雑記:上杉家の城下町(その二)

引き続き、米沢市内の上杉家ゆかりの史跡・寺院の紹介で、今回は上杉家臣団の菩提寺を中心に。

まず、西蓮寺の柿崎家墓所。

柿崎家は上杉謙信に仕えた柿崎景家が著名であるが、柿崎家は景勝の時代に一時断絶となり、景家の孫(柿崎晴家の子)の柿崎憲家が江戸時代初期に再興した。

墓所内には憲家の墓もある(下の写真二枚目)。

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西蓮寺の西隣の空き地には、かつて一花院と言う寺院があったが、後に廃絶して現在は千坂景親と那須与一の供養塔と言う大型の層塔が残るのみである。

千坂氏は元々は越後守護の上杉氏に仕えていた豪族で、景親は上杉謙信、景勝の二代に仕え、武将としてだけではなく外交にも優れた手腕を発揮した人物であり、その子孫は代々米沢藩の首席家老を務めた。

層塔は四メートルを超える巨大なもので、享保年間に建てられた景親と、千坂氏の祖と言われる那須与一を供養したものである。

層塔の二層目には左側に「千坂対馬守景親」、右側に「那須与一宗隆」と刻まれ、内部には五輪塔が納められている。

これもまた、米沢市内の寺院に多く見られる石殿(万年塔)の亜種と考えられ、この場合は層塔が厨子に当たるのであろう。

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景親以外の千坂家の歴代当主の墓は同じ米沢市内の日朝寺(二代目の千坂高信の時代に一花院から日朝寺に菩提寺が移った)にあり、こちらの当主の墓は皆万年塔である。

その中には、「忠臣蔵」に登場する米沢藩江戸家老の千坂兵部高房の墓もある(史実では高房は赤穂事件が起こる前に死去している)。

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米沢市の中心部からやや北に行った窪田町の千眼寺は、色部家の菩提寺であり、これも元来は色部氏の本拠があった新潟県村上市の平林にあったが色部氏とともに米沢に移った。

色部氏も揚北の豪族で、色部勝長は上杉謙信に初期から付き従った武将である。

境内には色部家歴代当主の墓所があるが、特に説明などはなく、銘文も判別出来ないものが多いため、どの石塔が誰の墓に当たるのかはわからないものの、勝長以降の当主の墓があると言う。

墓所内で最古と思われる五輪塔(下の写真三枚目)が色部勝長の墓であろうか(ただし造立年代は江戸時代初期と思われ、勝長の墓であったとしても米沢に移ってから造られた供養塔であろう)。

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