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earthquakin' blues (9/11)

⑨2011/3/11

 二〇一一年三月十一日の金曜日、四年一組の担任が季節外れのインフルエンザに倒れた。担任が急病などで休むと、手空きの職員がフォローにはいるのだけれど、級外というクラスをもたない職員である私は、予定のなかった午後をそのクラスで過ごすことになった。私はこのクラスの音楽を受け持っていたので、子どもたちのことはよく知っていたし、子どもたちも私のことを知ってくれていたから、お互いにやりやすい相手だった。私は久しぶりの担任気分を味わって、浮かれた気分でいた。級外も悪くないけれど、やはり担任というのはやりがいがあるものだ。
 五時間目が終わって、六時間目を始めた頃だった。窓の外からは、六時間目のない一年生が下校していくリラックスした笑い声が聞こえていた。まだ少し寒かったけれど、天気がよくて、気持ちのいい午後だったから、教室には実に穏やかな空気が漂っていた。クラスには漢字の書き取りと計算ドリルの課題を与えてあって、子どもはプリントが一枚済むと、それを私のところへ持ってきて、私はその採点をする。年度末だから、消化するべきカリキュラムはほとんど残っていないのだった。本当にのんびりとした、平和な六時間目が始まっていた。今日はトオル先生のレッスンがあるなあとか、私がレッスンをうけられるのはあと何回だとか、そんなことを考える余裕さえあった。
 素早く計算を終えた何人かの子どもが、私の前に列をつくって、行儀よく並んで待っている。その一人が言った。
「先生、なんか教室、揺れてない? 地震じゃないの?」
 採点に集中していた私は、何のことか分からなくて、その子どもの顔を見た。その子はブラスバンドにも所属している聡明な子だった。いい加減な冗談を言うタイプではない。しかし、私の体は何も感じていない。こういう時は、何か吊ってあるものを見ると分かる。私は、頭上にある黒板灯を見上げた。黒板灯は少し揺れていたけれど、暖房の風で揺れているのと区別がつかないぐらいだ。私は、はてと首を傾げた。
 だが次の瞬間、机がびりびりと震えて歩き始めた。どこからか、きゃあきゃあと悲鳴が上がる。私はほとんど何も考えずに叫んだ。
「机の下にもぐって、脚のところをしっかりつかみなさい! 今すぐ、すぐに、急いで!」
 何か大きな生き物の胃袋の中にでもいて、その生き物が突然に寝返りを打ったように、教室中のものが振動を始めた。私は、そこに並んでいた数人の子どもを教卓の下に詰め込み、私はそれを上から抑え込んだ。
 揺れは長く続いた。まだ止まらなのか、と何度も思った。私が赴任する少し前に完成した新しい校舎は免震構造を備えているはずなのに、立っているのが難しいほど揺れた。閉めていた窓が踊りながら開いた。鞄棚からランドセルが雪崩をうって転がり落ちた。机の下で、何人かの子どもが悲鳴をあげた。
 やがて、揺れが穏やかになった。しかし、大きな揺れの後は必ず余震がくる。私はそのことをよく知っていた。リラックスした気分はとっくに吹き飛んでいた。私はまた叫んだ。
「そのまま机の下にいなさい。まだ地震は終わっていません。終わったと思っても、必ずまた揺れます。いいと言われるまで、そのままの姿勢で、しっかり頭を守りなさい」
 私が言い終わる前に、数十本の地下鉄が一斉に通り過ぎたような鋭い地響きがおこって、床が振動した。また悲鳴がおこった。
 ひとり、ぼんやりと立ち尽くしている男の子がいた。この子は発達障害で、いつも最前列に席を設けられている子だった。彼は胸を張って言った。
「先生、僕は強いから、地震なんて怖くないよ。ほら見て、揺れても、ちゃんと立ってられるんだ!」
 災害時に、子どもを置き去りにして無暗に教室を離れるべきではないけれど、私は彼の保護を優先した。幸い、強い余震はまだ来ない。私は四年一組を、隣のクラスの担任の先生に併せ見てもらうように頼んで、彼を職員室に連れて行き、校長室で預かってもらった。
 私はクラスに戻る前に、教務主任の先生に尋ねた。
「どういう状況ですか?」
