雑記:那須あれこれ

平安時代後期から戦国時代にかけて那須地方に勢力を張った下野の豪族・那須氏ゆかりの史跡は、現在那須烏山市や大田原市内、那須町内に多く残る。

那須氏は藤原氏北家の流れを組み、藤原道長の孫・資家(須藤貞信)を祖とし、資家が那須に下向して土着したことで起こったと言う(なお、日本の須藤姓のルーツの大半はこの資家にあると言う)。

当初「那須の藤原氏」と言うことで須藤氏を称したが、後に那須資隆の代に那須氏と改めた(資隆以前の那須氏については不明な点が多いが、ここでは系譜資料に従って須藤貞信を始祖としておく)。

弓の名手として名高い那須与一宗隆(家督継承後は資隆)は、この資隆の子で二代当主である。

那須与一が場上で弓を引く、所謂「扇の的」のエピソードをモチーフにした銅像が、大田原市の道の駅「与一の里」の敷地内にある。

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道の駅のすぐ隣には那須神社(八幡宮)があり、ここは那須氏代々の尊崇が厚く、現在の社殿と楼門は江戸時代初期の造立である。

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同じく大田原市の玄性寺は那須氏の菩提寺で、境内には那須氏の墓所があり、中には那須与一の墓と言う宝篋印塔(下の写真二枚目)もあるが、いづれも江戸時代の造立であり、ずっと後代に建てられた供養塔である。

また境内には那須与一の木像がまつられている(下の写真三枚目)。

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玄性寺にほど近い永興寺は、那須氏の一族・福原氏の菩提寺であり、境内には福原氏の墓と見られる五輪塔がある。

時代はいづれも戦国時代末期のものである。

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大田原市の南方の那須烏山市は、戦国時代に統一那須氏(室町時代に那須氏は上那須氏と下那須氏に分裂し、戦国期に下那須氏が両家を統一した)の居城であり、城下の天性寺は那須宗家の菩提寺であった。

現在天性寺には、統一那須氏以降の当主である那須資房・政房・高資・資胤・資晴・資景の六代の当主の墓とされる宝篋印塔があり、那須六代の墓と通称されている(なお、寺名は高資の法号に由来する)。

ただし、これらの石塔はパーツ自体は室町時代から戦国時代の宝篋印塔であるが、江戸時代に現在の場所に移設され、その際に新たに組み直されたものであるため、乱積み状態で完形のものは一つもなく、またどの石塔が誰の墓塔に当たるのかも不明である。

ただ前述のように年代自体は合致するので、那須宗家当主の墓と言う伝承は妥当と考えて良いであろう。

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前述の福原氏を含む那須氏の有力支族と重臣各家に那須宗家を加えた豪族連合は、「那須七騎」と通称され(宗家の他に蘆野氏・伊王野氏・福原氏・千本氏・大関氏・大田原氏の六家で、このうち蘆野氏以下四氏が那須一族)、宗家と蘆野氏・福原氏は江戸期には交代寄合(万石以下で旗本身分であるが参勤交代をする領主)となって幕末まで存続した。

残る家のうち那須一族ではない大関氏と大田原氏は、ともに大名として幕末まで続いた。

大田原市の大雄寺は黒羽藩大関氏の菩提寺で、歴代当主の墓所が残る。

中には中世以前の当主の墓とされる石塔(下の写真二枚目)もあるが、大半は江戸時代の五輪塔で、歴代藩主のものは大型の五輪塔である(下の写真四枚目は藩祖・大関高増の墓)。

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大田原氏は大田原藩主となり、光真寺にはこちらも江戸時代の歴代藩主の宝篋印塔の墓塔が並ぶ。

また境内には、開基の大田原資清の像も建つ。

なお、那須一族のうち蘆野氏と伊王野氏の墓所は、過去に石造物として紹介しているので今回は割愛した。

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