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earthquakin' blues (6/11)

⑥2009/12/**

 トオル先生は無類の酒好きで、正月、酒どころとしても有名な故郷に帰省した私が地元の銘酒を手土産で先生に持って行くと、大変喜んでくれた。
「日本酒なんですが、先生のお口にあうといいんですけど」
「ありがとう、酒は何でもうまいんです。うん、酒はいい、本当にいいよ……悪かったね」
 赤城さんによると私が夜のレッスンを終えて帰った後、その場にいた講師や事務員で一升を空けてしまったらしいのだけど、赤城さんがグラス半分ぐらいの量を飲む間にトオル先生は瓶の半分ぐらいを喉に流し込み、じゃあオツカレさん悪いけど空き瓶は資源ごみで出しといて、と赤くなりもふらつきもせず、腰が痛ぇなあとぼやきながら帰って行ったのだそうだ。
 先生は普段でも、私のレッスンを終えると大抵、クールストラッティンのバーに寄った。私のレッスンが終わる時刻というのはほとんど終電間際の時間だから、そう長居はしなかっただろうけれど、ほとんど欠かさず飲んで帰っていたのは確かだ。私はバーの扉に吸い込まれていくトオル先生を何度も見送った。たまには私も一緒に一杯飲みたいと思うこともあったけれど、生憎、私には翌朝早くから仕事がある。私が指導しているブラスバンドの練習は、七時半に振り下ろしと決まっていて、学校の門をあけるのが七時、それに間に合うためにはやはり六時には起床しないといけなかったので、できればレッスン終了の一時間後には布団に入っていたかった。
 トオル先生は、レッスンの後だけでなくて前にも、私の前のレッスンと私のレッスンまでの時間が開いている時には飲んでいることがあって、そういう時にスタジオにこもると、ほんのりといい香りがした。どれくらいの量を飲んでくるのか知らなないが、目が赤いこともある。ただし、だからと言ってレッスンやプレイがいい加減になることはない。だからそのことについて私は全く問題にしなかったし、むしろジャズマンというのは豪快だなあと、感心したぐらいだ。そんな具合の先生と、酒バラだとか、エンジェルズアイなんて曲をやると実に塩梅がよくて、程よく揺れるグルーヴが実に気持ちいい。飲んでいないこちらにまで、痛飲した男の後悔や強情、ナイーブさがじんじん染みてくる。サラリーマンや公務員が酒を飲んで職場に来たら叱責ものだろうけれど、トオル先生に関しては少しアルコールの香水をまぶしてある方が、よっぽどいいのだった。
 けれどトオル先生が、私がレッスンに通った二年ほどの間にたった一度毛だけ、ほろ酔いと泥酔の境目あたりの状態でスタジオに現れたことがある。
 私が帰省の土産に銘酒を持参した前の月の中頃、ちょっとした地震があって、電車が遅れた。私はいつもレッスンに遅れないように、時間の十五分前にはクールストラッティン音楽院に着いて楽器を組み立てるようにしていたのだけれど、この日は電車のダイヤの乱れが続いていて、レッスン開始ぎりぎりになって到着した。すると、いつもは事務室で仕事をしていて、こちらから声をかけないと出てこない赤城さんが、私の姿をみると黒いハイヒールをかかかかっと鳴らしながら小走りに歩いてきて私を出迎えた。
「こんばんは、タツミさん。電車遅れてるみたいですね」
「はい、まだ遅れてます。電光掲示板は復旧してましたけど、発着時刻は消えてました」
 私は、このダイヤの乱れてトオル先生も遅れているのかと勘ぐったのだけれど、そうではなかった。赤城さんは、曇った表情を、申し訳なさそうに伏せた。
「実は、トオル先生ちょっと、機嫌がよくなくて……。いえ、別にタツミさんのせいじゃなくて、地震のせいなんですけど」
「何かあったんですか?」
「いやその、レッスンを急にお休みする生徒さんが多かったので……でも、先生ちゃんとお待ちですから、大丈夫です。すみません、余計なことを言いました」
 時計を見ると、もう十時になろうとしている。私は、いつもならスタジオの外で楽器を組み立ててからスタジオに入るのを今日は変更して、まずは先生に挨拶をしようと、コートも着たままスタジオの防音扉を開けた。
 すると、強いアルコールの匂いが私の鼻を打った。トオル先生は、じっと譜面を見ながら、ヘッドホンで何かの音源を聴いている。私が扉を閉じると、ようやく私がスタジオに入って来たことに気がついたようだった。顔を上げてヘッドホンをとったトオル先生は、ひどく不機嫌そうな表情をしている。いつもなら、ボタンを空けてはいるけれど左右できっちり高さをそろえてある糊のきいたシャツの襟が、少し乱れて、ネックストラップが傾いている。押し殺したような鬱屈した空気だった。トオル先生は、その雰囲気をごまかそうとするように、大きな声で挨拶をした。
「いらっしゃい、タツミさん! さあ、レッスンはじめようか」
「遅くなってすみません。電車がまだ遅れていて、さっき到着したんです。すぐに準備します」
「いいよ、いいよ。ゆっくり準備して、音出ししといてください。俺、譜面準備してきますから。……少し暑いね、このスタジオは。換気扇を回そう。回していいですか。タツミさん、寒くない?」
「大丈夫ですよ。確かに、少し空気がこもってますね。冷房でもいいくらいです」
「ああそうだね、本当に、冷房でもいいくらいだ。とにかく、俺は準備してきます。ゆっくり準備してね」
 トオル先生は、スタジオの壁に張り付いている換気扇とエアコンのボタンを操作してから出て行き、私がサックスの準備と音出しを終えた頃に戻って来て、はいこれ今日の曲、と譜面をスタンドにぱさりと置いた。今日は前回からの続きで酒バラのアドリブ、少し長いパターンの新しい譜面。私はすぐにざっと目を通した。
