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earthquakin' blues (5/11)

⑤2009/7/**

 レッスンは月に三回、トオル先生が教室に来ている日から私が選ぶことになっていた。トオル先生が教室にいるのは主に火曜か木曜だったけれど、ライブやツアーの都合によっては月曜や水曜のこともあった。金土日はというと、そもそも私の都合に合わなかったのだが、先生の方でもその曜日は結婚式場の仕事が多かったし、土曜の夜は毎週、石川町のスローボートという店でライブをやっていたから、特別な事情があるときや先生の門下生が集まって発表会みたいなことをする時以外は、その曜日にはレッスンをしなかった。だから、私が初めて先生に会った見学のレッスンが土曜日だったというのは、本当に奇跡のような偶然で、もしあの日、トオル先生がレッスンに来ていなくて、私が別の講師のレッスンを先に見学していたら、ひょっとしたらトオル先生と言葉を交わすことはなかったかもしれないし、もし見学の印象がはかばかしくなければ、クールストラッティンでジャズの勉強を始めることもなかったかもしれない。
 トオル先生のレッスンは厳しかった。もっとも、アマチュア相手のレッスンなのだから、それでも手加減をしていたのだと思うが、トオル先生のレッスンはとにかくミスを絶対に許さなかった。私が指を滑らせて楽譜にない音を一瞬でも鳴らすと、一旦そのフレーズを最後まで吹かせてから、もう一度やり直させる。そして、できるまで繰り返させる。フェイクしたテーマにツーコーラスのアドリブがついた書き譜を、四小節単位で仕上げていって、最後にはテーマに戻るところまで全部通させるのがトオル先生のスタイルだった。レッスンを受けるほうも大変だが、それ以上に指導者は根気強くないと、こんな風には出来ない。ある技術を徹底して習得させるというのは、決して楽ではないということを、私は教師の仕事を通してよく心得ていた。私が、短期間の間にかなりな上達を自覚できるほどサックスの扱いに習熟したのは、トオル先生の指導者としての手腕に百パーセント依存していると言っても過言ではない。
 譜面があるときは、譜面通りに演奏し、決してミスをしないこと。これはプロフェッショナルとしてのトオル先生自身のこだわりでもあった。
 私が十時にクールストラッティンへやって来ると、トオル先生は大抵先にスタジオに入っていて、誰か別の生徒のレッスンをしているのでなければいつも、何か早い指回しのフレーズを、何度も何度も、繰り返しさらっている。トオル先生の楽器は、テナーのこともあればアルトの時もあった。張りのある、力強いスイング。
 私がスタジオの外で楽器を組み立て、時間を待ってからスタジオに入っていくと、トオル先生は時計を見て、もう時間かと楽器を置く。そしてそんな時トオル先生は大抵、いやあ今度レコーディングなんだけどこのフレーズが難しくってさ、と照れくさそうに頭を掻く。それからトオル先生は、私が音出しをしている間スタジオの外にいて、事務所の赤城さんらと談笑しながら私のレッスンのための譜面をコピーしたり音源を探したりするのだった。
 夏になった。
 サックスの扱いに慣れてきた私に、トオル先生はいよいよアドリブのレッスンを施した。最初はブルース。ペンタトニック、すなわちブルースを構築する五つの音だけを使って、自由にフレーズを組み立て、即興で演奏する。ペンタトニックに含まれる音はどれでも好きに使ってよいが、ただし、含まれない音は何一つ吹いてはいけない、とトオル先生は私に制約を課した。
これがブルース初心者には滅法難しい。トオル先生のタブレット端末が延々と繰り返し再生する、伴奏アプリケーションのバッキングに合わせて練習するのだが、きちんとイディオムを勉強したことのない私はすぐに手が尽きてしまう。少しでも色気を出そうとして頭をひねっていると、七音のスケールに慣れた私の手はすぐに、ペンタトニック以外の音に流れ、そうするとトオル先生から、その音ダメ! と喝が入る。叱られた私は姿勢を正すのだが、しかし何分語彙が少ないので、もしステージでこんなプレイをされたら客はみんな白けて帰ってしまうような同じフレーズの繰り返しを続けるしかない。
