器だと、申し訳なく思うぐらいである。
 その上、先だって買ったヤマハの中級グレードにのアルトサックスでジャズのレッスンに通おうと言うのだから、私の罪は重かった。また地震にあうんじゃないかなんて、そんな予感を冗談交じりに妻に話すと、じゃあやめればと冷たい答えが返ってきた。
 もちろんやめる気はなくて、トオル先生と約束した最初のレッスンの日、つやつやしたラッカーをまとったアルトサックスを片手に、いつまでも片付かない仕事に何とかきりをつけて、私はクールストラッティン音楽院へ向かった。
 職場を出て自宅方向へ帰る京浜東北線を、関内で途中下車した。平日の夜、十時ともなれば家路を急ぐ人影もすでになく、キャバレーの客引きが暇そうに景気の話やら嬢の噂話やらを、商売敵同士で立ち話している。楽器を担いで早足で歩いていると、仕事に来たと思われるのか、声をかけもしない。
 見学に来た日、ただでさえ怪しく薄暗かったクールストラッティン音楽院へ続く階段は、ぼんやりくもった蛍光灯に照らされて怪しい雰囲気を漂わせている。楽器のケースを手すりにぶつけないように気をつけながら上って部屋に入ると、先だって、ギターの男性が座っていた椅子にトオル先生が腰かけていて、イヤホンで何かを聴きながらコーヒーを飲んでいた。目を閉じて、眠るように集中しているので、手にしたコーヒーカップは所在投げに空中に浮いている。私は、声をかけていいものかどうか迷ったので、まず事務所に顔を出した。赤城さんと、もう一人の大柄な女性がいて、今夜も笑顔で迎えてくれる。赤城さんが出て来て、音楽院の学生証と、領収書の帳面をもってきた。レッスン料は入学時に三ヶ月分をまとめて支払うことになっていた。
 赤城さんがトオル先生に近づいて、声をかけた。
「トオル先生、タツミさん、お見えになりましたよ」
「あっ、そう。じゃあスタジオに入って、音出ししてもらってて」
 トオル先生はぱっと顔を上げると、むしり取るようにイヤホンを耳から外し、ああ腰が痛いと呟きながら、コピー機に向かった。
 例の三番スタジオに入って楽器を組み立て、スケールで音出しをしていると、後からトオル先生が紙の束をかかえてやって来て、私の前に立ててあったスタジオ備え付けの譜面台にそれを乗せた。
「これ、あげる。ファイルかバインダーを用意して、レッスンの時に持ってきてください」
「これは何ですか?」
「基礎課題と、曲と……。でもタツミさんは、音もちゃんと出るし、ロングトーンはやらなくていいかなあ。今日はスケールからいこうか」
 じゃあ始めますとかよろしくとかあるいは、こんばんはもう五月なのに今夜はまだ冷えますねとか、そういう前置きなしで、そんなプロトコルは時間の無駄だと言わんばかりに、トオル先生はレッスンになだれ込んだ。
 ジャズの基本はブルース。ブルースのリズムはスイング。八分音符の連続を、クラシックなら、タタ、タタ、タタ、と吹くけれど、スイングでは、ぅーだ、ぅーだ、ぅーだ、と前を長く、後ろを強く。ただし、付点のリズム、ターッタ、ターッタ、ターッタにならないように。じゃあちょっと俺がやってみるから、とトオル先生は例のテナーを取り上げてストラップにつなぎ、変ホ調のスケールをスイングした。私はトオル先生の音に耳を澄ませる。後打ちの音を発音する時に強くタンギングして、表はほとんど舌を使っていない。なるほど、なるほど。トオル先生にじゃあやってみてと促されて、私はトオル先生と同じようできるように、スイングを真似てみる。トオル先生は笑った。
「そうそう、できてるね。さすが経験者。でもタツミさん、ちょっと真面目すぎるなあ。もっと適当でいいんですよ。ルーズに、素面の酔っぱらいみたいに」
 トオル先生は、もう一度手本を吹いて見せてくれる。ファットで抜けのいい音がベルから躍り出る。聴いていて気持ちがいい。じゃあやってみてと言われて私が吹くけれど、ああ確かに、これは気持ちが良くない。音の形はトオル先生の言った通りにできても、音が踊っていない。これはスイングじゃない。私がマウスピースから口を放して不満そうに首を傾げると、トオル先生は、分かった? とにやにや笑った。
「すぐできるようになりますよ。音の形は悪くない……アンブシュアだけど、ちょっと締めすぎかな。それに、咥え方が浅すぎる。それはクラシックの咥え方だよ。ストラップの長さも、あってないね。だから、構える方向が、変」
 トオル先生は、私のアンブシュアや、ストラップの長さを調整した。マウスピースを加える深さは、クラシックのサックス吹きの友人に教わったのより、かなり深くて、顎が縦に開く。今まで通りの圧力とスピードで息を入れると、一度にたくさん入るので音が破裂する。喉より奥でしっかりコントロールしなければならない。慣れるまで時間がかかりそうだったが、ベルから出てくる音は、少しファットでウォームになったような気がした。そういう感想を私が言うと、トオル先生はこう応えた。
