南関東の石造物②:願成就寺五輪塔(伝・北条三介の墓)
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名称:願成就寺五輪塔
伝承など:伝・北条三介(北条長時・北条久時・北条守時)の墓
所在地:千葉県東金市松之郷 願成就寺
東金市の願成就寺には、他に類を見ない独特な形式の五輪塔が三基存在する。
願成就寺は、寺伝によれば上総守護の北条久時が弘安年間に、久我台城(現在の東金商業高校のあたりにあったとされる)の鬼門鎮護のために創建した寺院とされるが詳細は不明であり、五輪塔も明治の頃には土中に埋まっていたのを後の掘り起こして復元したものであるため、これまた伝承以上のことはわからない。
ただ、願成就寺と言う寺名は、北条時政の創建した伊豆の願成就院と共通し、北条氏とのゆかりをうかがわせるものであり、実際には北条長時(久時の祖父)が創建したとする研究もある。
また忍性が創建し、創建当初から極楽寺流北条氏(久時の曽祖父・北条重時の家系)との関わりが深かった極楽寺の二代長老である栄真は、この願成就寺から極楽寺に入ったと言う記録があり、さらに長時が創建した鎌倉の浄光明寺とのゆかりもあることから、当初から北条氏に関わりのある寺院であったと考えて良いであろう。
五輪塔は近年修復されて本堂前に安置されており、三基ともに大きさは異なるが、ほぼ同時期に造立されたものと思われる。
古くから上総守護で久我台城の城主であった北条長時・久時・守時(久時の子で鎌倉幕府最後の執権)の墓とされ、「北条三介の墓」と通称されている。
五輪塔は極めて装飾性に富み、関東では他に例のない特異な形式である。
天神山(群馬県)の凝灰岩製で、大型で装飾的な月輪や、異形の空風輪に特徴があり、特に空風輪は関東のみならず、全国に目を広げても類似するものがなく、一体どこからこの形式が持ち込まれたのかが全く不明である。
似た例を探すと、九州地方の五輪塔、特に大分県宇佐市安心院の最明寺の五輪塔と共通する部分があるが、もとより関連は不明である(強いて共通点を探せば、最明寺は北条時頼の所謂「廻国伝説」が残る寺院で、北条氏ゆかりの寺院と言う点があるがこれまた伝承の域を出ない)。
五輪塔の年代は、鎌倉時代後期と推定され、関東でも比較的古い時代の石塔である(鎌倉時代中期と見る説もあるが、そもそも鎌倉時代中期以前の五輪塔の事例が極端に少ないために、これについては俄には首肯出来ない)。
五輪塔の年代からすれば、実際には久時によって造立された北条重時・長時・義宗(久時の父)の供養塔と見るべきなのかも知れない。
いづれにせよ、全国でも珍しい形式を持つ貴重な石塔である。
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