 見かねた先生が、俺がやる! と私からソロを奪う。先生の演奏は見事だ。ルールを守りつつ、実に多彩に、ブルースを歌い上げる。時には仕事を首になって管を巻く酔っぱらいのように、時にはつれない女への思いを切々と語る若人のように。この頃は、トオル先生はテナーではなくて、シルバープレートのアルトを使ってレッスンすることが多かった。トオル先生は、苦手だったんだけど近頃になってやっとまともに吹けるようになりました三十年かかったよ、と謙遜したけれど、アルティッシモはきちんと当たるし、低音まできちんとファットに鳴るし、とても不得手にしていたとは思えないほどアルトをきちんと歌わせた。使っているリードを尋ねると、私が常用しているものよりずっと固いリードで、当たり前のことだが、これはかなわない、と私は尊敬の念をあらたにしたのだった。
 この頃、トオル先生はどうも腰を悪くしていたようで、レッスンが終わった後は大抵、テナーを事務所の赤城さんに預けて、アルトだけをもって帰っていた。一時期は本当にひどかったようで、ある時などレッスンの最中に、タツミさん見て見て俺さコルセットつけられちゃったよ、なんておどけ、ぱりっと糊のきいたシャツの腹のあたりを抑えて、装具を浮き立たせて見せた。ひょっとしたらそのせいで、重いテナーを持つのが辛かったのかもしれない。しかしテナーを全く吹かなかったわけではなくて、時々はテナーを使ってレッスンを行うこともあった。そういう時トオル先生は、私がレッスンを受けるためにクールストラティン音楽院への階段を上っていくと、防音をほどこしてあるはずのスタジオの壁を突き抜けたトオル先生のテナーが、タイトな峠道を全速力で下るフォーミュラカーのような、高速フレーズを何度もさらう音が聴こえた。そして私が入っていくといつものように、いやあ今度ビッグバンドのライブがあるんだけど、ユニゾンのトゥッティでやるここが難しくてさ、と頭を掻いて笑うのだった。
 トオル先生の腰が、どのぐらい深刻な状況だったのかは、私も尋ねなかったしトオル先生もあまり言わなかったので分からない。ただ、私がトオル先生のもとに通い始めた頃に比べると、ライブや結婚式場の仕事を制限しているようだった。この日はライブがあるかこの週は水曜日にお願い、みたいなことを言うことが減っていた。時々、熱心にフルートの練習をしていることもあって、それは大抵、腰がひどく痛む時らしかった。
トオル先生が一度、こんなことを言ったことがある。
「俺さ、今日家からここまで歩いてきたんですよ。家は戸塚なんだけど、国道沿いに、二時間! 医者が、もっと歩いて鍛えないとダメだって言うもんだからさ。こんなのは、若い時に飲み過ぎて終電逃したけど、どうしても帰らないと家内に怒られるから、仕方なく歩いて帰った時以来です。いやでも楽しかったなあ。ほとんど車しか通らない国道なんて、何年たっても変わらないと思ってたけど、結構風景も違ってるし、店も違ってるし、道自体も何だか、昔と曲がり方が違うような気がするんだ。不思議だよねえ」
 トオル先生のレッスンは厳しかったけれど、私はそれが楽しくて仕方がなかったのでトオル先生の本領であるテナーを教わりたいと思い、次の年の春、アルトを手放してテナーを手に入れた。すでにラインナップから落ちていた、値上がり前の価格の、セルマーのセリエⅡの旧モデル。それを持って行くとトオル先生は、タツミさんバカだねえ、と大笑いして祝福してくれて、それから、マウスピースをまずジャズむきのに変えなきゃね、と私物のバンドレンのメタルを私に貸してくれた。私はそのバンドレンを、夏が始まる頃まで使い、夏の手当で新しいマウスピースを手に入れてから先生にお返しした。トオル先生は、その頃にはあまりアルトを吹かないようになっていて、はいどうも、とバンドレンを受け取るトオル先生の腰の辺り、薄着の季節になって体の線がよく見えるようになったそこには、もうコルセットらしいラインは浮いていなかった。


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