「まだ分からない。テレビも何も言ってない。ただ、これだけ揺れたんだから、只事じゃないのは確かだ。今、下校させたばかりの低学年を呼び戻してるんだ。タツミ先生、手伝える?」
 私は四年一組を二組の先生に任せてあるのだと事情を離すと、教務主任は、じゃあクラス優先だから戻って、と言った。私はクラスに戻り、教室に備え付けてある防災ヘルメットを、ようやく被った。職員室が機能していることに私は安心した。
 四年一組の窓から運動場は見えなかったけれど、その方向から低学年の児童らしい甲高い声が聞こえてきた。通常通り下校させた低学年を、再び集めているのだった。この地域は狭い路地が多く、見るからにもろそうなブロック塀に挟まれているような場所もある。そういう場所で建造物の下敷きになったり、無理に帰宅しようとして怪我をしたりしてはいけないので、安全が確認されるまでは学校に留め置くことにしたようだった。数人がなかなか見つからなかったせいで時間がかかったが、低学年が一人残らず学校に戻るのを待って、校舎内に残っている中高学年児童も運動場に集められた。地震の場合、落下物や倒壊の危険がない運動場に非難するのがセオリーだ。少なくとも学校の中だけでは、事態はセオリー通りに動いていた。
 運動場に、児童と共に集まった職員は、校長のところへ集められ、今後の方針が伝えられた。季節柄屋外は冷えるので、校舎の安全点検を終えたら児童を教室に戻し、その後、保護者引き取りとすること。そのためのメールと電話による連絡がすでに教務主任によって行われていること。地震そのものの情報も伝えられた。
「震源は東北のようです。詳しい情報はありませんが、かなり強い揺れだったようです。どの程度の被害が出ているのかは、いまのところ分かりません。ジェイアールはすでに緊急措置として運転を中止しました。共働きの家庭もあるから、引き取りは長引くかもしれない……。職員の皆様にはお手数おかけしますが、対応よろしくお願いします」
 校門の外には、そわそわした保護者がすでに集まり始めていて、今すぐにも引き取りを始めなけばいけなかった。このまま放っておくと、つめかけた保護者で道や校舎が埋め尽くされて、思わぬ事態を招くかもしれないからだ。私たちは安全点検を急いで済ませ、児童を校舎に戻し、荷物を整理させて、引き取りを開始した。子どもたちは、ひとり、またひとりと保護者に手を引かれて帰って行った。
 引き取りの動き出しはスムーズで、教室に残っている児童はどんどん減っていく。校長室にあずけてあった例の発達障害の児童も、いつの間にか引き取られていた。しかし、校長の予想した通り、主に共働きの家庭で、中々引き取ってもらえない子どもが後に残った。引き取りの遅れている児童は図書室にまとめられ、担任が行っていた引き渡し業務を副校長が引き継いだ。
 定時を過ぎても、職場を去る職員はいなかった。図書室にクラスの子どもが残っている児童は、そちらへ行き来したり、そうでない職員も、何だか帰る気分ではなくて、事務仕事をしたり机まわりの片づけをしたりして何となく落ち着かない時間を過ごしていた。学区の点検から帰ってきた安全指導の先生が、電車はとまっているし、幹線道路はすごい混雑だと言った。どのみち、帰宅しようにも帰る手立てがないということだ。
 点けっぱなしになっているテレビと、委員会からの直通電話からもたらされる情報で、事態は少しずつ明らかになってきた。東北地方を襲った強い揺れ、津波。そこから相当な距離がある首都近郊でも、地割れや地盤沈下、液状化現象による被害が生じている。横浜駅周辺でも地盤沈下がおこっているらしい。
 夕方の六時を過ぎた頃、校長が職員を席に就かせた。
「まだ引き取られない児童が数人残っていますが、これは管理職と安全部が対応しますので、帰ることのできる先生たちは、どうぞお帰り下さい。月曜日ですが、今のところは通常通りの授業を行う予定です。変更があれば連絡網でお知らせします。今日はご対応ありがとうございました」
 それから校長は、私のところへやってきた。
「タツミ先生、ブラスバンドの朝練習は、当面、中止してください。卒業式の演奏もありますから、練習しなければいけないのは分かるのですけれど、こういう事態ですから……」
「分かりました。バンドの家庭には連絡しておきます」
