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earthquakin' blues (1/11)

① 1995/1/17

 一九九五年一月十七日、フルートとクラシック音楽に熱中する高校生だった私は、激烈に振動する断層にたたき起こされた。
 阪神地方を襲った大地震は、神戸市に住んでいた私の六畳間をマグニチュード7.3で揺さぶり、私の枕の右側にあった棚の一番上にしつらえてあったビクターのミニコンポを落下させた。カセットのダブルデッキとディスクプレーヤーが一体になったアンプ部分は私の右耳のそばに、スリーウェイのスピーカーは左耳のあたりの布団に落ちた。アンプとスピーカーをつなぐコードが私の首の上を横切っていた。アンプでもスピーカーでも、もし私の頭部を直撃していたら、私はディスクプレーヤーに入れっぱなしになっていた小澤ボストンによるマーラーの悲劇的交響曲を挽歌とし、六四三五人目の犠牲者になってあの世へ旅立っていたかもしれない。私は三途の川の十センチ手前に寝ていたわけだ。
 布団から起き上がった私は散乱した室内を見回して、すぐには状況を飲み込めず、しばらくぼんやりとしていた。部屋がやけに寒いなと思ったら、昨日の夜には確かに閉めたはずの窓が開いている。後で確かめたら、それは開いたのではなくて、窓自体が枠から脱落して、壁と机の隙間に落下していたのだった。机の上に置きっぱなしにしていた私のフルートは、そのままの場所にあった。まだ余震が続いていたので、私はフルートが机から落ちて損傷しないように、畳の上に置いた。
それから、私は自分の部屋を出て、家族の安否を確かめた。家族にも怪我はなかった。そのかわり家の中はひどいもので、皿やコップの類は一つ残らず割れているし、窓だの扉だのは片っ端から傾いたり外れたりしていた。あまりに現実離れした光景に、驚くことさえ忘れた私はただただ目を丸くしていた。
 寝巻のまま外に出ると、夜が明け始めていた。寒さは感じなかった。遠くの空に火事らしい煙が見えた。当時はまだあったうちの前の大きな駐車場でも何かが燃えていて、それはやがて誰かの車に燃え移り、タイヤが燃えると空気が破裂して花火の真下で聞くような爆発音で私を驚かせた。焼けるゴムの匂いが臭かった。私は戦争を知らないが、市街戦の犠牲になった街はきっとこんな風だろうと私は想像した。崩壊した街は、サイレンの音もなく、穏やかな静けさだった。平日の朝、慌ただしく目覚めようとする街のほうが、よほど騒々しかった。
そして、私と同じように寝巻で外の様子を見に来ていた近所の人々は、いつのまにかいなくなった。いくらか雲はかかっていたけれど、晴れた冬空は明るかった。気がつけばもう午後だった。
 地震の後数日の間、私は家族を手伝って配給品を受け取りに役所に行ったり、給水の列に並んだりしたが、地震の前からかかっていた風邪が悪化し、二三日高熱で寝込んだ。その間に、電気が復旧し、テレビから情報が得られるようになり、配給品が行きわたり、簡易トイレの設置もすすんで、私の家族には笑顔も見られるようになった。私の体調が平生を取り戻す頃には、家の一部が破損していることや、街が瓦礫の山であることや、食事が配給品のおにぎりやパンで煮炊きはカセットコンロに依存していることを除けば、以前の日常と大差ないように感じられるようになった。
けれど、私が母にフルートを吹いてもいいかと尋ねると、笑っていた顔を急にひきつらせた母は、「あんたアホか。絶対吹くな」と厳命した。
 私が以前のように音楽に心を傾けることができるようになったのは、神戸の自宅から電車と徒歩で片道二時間かけて通っていた高校の寮が、非常の場合として私を受け入れてくれた後のことである。高校のあたりは、地震の被害が全くない土地であった。それまで楽器を触れなかった鬱憤を晴らすように私はフルートを吹きたおした。学年末考査の勉強もせずにフルートばかり吹いている私を見て、同室になった帰宅部の同級生は、お前アホやなあ、と笑った。試験期間中の夕方、部活もない静まり返った校庭で楽器を吹こうなどという者は私しかいなかった。先生たちは私をみかけると、「非常識なやっちゃ」とでも言いたげな顔をした。
 その高校を卒業した後、一浪して横浜の大学に入って、在学中は学業そっちのけで学生オーケストラの活動に夢中になり、卒業したら池袋にあるシステム開発の会社に就職したけれどなんだか嫌になってすぐに辞め、次に私は横浜で小学校の教員になった。小学校ではもちろん勉強を教えたけれど、それ以外に特設クラブのブラスバンドの指導を任されていた。小学校の仕事は楽しく、事情があって帰郷しなければなくなるまでの数年間、私はその職を続けた。


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