 トオル先生は顔を洗ったらしく、額に垂れかかった短い前髪が少し濡れて束になっていた。脂気のとんだ、若々しさよりは老いの勝り始めたトオル先生の頬の皮膚は、艶を失って、そのせいでかえって赤みが強調されて見える。この頃、腰の痛みはピークに達していたようでトオル先生は、痛ててて、と顔をしかめながら電子ピアノの椅子に腰かけ、シルバープレートのアルトを手に取り、さあ始めようと宣言して私にスケールを吹かせた。
 サックスに息を吹き込みながらトオル先生の方に視線を送ると、私に合わせて一緒にスケールを吹いた。トオル先生は苛立っているようだった。あるいは、言い知れぬ不安に襲われているようでもあり、その不安をはねのけようと必死に強情を張っているようにも見えた。レッスンが急にキャンセルされて怒っている、という風には、少なくとも私には見えなかった。
 いらぬことを考えているとミスをする。上昇と下降を繰り返しつつ、高音域に向かってスライドしていくスケールが第三オクターブに突入すると、上ずって行こうとするピッチを抑え込もうと無理にアンブシュアを絞った私の口元で、リードは破綻した。トオル先生もマウスピースから口を離す。
 私はリードの水分を親指でしごいておとしつつ、すいませんもう一度お願いします、とミスを詫びる。ところが、いつもならすぐに、よじじゃあもう一度、とくるトオル先生は黙ったままだった。傾いたストラップにアルトを吊り下げたまま、酔いに抵抗するように両手で眉間をしごいている。何かをアドバイスしようと言葉をさぐっているような感じだったけれど、トオル先生の口をついて出た言葉は、まったく違った。
「一週間ぐらい前に、都内の大学のジャズ研に指導を頼まれて、行ったんですよ。ビッグバンドのチームだったんだけどさ、学生さんを教えるのは楽しいね、活気があって。つい熱がはいっちゃってさあ、あれこれうるさく言っちゃったんだけど、レッスンが終わった後に飲みに誘ってくれて、一緒に騒いできました」
 へえそれは楽しそうですね、と私は相槌をうつ。どうしてトオル先生が急にそんな話を始めたのか、私は先生の考えを量りかねたが、そのまま黙って耳を傾ける。トオル先生は、首から吊ったアルトのキイをぱたぱたと弄び、そのマウスピースの先端を見つめながら、笑いもせずに話をつづけた。
「それで、そのバンドのリーダーっていうのがバリトンサックスの、活きのいい先輩格の男の子だったんだけどさ、そいつが一回生のベースの文句ばっかり言うんですよ。こいつは音程が悪い、タイムが悪い、練習してもちっとも上手くならないってね。そりゃあ、先輩として一言二言言いたくなるのは分かるんだけどさ、あんまりくどくど言うもんだから、俺、言ってやったんですよ。ええそう、がつんとね、俺、言ってやったんです」
 トオル先生の顔が赤みを増した。その時のことを思い出したのだろう。眉間にぐっと皺が寄った。しかし、感情は昂っているはずなのに、トオル先生の目には、むしろ疲れとか諦めととれる色が浮かんでいた。何を言ったのだろうと私は思ったけれど、黙ったまま、トオル先生が次に何を言うのか、続きを待っている。トオル先生はひとつ深呼吸した。
「せっかく一生懸命やってるのにさ……。実際、そのベースの男の子は、上手じゃなかったよ。でも彼は、ちゃんとスイングしてた! 誰よりもスイングしてたんだよ、サックスよりも、トランペットよりもね。ドラムの奴は四回生で、卒業したらプロになるって言ってたのは、さすがに上手かったですよ。だけど、それ以外じゃ、そのベースが、一番スイングしてた。してったっていうのに! だからね、タツミさん、だからね、俺は言ってやったんですよ。そう、ガツンとね。言ってやったんです。リーダーだっていうそのバリトンの先輩にね……あんまり何度も何度も、そいつが下手だってうるさいもんだから」
 あとはもう、同じことの繰り返しだった。先生も、話を区切るきっかけを失っているようだった。それを言ったものかどうか、私はかなり迷ったけれど、ふっとおとずれた息継ぎの沈黙で、私はついに尋ねた。
「先生はそのバリトンの学生さんに、何ておっしゃったんですか?」
 するとトオル先生は、ふっとスイッチが切れたように、言いかけた言葉を喉に留めると、ふうっとため息に変えて吐き出した。そうすると急にすべての感情が抜け落ちてしまったみたいに遠い目をして、空中に霧散してしまったそれらを探して目を泳がせた。憑き物が落ちたようだった。
「いや、いいんです。つまらないことだから。……さあ、酒バラ、ちょっとやりましょうか」
 先生は、そのバリトン奏者に何と言ったのか、ついに言わなかった。レッスンの時間はもうほとんど残っていなかったから、今日もらった譜面をざっと通して、この日のレッスンは終わった。トオル先生はレッスンが終わった後、今日は話が多かったけどこんな日があってもいいよね、と頭を掻いて言い分けするようにはにかんだ。私は、ええとても楽しかったです、と応えたけれど、トオル先生は、私のその応えにか、あるいは自分の今日の仕事にか、とにかく不満そうに苦笑いしただけあった。
 この以前にも以後にも、私が仕事とレッスンを辞める直前にあった東北の地震の後でのことを除いては、トオル先生がこんなに感情をあらわにしたことはなかった。この日のことは、トオル先生のプロフェッショナルとしての高いプライドの向こう側にあるナイーブさと立場の危うさを垣間見た、数少ない機会のひとつとして、私の記憶に残った。

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