私の30年間 #自己紹介
こんにちは。
今は主に、記事作成(構成案をつくったり、書いたり)のお仕事をしたり、愛用している日用品のマーケティングのお仕事をしたりしていますが、今日は私の30年間について書いていこうと思います。
結構長編になってしまったので、興味のあるところから目次で飛んでください。
子どもの頃の私
生まれは北海道札幌市。
自営業の父と、専業主婦の母(父の手伝いはしているけれど)、7つ上と5つ上の姉が二人、父方の祖母と一緒に住んでいたので6人家族でした。
昔は家から15分くらい車を走らせたところに、母方の祖父母が暮らしていました。その祖父は国語の古文の先生で、祖母は小学校の先生でした。
3姉妹の末っ子として生まれてきた私は、年の離れた末っ子らしく甘やかされて育った(?)のかなと。断然、お母さんっ子で、母親にべったりな子どもでした。
姉二人がピアノや英会話に通っていたので、私もピアノと英会話(今は全くできないw)に通わせてもらいましたが、姉二人はやっていなかったクラシックバレエというものを5歳から始めさせてもらい、結果その後20年間続けることとなります。
子どもの頃は通知表に「正義感の強い子です」とよく書かれたもので、「ルールは絶対!」「こうあるべき!」っていうのがすごく強くって、周りからは恐がられたり、ちょっと不良気味?の子たちにはうざがられていたこともあると思います。笑 のちに、この特性が自分を苦しめることにもなるんだけど…w
中学生までは勉強をすごく頑張った(つもり)のですが、高校1年のときにバレエで入学できる大学が東京にある!ということを知ったその日から、勉強熱というのがすごく冷めてしまって、特に社会科(暗記する分野だと思っていた)なんかは赤点ギリギリだったような気がします。
クラスメイトは、北海道大学や小樽商科大学、または、看護学校へと進学する準備を着々と進める中、私は東京の体育大に進学することとなり、ほとんど勉強などせず、バレエに通っていました。
でもそんな私を受け入れてくれた、高校3年間担任だった佐々木先生にはとても感謝しています。
映画ばかり観ている私に「お前にとってはそれが大事な時間だよな」と言ってくれたり、よく胃が痛くなって(特に10代の時は胃が弱かったのです)泣いている私に(そしてだいぶ泣き虫だったんですw)「お前が泣いてる時はだいたい睡眠不足の時だと思うぞ」と教えてくれたり。
そして、今でこそすごいなと思ったのは「お前はいつかライターとかになってそうだよな。」と言ってくれたことです。
(国語の点数はいつも微妙で60〜70点台を行き来していたのに)私が書く学級日誌に、そうお返事を書いてくれていました。
多分その日の日記には、「雪国のひとたちなんて毎年雪を死ぬほどみているのに、初雪の日は嬉しくなるのはなんでかな」みたいなことを書いたような気がします。
先生、まだとっておいてくれるといいな、日誌。
映画「イン・ハー・シューズ」が教えてくれたこと
父と母と映画「イン・ハー・シューズ」を観に行ったのはたしか、高校2年生くらいの時。
この映画は、キャメロン・ディアスとトニ・コレットが主演。優秀なキャリアウーマンのトニ・コレットの妹は、美人だけどビッチでフラフラしているキャメロン・ディアス。みたいな二人が、仕事や恋を通して人生の転機を迎えていくヒューマンドラマ。
キャメロン・ディアスは、「チャラついてて努力不足」みたいな役柄なのですが、実は「学習障がい」だったということが映画の中盤でわかります。
高校生までこの「学習障がい」という存在を知らなかった私には、とても印象的な映画でした。
そして、のちに大学で教員免許の勉強をしたときに教授に言われてすごく納得した言葉があります。
「学習障がいというのは、目が悪い人が努力しても目があまり良くなることがないのと同じで、本人のやる気や努力とは関係なく、どうしてもできないこと・改善できない部分というのがあるんですよ」というもの。
人にはそれぞれ特性や個性があると頭でわかっていたつもりでも、どうしても何事も自分基準で人のことを判断していたのだな、ということを気づかせていただいた言葉です。
私にはできて、私には普通なことも、できない人もいるし、難易度が高いひともいるということ。
キャパシティというものは、人によって違うのだということをそこで理解することができました。
