雑記:東京都内の史跡、その二(板橋・日野)

JR埼京線板橋駅を降りて、東口のロータリーの通りを渡った先に墓域がある。

ここは寿徳寺が管理している墓域であるが、板橋の刑場の後であり、幕末の慶応四年にここで新選組局長であった近藤勇が斬首されている。

現在この墓域には、明治後に建立された新選組隊士の合葬墓があり、正面には近藤勇と副長の土方歳三の名が、そして側面には京都や戊辰戦争で戦死した隊士の名が刻まれている。

この墓碑を建立する際に尽力したのが、新選組設立時のメンバーで二番隊組長でもあった永倉新八であり、永倉は大正年間まで存命し、没後に墓碑の傍らに永倉の墓も建てられた。

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東京都内の新選組ゆかりの地としては、近藤や土方の故郷でもある多摩地方が代表格であろうが、日野市の高幡不動の境内には土方歳三の銅像が建ち、境内の奥殿の宝物館には新選組ゆかりの品が展示されている。

また、同じ日野市内には土方家の菩提寺の石田寺があり、土方歳三の墓碑もそこに建立された。

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高幡不動尊の通称で知られる金剛寺は、中世には関東武士の信仰を集めた寺院で、室町時代中期に関東管領上杉氏と古河公方足利成氏が戦った享徳の乱の序盤にあった分倍河原の戦いでは日野市一帯となり、合戦に敗れた関東管領方の武将・上杉憲秋(憲顕とも)は高幡不動で自刃し、境内の上杉堂には憲秋の墓とされる自然石がまつられている。

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分倍河原の戦いに際して、足利成氏が布陣したのが京王線の分倍河原駅近くの高安寺(府中市)であるが、現在の建物はいづれも江戸時代末期以降に再建されたものである。

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享徳の乱以前の鎌倉時代末期にもこの地は戦場となった。

鎌倉攻めを行う新田義貞が、北条軍と激突したのが分倍河原であり、京王線分倍河原駅前のロータリーには、この故事にちなむ新田義貞の騎馬像が建っている。

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