雑記:猫絵の殿様と東照宮

「北関東の石造物㉜」で紹介した長楽寺の宝塔、宝篋印塔がある文珠山のさらに後方には、長楽寺の開山堂があり、開山の栄朝と開基の世良田(得川)義季、およびその夫人の木像(いづれも鎌倉末期の作)が納められている。

開山堂の奥には世代墓地があり、さらにその一角には江戸期の岩松氏の墓所がある。

墓塔は笠付きの角柱塔と宝篋印塔で、また墓域の外には後年に造立された岩松守純・豊純の供養塔(下の写真二枚目)がある。

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戦国期には重臣の横瀬氏(由良氏)に実権を奪われていた岩松氏であったが、徳川家康が新田系得川氏の後裔を称したため、江戸時代には交代寄合となり、岩松氏は新田宗家と認められて山名氏と並ぶ高い家格を誇ったが、石高はわずか120石であった(交代寄合としては最低クラス)。

一説には、岩松守純が家康に岩松氏に伝わる新田氏の系図を披露した際、一晩だけ貸して欲しいと言う家康の提案を拒否したために、その怒りに触れて満足な領地を与えられなかったと言う。

幕末の慶応年間になると、当時の当主であった岩松俊純は「新田官軍」を組織して倒幕運動に加わり、維新後には新田姓に復し、南朝の忠臣である新田義貞の後裔であること、また井上馨の岳父(娘が井上馨の夫人)と言う縁故もあって男爵となって華族に列した。


長楽寺の南隣には、世良田東照宮が建ち、長楽寺を含む周辺は新田荘遺跡として国の指定史跡となり、歴史公園として整備されている。

この地に東照宮があるのは、もとより江戸幕府が徳川氏発祥の地としたためであるが(実際には不明な点が多く、松平氏の遠祖が徳川氏、あるいは世良田氏と言うのはおそらく仮託で事実ではないだろう)、世良田東照宮の拝殿・唐門・本殿は、寛永年間の大改修前の日光東照宮のそれを移築したもので、重要文化財に指定されている。

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本殿の前に立つ鉄燈籠は、元和年間に総社藩主秋元長朝が奉納したもので、明暦年間に世良田に移築された。

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東照宮の南側には、新田荘歴史資料館(旧・東毛歴史資料館)があり、新田氏や長楽寺関係の文物を展示している(開山堂の木像のレプリカや、長楽寺所蔵の天海の木像などがある)。

展示物の中には、江戸時代中期から後期の岩松氏の当主である義寄、徳純、道純、俊純が描いた猫絵がある。

養蚕が盛んだった上州では、鼠避けとして猫絵を飾る風習があり、中でも貴種である岩松氏当主の描いた猫絵は、特殊な力が宿っていて絶大な効果があるとされたために珍重されたと言う(収入が少なく財政が苦しかった岩松氏は、猫絵を売って生計の足しにしていた)。

この猫絵は、明治になって欧米にも輸出されたらしく、前述の岩松(新田)俊純が男爵であったことから、彼は「バロン・キャット(猫男爵)」と呼ばれた(下の写真は、群馬県立歴史博物館展示の岩松徳純の描いた猫絵)。

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資料館の前には、新田義貞の銅像が建っているが、その姿は鎌倉攻めの際の、有名な稲村ヶ崎に太刀を投じた逸話をモチーフにしたものである。

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