「ちょっとした違いなんですよ。クラシックもジャズも、楽器は同じなんだから。何て言うかな、クラシックじゃグルーヴって言葉使わないからピンとこないかもしれないけど、グルーヴの違いなんです。アクセントとかタイムとか、いわゆるノリ。それだけじゃなくって、サウンドもそう。お腹でしっかり支えてタンギングをきちんとするのは、クラシックも一緒でしょ? 御幣はあるけど、つまり、訛りが違うだけなんだな。ジャズとクラシック、アメリカ英語とキングスイングリッシュ、関西弁と新潟弁、……。違うけど、同じなんです」
 とはいえ、アンブシュアと言うのは一朝一夕に変えられるものではない。さあ吹いてと言われても、ピッチは暴れるし、リードミスはするし、私はまともに吹くことができなくなってしまった。けれど、トオル先生は容赦がない。とにかく慣れるまで、出来るまでと、私は何度もスケールを、行ったり来たりさせられた。
 結局、この日は時間のほとんどをアンブシュアの矯正のために費やした。最後に、じゃあ曲も少しやろう初心者はまずこれ、とトオル先生が指示したのはアマポーラだった。化粧品のコマーシャルで流れている曲だから、私も知っている曲だったので、何度か吹くとレッスン終了の時間までに通すことができた。
 トオル先生が腕時計を見て、今日はここまでかな、と宣言する。私はシャツの袖を捲りあげていたのに、汗だくだった。仕事とレッスンの疲れがどっと出て、私は椅子に座ったまましばらく放心した。噛み過ぎた下唇が痛い。トオル先生は、この後は誰もこないからゆっくり片づけて、と笑って、自分のテナーにスワブを通し始めた。
 テナーのケースを早々に閉じて、臆からもう一本、シルバープレートのアルトを取り出したトオル先生は、それを片づけながら私に話しかけてくれた。
「タツミさんは、関西の出身なのに、全然関西弁じゃないね。ま、こっちに長いこと住んでるから、当然か」
「先生も、全然、新潟弁じゃないです」
「はは、俺はもう三十年、いや四十年ぐらい住んでるからね。でも新潟には、年に一度か二度帰るよ。ツアーでね、ハイエースに楽器とバンド乗せて。それでさ、神戸の酒もいいけれど、生まれた国の酒ってのは、やっぱりうまくてね。帰るといつも、記憶がなくなるまで飲んでる」
 トオル先生は首をふっておどける。私は笑った。
「そう言えば、新潟も地震がありましたよね。もう五年ぐらい経ちますか? 復興は進んでるんでしょうか。最近、ニュースでも見なくなりましたけど」
 あー地震ね、とトオル先生は顔を曇らせる。
「地震は、五年前と、二年前にもあったね。本当に、近頃じゃニュースで見なくなった。復興は進んでるよ。もちろん計画通りになんていかないし、酒について言えば、酒蔵が壊れて廃業しちゃったようなのもあるんだけど。仕方ないさ、日本はどこにいたって揺れるんだ。横浜だって、ほんの数年前に、結構揺れただろう?」
「ええ覚えてます。その日はオケのゲネプロの日で、本番一週間前だって言うのに、電車が止まったせいで人が集まらなくて、練習が流れたんです」
「あの日は俺も大変だったなあ、何せ、移動ができなくてさ。箱根で披露宴の余興やって、それから都内の小屋でライブだったんだけど、戸塚あたりで動けなくなっちゃって。……でもさ、知ってる? その地震でさ、ここの一階のバーの酒瓶は、一つも落ちなかったんだぜ」
 私はバーで見たオーボエの形の酒瓶を思い出した。確かにバーテンダーは、随分前からあると言っていた。トオル先生によれば、神戸の地震があった後にオーナーが、万が一に備えて酒瓶の棚に転落防止のワイヤーを張ったのだそうだ。バーテンダーは、酒瓶が取りにくいと随分文句を言ったらしいが、結果としては正解だった。地震のあった日も営業していたのだとトオル先生は言う。
「次の日にここで仕事だったから、楽器を置きに来たついでにバーに寄ったら営業してて、ほっとしたよ。……まあなんせ、地震はごめんだ。ノーサンキューだよ」
 アルトを仕舞い終えた私とトオル先生は、赤城さんに挨拶をして、一緒に音楽院から出た。午後十一時を過ぎて、関内のまちは一層静かだ。トオル先生は、ちょっと一杯飲んでから帰る、とクールストラッティンのバーに吸い込まれていった。
 これから飲むのかと、私は感心すると同時に呆れた。今から飲んで、終電はあるのだろうか。オツカレさん、と笑顔をの濾して扉の向こうへ消えていくトオル先生の姿は、やっと仕事から解放された喜びにあふれている。
 ブルースの余韻を残して、バーの扉はきいっと音を立てて閉じた。


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