ダンス界に諦めがついた大学4年生
クラシックバレエを20年続けました、というと必ずといっていいように「どうしてやめたの?もったいないね」と言われます。
でも私の中では、ちゃんと踏ん切りがついて辞めているのです。
大学の授業の半分以上は実技で、大学のサークルでも踊って、外部のバレエ教室にも所属していたので、そちらのレッスンにもいって…とやっていた大学生活。
しかし、大学2年の夏(20歳)のときに、前十字靭帯を断裂しました。それはもう、すごい音がして、すごい激痛で、腫れすぎて肌がつっぱりピカーンと光るほどでした。笑
手術をしなければならなかったのですが、手術からリハビリをして踊れるようになるまでは1年かかりました。
復帰してから、年齢的にも最後なので(バレエコンクールってだいたい20代前半までのものが多いのです)一つのバレエコンクールに出てみようと思い出場。
出場者が舞台の上にズラ〜っと並び、さぁ、これから審査が始まります!というときに、「ああ、もうだめだ」とわかってしまったんです。
バレエに命をかけているほかの子たちと、私、全然違う。目の色が、全然違う。
と踊る前に、わかってしまいました。
「気」というもので、察したんです。
技術うんぬん、のまえに、情熱がないと自覚した日でした。
20代で転職は複数回
大学を卒業してからは、まず、別の大学の女子大で教職員を2年間経験。
教育界に関しては、興味はあったものの、なにか大きな組織の中に入ってしまうと、「自分の思う理想」と「指導プランの理想」というものにズレを感じ…「学校」に属することや「先生」として働くことは向いていないのかも…という風に感じ、かなり苦しい期間となってしまいました。
その次は、卒業した大学の大学院にまた戻るわけなのですが、なんと、2週間で退学。
2年間、合わないな…と思っていた職場で働き続けた結果、そのストレスが辞めた直後に出てきたといった感じで、あれよあれよと体調不良に見舞われて、院に通えなくなってしまったんです。今となっては笑い話ですが。
そんなときに拾ってくれたのが、知人のweb制作会社を営む方。
私のSNSの更新のマメさを知っていてくれたのか、自社メディアの運営・企画でお仕事してよ!というお話をいただいて、そこからwebでのライティングというお仕事に携わることになっていったのです。
そこの会社で、webでのライティングや、インタビューの経験をさせていただいたことで、次はその当時人気だったキュレーションサイトの編集部へと転職。
そこからまた、グルメサイト、お出かけサイト(ここは色々な事故により3日で退社w)、ゲームやアニメのSNS広告、インターネット広告など、web業界を転々としながらお仕事をさせていただいています。
個人的につながりのある方の書籍の出版なども携わらせて頂いたり、インスタで急にメッセージをいただいたモデルさんのホームページの文章を作成させて頂いたりしながら
言葉を扱う仕事というのを初めて、いつの間にか6年ほどが経ちました。
東京へはダンスに携わる仕事がしたい!と思ってでてきたはずなのに、今はなぜか全然別業種に定着しています。
よく、「ライターとかそういったお仕事をしたいのですが、どうやったらなれますか?」という質問を受けるのですが、私にもよくわかりません。
なんというか、私の場合は、ライターになりたいって思っていたわけじゃなく、タイミングとご縁と…お導きのような感覚でここまで来てしまっているので…不思議ですよね。
ちなみに、クラシックバレエの先生は、大学を卒業してから2年間だけやったので、25歳までクラシックバレエを続け、そこのスタジオがなくなってしまったと同時にダンス界を完全に離れたかたちとなりました。これもなんというか、お導きという言葉がしっくりくるかもしれません。
影響を与えてくれた人
《リサさん》
リサさんから学んだことは、「人脈の大切さ」。
リサさんは2つ年上の大学の先輩。なぜか「後輩」という言葉があまりすきじゃないみたいで、私のことを「リサの下級生」と紹介してくれていました。
リサさんは、新木場ageHaの毎週金曜日のイベントで、DJ KAORIがまわす時のgo goをしている人だったので、とにかく見た目が派手で、大学でもとっても目立つ奇抜な存在でした。
