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earthquakin' blues (3/11)

③2009/4/**

 大学の時、ジャズ研の友だちに誘われて彼らの主催するジャズクラブのステージに上げられ、枯葉なら演奏できそうだと、内心は自信満々ながら、一応控えめに見栄をきったものの、アドリブの途中で見事にドロップして大恥をかいたことがある。ジャズのステージマナーもフォーマットも知らなかったとはいえ、この体験が、いつかはジャズを覚えて、若かった自分を見返してやりたいという復讐心の原動力になっているのは間違いない。
 目の前にはひらりと一枚きりのリードシート。バックビートでスナップカウントしながら、イントロにカウントイン、テーマをフェイクしてワンコーラス、自分のアドリブをツーコーラス、バッキングにワンコーラスずつ、ドラムとはフォーバーズ、アタマに戻ってテーマをワンコーラス、循環でアウトロ。後に残るのは、まばらな拍手と、バーボンの酩酊、煙草の香り。
格好いいじゃないか。いつからできたらという憧れ、でも本当にできるのかという恐れ。ジャンルの違う音楽に取り組むハードルは意外と高い。フレンチのシェフが和食をつくろうとするようなものだ。出汁のとり方から覚え直さなければならないのだから、ものにするには時間も根気もいる。だから、始めるのには、勇気と覚悟がいる。
 とはいえとにかく、見学には行くと決めたのだから赤城さんとの約束通り、年度の境目で久しぶりの休みがとれた土曜日の午後、期待と不安と共に、私は体験レッスンのためにクールストラッティンを訪れた。
 バーの入り口のある通りから角を回って進むと、ライブハウスの客が入るのとは別に目立たない小さな扉があり、内側に向かって開けっ放しになっている。扉には音楽教室の看板がかかっているけれど、それがなければちょっと入っていくのが躊躇われるような、薄暗くて細長い階段が奥にある。音楽教室があるような雰囲気ではない。例えば、ニッチな商品を扱う貿易会社とか、風俗店の事務を任されている会計事務所とか、そういうのが上った先にありそうな色気のない階段。しかし、看板にはクールストラッティン音楽院の名前が掲げられているから、間違いはなかった。三月末の午後は、上着を羽織っていると襟元に汗が滲む陽気であったが、階段に足をかけると、ひんやりした空気に私を包んだ。
 三階まで一直線に延びる階段を上りきると、また扉があって、重い鉄枠とすりガラスでできたその扉を押すと、むっとする人いきれに私は襲われた。中では、音楽院の生徒らしい、結構な人数がそこにはたむろしていた。生徒は、年齢も生別もまちまちだ。白髪交じりの短髪の男性はミュートしたギターをつま弾き、若い学生風のお嬢さんはアルトサックスのキイをぱたぱたいわせて指をさらうのに熱心だ。ここのご意見番のような大御所風の空気を醸し出しているギターの男性は、私が入っていくと、弦をはじいていた右手から目を上げて私をちらりと見た。私が軽く腰を折って会釈すると、彼は頷いてまた右手に視線をもどし、左手で弦をきゅっと鳴らした。
 部屋の奥に事務室があって、そこを覗き込むと赤城さんと、もう一人、大柄な女性がいる。こんにちはタツミです見学に来ました、と声をかけると、赤城さんは笑顔で立ち上がった。もう一人の大柄な女性も、何かの書類から目を上げて、人懐っこい表情をした。歓迎してくれているらしい空気を感じて、私は安心する。
 赤城さんは、例のハイヒールをこつこつと奏でつつ、事務所の入り口に立ち止っている私のところまで来てくれた。
「お待ちしてました、今日は見学ですね。ええと、あと五分ぐらいしたら、三番のスタジオに入って下さい。レッスンの最後の十分間だけ、見せてもらうようにお願いしてあるので……三番っていうのは、そこです」
 それから赤城さんは腕時計で時刻を確かめて、「ちょっと早いけどもう入ってもいいかも。少しお待ちください」と私に断って、三番のスタジオの扉をノックした。
「トオル先生、見学の方いらしてるんですけど、ええ、今朝お話しした……もう入ってもらってもいいですか? 分かりました……タツミさん、どうぞ入って下さい」
