時代劇レビュー④:天と地と・黎明編(1990年)

タイトル:天と地と・黎明編

放送時期:1990年4月20日

放送局など:日本テレビ

主演(役名):大沢樹生(長尾景虎=上杉謙信)

原作:海音寺潮五郎

脚本:吉原勲


文学作品の映像化の成功例と言うか、それが見る側に高評価される理由の一つとして、原作の雰囲気を損なわずに映像オリジナルの要素を足すことで原作の不備、ないしは描かれなかった部分を補うと言う要素があるだろう。

私の中でこうした要素を持つ作品としては、1990年に日本テレビで放送された「天と地と・黎明編」がまず思いつく。

この作品はおそらく時代劇ファンの間でもマイナーな部類であろうし、ソフト化についても随分昔にVHSが発売されたきりで、DVDやBDのリリースは現在の所はないので、気軽に視聴しにくい作品である。

海音寺潮五郎の代表作の一つであり、上杉謙信の半生を描いた『天と地と』が原作で、原作のうち前半部にあたる箇所がこのドラマでは扱われている。

これには事情があって、そもそもこの作品は、同年夏に劇場公開された角川映画の「天と地と」の前日譚として、映画公開に先駆けて日本テレビの「金曜ロードショー」枠内で放送されたドラマであり、映画版が謙信(当時は長尾景虎)が長尾家を相続した所から始まるので、原作の前半部(兄の長尾晴景を倒して家督を相続するまで)のみの映像化となったわけである(タイトルに「黎明編」とあるのはそのため)。

要するに、この作品は映画ありきで製作されたもので、はっきり言ってしまえば本来は映画のコマーシャル用、あるいは「おまけ」として作られたドラマなのであるが、結果的にこちらの方が作品としての出来が良くなってしまったのは何とも皮肉である。

映画版が、少なくともドラマ性と言った面では、原作とは似ても似つかぬ駄作でレヴューにも値しない作品なのに対し、こちらの作品は短い時間の中で原作の雰囲気をそれなりによく伝えた良作と言える。

もっとも、細部の点では不満がないわけでもなく、例えば放送時間のためにやむを得ないとは言え、序盤はかなりダイジェスト的展開でやや雑な印象もある。

ただ、中盤以降は短い時間の中でうまいこと話を処理しており、かつ映画版との兼ね合いの都合でそう言う設定にしたのであろうが、原作と異なる描き方をしている部分が抜群にうまく、原作よりもドラマの展開の方が良いのではと思う箇所もある(なお、本編では史実と異なる描写が散見されるが、原作自体が軍記物などをストーリーのベースにしていて、だいぶ史実と違う部分があり、この点を指摘してもあまり意味がないので今回は特に言及しない)。

余談ではあるが、私は原作の大ファンで、かつ上杉謙信も好きな歴史上の人物の一人なのであるが、私が謙信好きになったのはこの小説の影響が大きいと思う。

さて、そうした原作の「改変」箇所で、原作よりも良かったと私が思う箇所をいくつか紹介してみたい。

海音寺潮五郎と言うのは優れた歴史作家だとは思うが、自身も認めているように、小説の分量を計算するのが下手で、当初の予定の通りに完結しないまま掲載雑誌・新聞の都合で無理矢理終わらせている作品が結構多く、このドラマの原作である『天と地と』もその一つである(海音寺潮五郎は当初は謙信の死まで描く予定だったはずが、結局物語は第四次川中島合戦で終わっている)。

この分量に誤算が出る理由の一つだと個人的に思うのが、やたらと登場人物が多く、その人物達に対して(作者としては当然なのであろうが)愛情が深いせいか、一人一人のエピソードをこれまたやたらと引っ張ってしまう点である。

適度な所で退場させず、後々まで登場させようとした挙げ句、うまく完結させられずにフェードアウトしてしまうと言う稚拙なことしてしまう事例もある。

すべての登場人物をうまく処理して、かつ物語も当初の予定の通りにまとめ上げた長編と言うのは、彼の作品の中では『平将門』と『蒙古来たる』くらいではないだろうか(史伝は除く)。

それはさておき、個人的に『天と地と』の中で退場の時期を間違えたのではと思う人物が、長尾晴景の側室である藤紫と、謙信の父・長尾為景の側室で、後に謙信の側近・鬼小島弥太郎の妻となる松江であるが(前者は架空の人物、後者もモデルとなる人物はいるようであるが基本的な設定は創作)、ドラマの「黎明編」ではこの二人の扱いがうまいこと処理されて、ちゃんと良いタイミングで死んでいるのである。

また海音寺潮五郎自身が語っているように、原作では人物のフェードアウト以外にも、回収しないままに放置された伏線が多くあるのだが(これは海音寺が当初は謙信の死まで描く予定で用意した伏線が、予定と異なり川中島合戦で終わってしまったために用をなさなかったと言う面もあるが)、この点に関してもこのドラマはうまいこと放置された伏線を「回収」している。

具体的には、幼少時の謙信が父・為景の不興を被って春日山城を追放され、本庄慶秀(史実では「本庄実乃」)を頼って栃尾に向かう途中、立ち寄った米山峠で「俺ならばここに陣場を構える」と言う非凡な発想を披露し、側近の金津新兵衛を感嘆させると言うシーンが原作の序盤にある。

これは原作の中でも非常に印象的なシーンなのであるが、意味ありげに出てくる割には、その後米山峠は作中で一度も触れられていない(晴景との戦いの際に米山峠が戦場になるのであるが、その際にも上記エピソードの関連は特にふれられない)。