「迷惑かけるね、よろしくお願いします」
「大丈夫です。事態が事態ですから、みんな分かってくれると思います」
 地震は校長のせいでもなんでもなかったが、校長は丁寧に頭を下げた。明日の土曜日午前の練習は、すでに中止の連絡をメール連絡網で出していた。ただ、こういう災害時はいつもそうであるように、通信の混乱によってそのメールが相手に届いているかどうかは疑問であったが。もし連絡を受け取れなかった家庭があったとしたら、明日学校に練習があると思って来る児童がいるかもしれない。明日は様子を見にこなければいけないなと、私はぼんやり考えていた。
 通信と言えば、さっきから十数分おきに妻に電話をかけているのだけれど、一向に回線がつながる気配はなかった。コール音が鳴ることもあれば鳴らないこともあり、鳴っても、すぐに回線が切れて、ツー、ツーと始まる。妻は東京駅のあたりで事務の仕事をしていた。東京都内の被害はそう大きくないようだったからあまり心配はしていなかったが、不安がない訳ではなかった。
 校長に帰れと言われても職員がなかなか動かないので、帰りづらい雰囲気であったけれど、私は意を決して立ち上がった。職場から自宅までは、電車で二十分程だから、歩いても二時間はかかるまい。私は机の近くの先生に頭を下げてから、コートの袖に腕を通した。
 職場の最寄り駅はシャッターが下りていて、完全にシャットアウトされている。駅前に人気はなくて、数台のタクシーがロータリーに止まっており、暇そうにアイドリングしている。タクシーを利用しようかとも考えた。しかし、幹線道路はすごい混雑だという話を思い出して、やっぱり歩いて帰ろうと腹をくくった。
 その判断は正解だった。海岸伝いの大通りに沿って歩いたのだが、道をびっしりと埋め尽くしたテールランプは、ぴくりとも動かない。王蟲の大群がひしめき合って停まっているようにも見える。中には、移動を完全に諦めて、エンジンを切ってしまっている車もあった。私は、石川町、関内、みなとみらい、横浜駅西口と歩き通した。自宅に着いたのは、午後十時ごろであった。
 歩きながら、何度も妻に電話をかけた。もうそろそろ自宅に着こうかと言う頃、回線は不意に息を吹き返し、端末から妻の声が聞こえた。
「ああ、やっとつながった。そっちは大丈夫?」
「大丈夫よ。電車が停まって、全然動けないけど。今、会社で待機してる。ねえ、ここで泊まるの嫌だから、バイクで迎えにきてくれない?」
「いいけど、時間かかるよ。道は、ものすごく混んでる」
「バイクなら、大丈夫なんじゃないの? お願い、疲れていて、できればベッドで寝たいの」
「何とかしてみるよ」
 私は自宅に着くと、倒れた家具を起こしてバイク用の服装に着替え、第二京浜を東京に向けて出発した。
 しかし、考えが甘いことにすぐ気づいた。浦島からすでに車の密度が増して、バイクであってもすり抜けられないほど道は混雑していた。私はそれでも、何とか鶴見の坂を越えて、多摩川まで来た。多摩川にかかる橋も、すっかりテールランプで埋め尽くされている。メーターの時計は、すでに日付が変わったことを私に知らせていた。このペースで行けば、東京駅まであと二時間、そこから自宅へ引き返して、あと四時間。帰宅する頃に夜が明けているであろうことは確実だった。あまり時間がかかっては、明日職場に着くのが遅れてしまう。私は妻に電話をした。今度は、すぐにつながった。
「まだ多摩川なんだ。これだと、家に帰るのは明日の朝だ。悪いけど、引き返すよ。明日は職場に顔を出さないといけないから」
「まだ多摩川なの? 仕方ないね。ありがとう、気を付けて帰って」
 橋を渡ったところでユーターンする。第二京浜は、下り側も上りと同じように混雑していた。私がすっかり疲れ切って自宅に戻る頃には、春先の冷え込んだ夜であったにもかかわらず、バイクの空冷エンジンはオーバーヒート寸前だった。
 バイクを降りると、腹が鳴った。そう言えば夕食を摂っていなかった。私は自宅近くの馴染のラーメン屋で簡単に食事を済ませ、ああそう言えば今日はレッスンだったけれどトオル先生はどうしただろうか、などと考えながら眠った。

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