きっかけがあって仲良くさせてもらうようになり、一緒にいろいろ遊ばせてもらったのですが、当時大学3、4年生だった私からすると、リサさんはとっても大人でかっこよかったんです。
ダンサーなのでそもそも就職なんてことはしないのですが、踊っていたり、DJしてみたり、バーの店員をしていたり、ヘアメイクのお仕事をしていたり、イベントを企画してみたり、家の中にジャングルジムが設置されたり、ダンススタジオの運営を始めたり、急にオーストラリア人と結婚したり…
職業ではなくて、リサさんという存在そのものに人気のある印象で。
リサさんの周りには、いろんな職業のひとがいて、なかにはプロフェッショナルな方もたくさんいました。
「友達の友達は、友達でしょ?」という感覚がすごく、大人っぽいなというか、いいなと思ったんです。
セキアキ今度遊びにくるとき、友達誘っていいからね〜と。
「誰が来てもウェルカム!」なスタンスがすごく素敵で、私もこんな風に生きていこうって思ったのを覚えています。
当時はFacebookが流行っていたので、出会った人とは必ずFacebookを交換しようと思い始めたのもこの頃から。
いつ、どこで、だれが自分にとって(または、相手にとって)キーパーソンになるのかわからないから、出会いは大事にしようと思わせてもらいました。
《チルくん》
チルくんから教えてもらったことは、「自分で人生の舵をとってもいいんだよ」ということ。
チル君との出会ったのは、社会人2年目のときでした。
当時すごくはまっていた、JAZZY HIPHOPのコンピレーションアルバムがあって、そのクルーの一員だったチル君。(今もかw)
HIPHOP DJなのに、なぜかシャツにストールを巻いているファッションで、髪はロン毛で、雰囲気は爽やか。
東京理科大をほぼほぼ首席で卒業しているだけあって、頭がいいので話がとっておも面白くて、成功哲学や経済についていろいろと教えてもらったりしつつも、音楽のこともたくさん教えてくれて、私の興味と関心の幅は広がるばかりに。
チルくんと出逢った頃の私は、教育機関で働いていてものすごく辛かったときだったので、たくさん話を聞いてくれてアドバイスをしてくれる姿勢にすごく助けられました。
そうして、人生八方塞がりだと思いながらもなんとかしたいともがき暴れまくる私に、希望の光の一筋を見せてくれたのも、チルくんなんですよね。
人生の舵の取り方の基礎編みたいなことを教えてもらいました。
(この辺の話は、とっても長いのでいつかまたそのうち…)
チルくんと知り合えたおかげで、私が本当に出逢いたかった「質」の人たちに次々と出逢えるようにもなりました。
そして最近は、目に見えない世界に興味津々
そんなこんなで、なんだか忙しい20代を過ごし終えて30歳を迎えたわけですが、1記事めに書いた29歳のときの入院をきっかけに、今は見えない世界に興味津々なわけなのです。
最初は自分だけが感じて、学んで、そして感じることに、感動していたのですが、それを周りの人たちにシェアすればするほど、「教えて!」という声を多くいただくようになってきたので、インスタやnoteに残していこう、発信していこうと思い始めた次第。
大学生の時に論文を書きながら、「興味のある分野を一つ掲げていろいろと文献を漁ってる間に、ピンピンピーンといろんなことが繋がってわかっていく感覚が楽しいな」と思ったことがありました。
今は、それに似た感覚で、私にとっては新しいことをたくさん知れることがものすごく楽しいんですよね。
目に見えない、聞こえない、非物質世界、精神世界への移行だとか、魂のレベルがあがるだとか…本当にここ最近はよくいろんな人がこんなことを発信したりしていますが
わたしもその波に、入院をきっかけに目覚めたのではないかなと思ったりもしています。
誰かや何かの代わりにメッセージを
私は霊的な能力があるとか、そういったひとではないけれど
言葉にするのが苦手な人や、また、目に見えない・聞こえない世界観を、私なりの言葉で表現するのが好きなので
あたたかく、やさしいメッセージをこれからどんどん届けられたらなと思っています。
かなり長くなった自己紹介ですが、お付き合いありがとうございました♡
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