雑記:上越市内の上杉謙信関連史跡と石塔

「越後の龍」、ないしは「越後の虎」などの異名で知られる戦国武将の上杉謙信は、武田信玄と並んで戦国大名の中でも知名度・人気ともに高い人物であるが、謙信の出身地であり生涯にわたってその本拠となった越後府中、現在の新潟県上越市は、謙信ゆかりの寺院や史跡も多い。

上越市の観光の玄関口とも言うべき北陸新幹線上越妙高駅(ただし、同駅から上越市街地まではかなりの距離がある)前には、謙信の騎馬像が建っている。

謙信の銅像は、この上越妙高駅前以外にも新潟県内には数多く存在しており、地元での謙信の人気ぶりがうかがえる。

謙信は越後守護代であった府内長尾氏の出身で、関東管領山内上杉氏の名跡を継承するまでは長尾景虎と名乗っていたが、長尾氏の居城であり、謙信自身生涯の居城とした春日山城は、現在史跡として整備されており、城の登り口である駐車場の一角にも謙信の銅像がある。

こちらは上越妙高駅の謙信像よりもだいぶ「先輩」で、謙信を主人公とした1969年のNHK大河ドラマ「天と地と」(現在は海音寺潮五郎)が放送された時期に建てられたもので、同ドラマで主演を務めた石坂浩二をモデルにしたと言う。

謙信像は石垣の上に建ち、以前はこの上に登って間近で謙信像を見ることが出来たが、私が訪れた数年前はちょうど大雨の際の土砂崩れの影響で一時的に登れなくなっていた(2023年9月現在、登り口は閉鎖されたままである)。

下の写真三枚目は、かつて登り口が閉鎖されていなかった頃に、フィルムカメラで撮影した写真を電子化したものである。

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駐車場の奥には春日山神社があり、これは明治期に山形県米沢市の上杉神社(謙信を祭神とする)から分霊されたもので、小川晴明(童話作家小川未明の父)によって創建された。

境内には春日山神社記念館があり、謙信ゆかりとされる文物や謙信の肖像画などが展示されているが、普段あまり入場者がいないせいか、館内の展示は非常に雑然としていてやや見にくい。

春日山城下(上越市中門前)の林泉寺は、越後長尾家の菩提寺で、謙信の祖父・長尾能景が開いた寺院である。

同寺は上杉謙信が幼少時に修行をした寺としても知られる。

総門(下の写真一枚目)は春日山城の門を移築したものと伝承され、かつては茅葺きであったが、現在は銅板葺になっている。

山門(二枚目)の扁額は謙信の直筆であり、現在の扁額は複製であるが、現物は境内にある宝物館に展示されている。

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扁額の現物が展示されている宝物館は、他にも戦国時代末期から江戸時代初期の作と推定される謙信の肖像画など、謙信ゆかりの文物が展示されている(ただし展示されている肖像画は複製である)。

文化財ではないが、1991年の映画「天と地と」(角川春樹事務所製作)で使用され、撮影後に林泉寺に寄贈された刀八毘沙門天像も宝物館で展示されている。

林泉寺はその後の春日山城主や高田城主からの保護を受け、墓所内には長尾家だけではなく、堀家や榊原家などの大名の墓塔も多く残る。

このうち上杉謙信の墓と伝承される五輪塔は、墓所内で最も目を引く石造物であるが、二基の五輪塔のうち後方の大型塔は大正年間に造立された供養塔であり、前方のやや小ぶりな五輪塔が本来の謙信の墓塔と言う。

もっとも、伝承とは異なり、五輪塔は当初からの形を留めておらず、火輪と空風輪は後補であり、水輪と地輪に関しては謙信の時代よりもずっと古いもので南北朝時代の造立と推定される(林泉寺には元々謙信の供養塔があったと言うが、現在の林泉寺墓所内には時代的に近い石塔は特にない)。

また、謙信の墓所の脇の道を進んだ奥には、長尾能景(謙信の祖父で林泉寺の開基)と長尾為景(謙信の父)の墓と伝承される二基の五輪塔があるが、これも伝承と石塔の造立年代が合致しない。

二基とも乱積みの五輪塔であるが、このうち向かって左の為景の墓の水輪は、鎌倉時代時代後期から末期のものと思われ、墓所中では最古のものである。

春日山城周辺には、謙信の生母である虎御前(青岩院)の墓と伝承される鎌倉時代の完形の五輪塔(「中部地方の石造物⑤」参照)があることから、あるいは謙信・為景・能景の三基の五輪塔は、元々は別の場所にあり、後になって林泉寺に移されたものなのかも知れない。