 赤城さんに招き入れられて、私はスタジオに入った。赤城さんは、じゃあごゆっくり、と扉を閉めて出て行ったので、私は、そのトオル先生と、私より少し歳上らしい男性のレッスン生とがいるスタジオに閉じ込められた。
 タツミですお邪魔します、とさっきギターの男性にしたように軽く腰を折って会釈しながら挨拶すると、レッスン生の男性はストラップに吊ったテナーサックスを不器用に抱えながら、会釈を返してくれた。トオル先生は、はいどうもよろしく、とハスキーなジャズボイスで、固い表情のまま言い、スタジオの入り口の隅に置かれたパイプ椅子を指した。そこへ座れということだろう。私が腰を下ろすと、トオル先生は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、さっきの続きやりましょうか。タンギングを忘れないでくださいね。ぅーだ、ぅーだ、と言う風に、スイングして、裏の方をタンギングして。いきますよ、ワン、ツー、スリー、吸って!」
 テナーサックスのレッスン生は、肩で息を吸って、スケールの出だしの音を爆発させた。アンブシュアの作り方が甘いのだ。初心者だろう、と私は思った。トオル先生は顔をしかめる。しかし、しばらくは男性にそのままスケールを吹かせた。スケールは、オクターブ上昇して、元の音まで下降してくる。それを二セット。トオル先生は、三セット目に入りかかったところでスケールの練習を止めた。
「ストップ、ストップ。あの、何度も言いますけどね、今日のレッスンが始まった時からずっと言ってますけどね、息を吸う時は、お腹! お腹から! 今、肩で吸ったけど、それじゃ上手くならないですよ。そのまま先に進めちゃう先生もよそにはいるけど、俺は許さない。上達させるのが俺の仕事だからさ。……タンギングは、うまくいってました。ブレスとタンギング、両方きちんとやろう。もう一度、もう一度、できるまでね。ワン、ツー、スリー、吸って!」
 私は、指導に打ち込むトオル先生を観察した。
 トオル先生は、歳は六十歳手前ぐらいだろうか。私と同じぐらいの身長で、戦後すぐに生まれたはずの世代の人にしては高めだろう。ほっそりと締まった体つきで、使い込んだセルマーのテナーがよく似合う。セルマーは全体に錆びかかった金色だが、ネックの色目が胴体と違った。そこだけゴールドプレートなのかもしれない。ラバーのマウスピースに、正締めのリガチャー。色褪せたストレートのジーンズに、清潔な印象のチェックのシャツ。髪はグレーで、刈り込んだ髪を後ろへと撫でつけて無造作に整えている。
 きりりとした気真面目そうな表情は、銀行員でもやっていそうだけれど、多少ブロークンな口調が印象を和らげている。若い頃はきっと女性が放っておかなかったに違いない。関西風に言うと、しゅっとした男前だ。
 レッスンの間じゅう、トオル先生はテナーのレッスン生に集中して、私は壁の模様であるかのように無視した。この時間の金を払ってくれているのは、私ではないというわけだ。テナーのレッスン生は、ブレスとタンギングの両立に手間取っていたけれど、何度か続けてそれに成功して、ようやくトオル先生に合格をもらった。トオル先生は、じゃあ最後にサテンドール、と言ってテーマを一度だけ吹かせ、腕時計をちらりと見て、時間だね今日はここまでとレッスンを終えた。
 私は、お邪魔しましたと頭を下げてレッスン生の男性とトオル先生に会釈してから、スタジオの外に出た。さっきまでそこにいたギターの男性やサックスのお嬢さんは、レッスンが始まってスタジオに入ったのか、あるいは帰ってしまったのか、いなくなっていた。他のスタジオから出てきた生徒らしい見覚えのない人が、それぞれの楽器を片づけたり雑談したりしている。さっきギターの男性が座っていた椅子が空いていたので、私はそこへ腰かけた。
 しばらくしてからスタジオから出てきたトオル先生は大きな角型の鞄を持っていて、早い歩調で事務所に向かい、見学の人ってどちら? と赤城さんを呼び出し、二人で私の方へやってきた。立ち上がりかけた私を、どうぞそのまままで、とトオル先生は制したけれど、トオル先生が名刺を差し出すので、私はやっぱり立ち上がってそれを受け取った。南川トオル、サキソホン、フルート奏者。返す名刺がない私は、初めましてタツミです、と腰を折った。