この投げっぱなしの伏線に対して、ドラマでは実際に米山峠に陣場を構えた謙信が、約束を果たしたことを今は亡き新兵衛に語りかける場面をラストシーンに持ってくると言う見事なアンサーが用意されているのである(原作と異なり、新兵衛は藤紫に殺されてしまうのであるが、金津新兵衛自体が生没年のはっきりしない伝説的な人物なので、この創作自体は個人的には物語を盛り上げるのに必要なものと評価したい)。

一回目は父親に疎まれて一人過酷な運命に投げ出させる際、二回目は兄との戦いを制して戦国大名として一歩を踏み出す際と言う具合に、米山峠はともに謙信の「旅立ち」を象徴しており、単に原作の不備を補うだけではなく構成としても非常に秀逸と言える。

もう一つ、ドラマ独自の付け足し部分として個人的にうまいと思ったのは、前述の藤紫と謙信の生母・袈裟(名前は海音寺の創作で、史実では青岩院の法名で知られる人物)を瓜二つと言う設定にしていることである(配役は秋吉久美子の二役)。

ドラマでは晴景は密かに袈裟に恋心を抱いていて、瓜二つの藤紫を側室にすることで思いを遂げるが、やがて藤紫に溺れて堕落していき、また早くに母をなくした謙信にとっても、母と瓜二つの藤紫に対しては複雑な感情を抱くようになり、それが謙信の「生涯独身」にも影響を及ぼしていく。

小説版では晴景は最初から暗君のテンプレみたいなキャラクタなのであるが、ドラマ版では登場時には好青年だった晴景が、藤紫によって徐々に堕落していくと言う設定であり、原作のステレオタイプの晴景像に比べるとこちらの方がよりリアリティがあるように思える。

それはこの袈裟と藤紫が瓜二つと言うドラマ独自の設定による所が大きく、この点はうまいこと原作を補っている設定だと思う。

後、個人的に大好きなのが、これまた原作にはない箇所であるが、景虎が晴景に弓をひくことを決意する際に、刀八毘沙門天に祈りを捧げてから、自ら筆を執って「毘」の旗を作成するクライマックスのシーンで、ここはかなりよく出来た描写である。

兄と戦う決意を固めるのに際して独自の旗印を作ると言う展開は、謙信のトレードマークの一つとも言える「毘」の旗誕生のエピソードとしてもうまい。

先の米山峠のシーンにせよ、この「毘」の旗にせよ、この作品は非常にヴィジュアル的に鮮烈な印象を残すシーンが多いのであるが、他にもヴィジュアルと言う面で言うと、ドラマ中盤の山場である栃尾城の攻城戦も、ドラマ独自の展開も入れつつかなり見応えのある作りになっており、この点も評価したい所である。

ここまで長々と設定について書いてきたが、配役についても結構力を入れており、映画の前日譚として作られた割には映画に引き継がれないこのドラマ独自の登場人物にも著名なキャストを当てていて、例えば前述の秋吉の他にも謙信の父の長尾為景役で三船敏郎が出演し、短い出演シーンながら存在感を放っている。

秋吉久美子の悪女振りもうまいが、個人的に好きなのは田中健演じる晴景で、「宮本武蔵」(1992年、テレビ東京)で又八を演じた時もそうだったが、こう言う徐々に崩れていく人間を演じさせると彼は抜群にうまい。

主演の上杉謙信(長尾景虎)役は、当時アイドル全盛期だった頃の大沢樹生であるが、やや演技に拙さは残るものの、原作の軍事的天才であるが人間的には不器用な景虎を好演していて個人的には好きである。

一つだけ、個人的好みからキャストに不満を言わせてもらえば、原作の前半部において強烈なキャラクタを放つ柿崎景家が全然登場しないのは残念であり、また(映画版と同じキャストで、かつその最期は映画版で描かれることになっているために仕方ないのであろうが)長尾家家老の昭田常陸介が、伊武雅刀と言う個性派俳優を当てているのにまったく見せ場なく終わってしまうのも少し惜しい気がする。

いづれにせよ、これまであった『天と地と』との映像化作品の中では良作の部類に入り、原作ファンとしてもおすすめしたい一作であり、是非DVD化して欲しい作品である。


・追記

本レビュー執筆後に作品を見直した際に、二、三気づいたことがあったので追記しておく。

本作は、台詞内でいくつか矛盾が生じている箇所がある。

例えば、景虎が為景から勘当された際、金津新兵衛が「栃尾の本庄殿(=本庄実乃)を頼ろうと思っています」と景虎に言う台詞があるが(ちなみに、実際には栃尾には行かず、宇佐美定行を頼った)、その後で晴景より景虎が栃尾城に入るよう命じられた際には、栃尾は長らく城主のいない荒れ城として描かれている(ただしこれは史実ではない)。

また、藤紫が景虎に自分の身の上を語るシーンで、京都に残してきた父母と弟の身を案じる台詞があるが、終盤において藤紫は、「私の母は私が十二の時に松永弾正様の兵に殺された」と発言している。

もっとも、こちらの台詞について、前者は景虎に媚びを売る際に発せられた台詞で、後者は景虎に悪態をつくシーンで発せられた台詞であるから、後者が真実であるが、最初は景虎の同情を引くために事実とは異なることを話したと言う解釈をすれば、それなりに整合性はつくが(後、一応元来は高位の公家の娘と言う設定の藤紫が、身分的にも下位でかつ母親を殺した相手である松永久秀に「様」をつけているのも、何だか違和感があるが)。

なお、もう一つ、景虎を救援に来た宇佐美定行の兵が鉄砲を放つシーンがあるが、このシーンで描かれている時期は(作中で明言はないが)1547年~1549年頃と推定され、鉄砲が実戦に使われた史料上の初見は1550年のことなので、若干の違和感があるが、日本への鉄砲の伝来時期については諸説あるので、このあたりも許容範囲と言えなくもない(笑)。


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