なお、現在の能景・為景の五輪塔には近年新しく作られた火輪と空風輪が載せられており、何ともアンバランスな形であるが、復元される以前は下の写真のような姿であった(一枚目が最初に訪れた時の写真で、二枚目がその数年後に訪れたものであり、能景の五輪塔は火輪が異なっている)。

この他にも林泉寺の墓地内には、上杉景勝の後に春日山城主となった堀家の墓所や、江戸時代後期に高田藩主であった榊原家の墓所などがあるが、このうち堀家の墓所は後日別項にて紹介予定である。

林泉寺からさらに東に下った所には、春日山城史跡広場ががあり、発掘調査の成果に基づいて土塁や堀の一部が復元されている。

また傍らには出土物などを展示する「春日山城跡ものがたり館」がある。

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春日山駅を挟んで城跡と反対側にあるリージョンプラザ上越(同じ敷地内に上越市観光物産センターや上越科学館がある)の入口にも、謙信の騎馬像があったが、現在それは移動して「ものがたり館」の南方の上越市埋蔵文化財センター前にある(下の写真一枚目はリージョンプラザ上越にあった際に撮影したもので、二枚目が現在の銅像であるが、馬の首の向きや謙信の足の角度などが微妙に異なっており、移設時に修復したのであろうか)。

なお、埋蔵文化財センターでは謙信にちなむ展示(無料)を定期的に行っており、内部には謙信の甲冑のレプリカもある(下の写真三枚目、四枚目、五枚目で、四枚目の甲冑は米沢市の上杉神社稽照殿所蔵のもの、五枚目は米沢市宮坂考古館所蔵のものがモデル)。

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謙信の銅像は、他に新潟県長岡市栃尾にもある。

同地は謙信が元服後に兄・晴景の命によって赴いた栃尾城があり、謙信は十四歳から十九歳までこの地で過ごし、初陣を飾った場所でもある。

栃尾城下の秋葉公園には法体の謙信像(下の写真一枚目)、秋葉公園に隣接する栃尾美術館前には謙信像の騎馬像(下の写真二枚目)がある。

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現在は栃尾と同じく長岡市と合併した旧与板町は、謙信の重臣であった直江氏の居城があった場所であり、与板町の資料館前には直江兼続の像がある。

兼続は謙信の姉・仙洞院と謙信の従兄・長尾政景(府内長尾氏と同族の上田長尾氏当主)の子で、後に謙信の後継者となった上杉景勝の近臣で、上田長尾氏の家臣であった樋口氏の出身であったが、与板の直江氏を継承して景勝の重臣として手腕を振るった人物である。

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上越に戻って、同市柿崎区(旧柿崎町)は、米山薬師で知られる米山の裾野に広がる町で、かつては越後の豪族・柿崎氏が領していた。

柿崎氏は戦国時代には上杉謙信に仕えて功績があった柿崎景家の出身氏族であり、楞厳寺は景家が天室光育を招いて開いた菩提寺で、柿崎景家夫妻の肖像画も伝わっている。

境内には柿崎景家の墓と言われる五輪塔があり、現在は覆屋に納められていてややわかりにくいが、各パーツは合致しておらず乱積みである(かつては下の写真三枚目の写真のような状態であった)。

その中でも地輪は鎌倉時代にまで遡ると思われ、楞嚴寺が開かれるよりもずっと以前の石造物である。

なお、世代墓地には同寺の開山で上杉謙信の師でもある天室光育の墓と言う無縫塔もある(下の写真四枚目)。

府内長尾氏と同族の下田長尾氏は、現在の三条市下田の高城を居城とした一族で、謙信時代には柿崎景家や斎藤朝信らとともに奉行を務めた長尾藤景が当主であった。

この藤景は永禄四年以降に謙信と対立し、最後は謙信に粛清されたとされるが、この事件の実否については判然とせず、また下田長尾氏自体が系譜が不明は所が多い。

下田の長禅寺には長尾景久(下田長尾氏二代当主と言う)の肖像画や墓所が残るが、一族の石塔は宝篋印塔と五輪塔の乱積みで、時代的にも室町~戦国期よりも後年のものであろう。

なお、下の写真はかなり以前に撮影したものであり、その後石塔は水害で一度崩れてしまったらしく、現在写真で確認する限りでは当時と若干組み方が変わってしまっている(特に中央塔は、写真では五輪塔の水輪が塔身に代用されているが、現状の写真では宝篋印塔の塔身か基礎のような石塔に差し替わっている)。


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