「小学校の先生なんですって。フルートのご経験があるそうです」
 赤城さんが言い添えると、トオル先生は身内でも見つけたように、あっそうなの、と気真面目に見えた表情を崩した。
「ジャズでフルートの人は、少ないからね。で、フルートを習うの?」
「いいえ、サックスでご希望でしたよね、タツミさん? アルトでいいんでしたっけ?」
「どっちでもいいよ。俺のレッスンは、さっき見てもらった通りだから、気に入ってもらえばいつでも来て」
 トオル先生は、机にどんと置いた鞄の中からフルートを取り出して組み立てた。それを私に突き出して、ちょっと吹いてみてよ、と言う。私はトオル先生のフルートを受け取った。サンキョウのセミハンドメイド、オフセットリングキイだ。私はちょっと面食らいながらも、指が覚えているクラシックの曲のフレーズを、いくつか吹いた。トオル先生のフルートは、調整がおかしくて、普通の力で押さえたのでは、まともにならない。
「この楽器の調整、かなり狂ってますね」
「はは、そうなんだよ、そろそろ店に持って行かないとね。俺、フルートへたくそだからさあ、ちゃんと調整してもあんまり変わらないんだけど。なんだ、タツミさんフルートうまいじゃない。それなら、サックスもすぐ上手くなるよ。フルートよりよっぽど簡単だからね」
「そんなことないでしょう。……あの、普段仕事が忙しくて、夜の十時からしかレッスンに来られないんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、ここ十一時まで音出せるから。その枠は今、俺の生徒さんいないし」
 赤城さんが私とトオル先生を遮った。
「タツミさん、別の先生のレッスンも今日見ていただけるんですけど、次の枠なので、一時間ぐらいお待ちいただけますか?」
「いや、結構です。南川先生にレッスンしていただけるなら、是非お願いしたいと思うので」
 赤城さんは、えっでも、と言い淀んだ。かなり驚いたようだった。他の先生のレッスンを見てもらうのに遠慮はいらないし、焦って決めなくてもよい、と意地を張る子どもをなだめるような口調で私に言うが、私は遠慮しているわけでも焦っているわけでも、もちろん意地を張っているわけでもなくて、トオル先生はその成り行きをにやにや笑いながら見ている。
 いいえ是非南川先生に、と私がもう一度宣言すると、赤城さんは何だか感心したような顔をして、はあ分かりましたじゃあちょっと書類をもってきます、と事務所に戻って、住所や連絡先を書く申込書を用意した。
 申込書にボールペンで書き込んでいる私の手元をのぞき込んだ皆川先生が言う。
「へえ、兵庫の出身なんだ。神戸?」
「そうです。学生になったときから横浜に住んでいるので、もう十年以上こっちにいますけど」
「十年かあ。そうすると、あの地震の時には、まだ神戸にいたのかな?」
「はい、被災しました。高校生の頃です」
「あの地震は大変だったね。俺、復興支援のツアーに行ったことあるよ。地震の一年後ぐらいだったと思う。まだあちこちで工事やってて……何度か行ったよ。暇だったからね」
 私は、トオル先生が冗談を言ったのだと思って、笑って顔を上げた。トオル先生は、例の気真面目な表情をしている。私は笑顔を引っ込めた。トオル先生は、さっき私に貸してくれたサンキョウの、具合の悪いキイのあたりを弄びながら、独り言のように言った。
「地震があると、大変だよ。……この辺りも時々揺れるし、そろそろどでかいのが来るって言うしなあ。でもまあ、今のところ、バーの酒瓶が割れないで済む範囲だから、何ともないけども」
 私は申込書を書き終えた。
 赤城さんから、料金や教室の約束事の説明を受けた後、トオル先生と最初のレッスン日取りを決めた。トオル先生は都内や横浜近辺のライブハウスでの演奏活動もあるので、レッスンの日程は変則的にならざるをえないけれど、ライブさえなければ割と私のわがままを聞いてくれた。決めるべきことをすべて決めると、トオル先生は立ち上がって伸びをし、ああ腰が痛い、と顔をしかめた。


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