雑記:吉次が墓

栃木県鹿沼市にある東武鉄道樅山駅北方の踏切の手前に、「吉次が墓」と呼ばれている石塔がある。

この石塔は、かつて踏切で奇妙な現象が起こったために周囲を調べた所、発見されたとのことで、その後に現在の場所にまつられたと言う。

画像1

現在、この石塔の伝承を示す説明板などは全くなく、石塔の傍らにある木に立てかけてある古びた木標に、かろうじて「吉次が墓」と書いてあるのが読めるくらいである。

画像4

石塔は、一見すると宝塔のように思えるが、よく見ると宝塔の笠と思しい部分は五輪塔の火輪で、塔身も宝塔ではなく宝篋印塔のそれであろう。

なお、相輪と基礎より下の部分はおそらくこの地に安置された際に復元されたものと思われ、発見された時のパーツは笠と塔身であったのだろう。

笠(五輪塔の火輪)の方がより古いものと思われ、反りと高さから鎌倉時代中期頃まで遡れるかも知れない。

塔身の方はもう少し下る時期で、南北朝時代くらいであろうか。

してみると、この地にはかつてかなり古い五輪塔が存在していたことになる。

画像2

画像3

さて、この石塔は吉次の墓とされており、「吉次」とは奥州の金売り商人で、源義経を藤原秀衡の許へ誘ったことで知られる人物であるが、吉次が実在したかどうかも不明な半ば伝説上の人物であるから、この石塔も本来はおそらく吉次とは無関係であろう(そもそも、どうしてこの石塔が「吉次が墓」と呼ばれるようになったのかも不明である)。

ただ、この地は奥州に向かう道中に当たり、鹿沼市に隣接する壬生町の上稲葉にも、吉次の墓と伝承される五輪塔の残欠(写真で見る限り凝灰岩製で、鎌倉時代にまで遡るものかも知れない)があること、また鹿沼市には判官塚古墳と呼ばれる義経ゆかりの地とされる古墳があることからするに(もちろんどちらもあくまでも伝承であるが)、樅山の「吉次が墓」も『義経記』の普及によって奥州道中の各地に生まれた「義経伝承」の一つなのかも知れない。

なお、福島県白河市にも金売り吉次兄弟の墓と呼ばれる石塔がある。


#鹿沼 #樅山駅 #吉次が墓 #金売り吉次 #義経記 #五輪塔 #石塔 #鎌倉時代 #歴史 #日本史



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?