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新科目「歴史総合」を読む 2-2-3. 国際協調体制の形成

■ヴェルサイユ体制と国際連盟

サブ・クエスチョン
第一次世界大戦は、国際秩序を、どのように変えたのだろうか?


 スペイン風邪が世界各地で猛威を振るう中、1919年1月にパリ講和会議が開かれ、同盟諸国との間に講和条約が結ばれた。これにより、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国は解体され、革命により崩壊したロシア帝国の領域内も含め、新興の独立国が誕生した。これにはロシア革命が西ヨーロッパに波及することを防ぐ意図もあった。
 結果的に複数の帝国が地図上から姿を消すこととなり、これまで帝国の支配下にあった東ヨーロッパ、中等、バルカン半島で国境線が変化した。これにともない、独立国家を持つにいたった民族もあったが、少数派となった民族も生み出された。
 
 また、翌年1920年には国際連盟が、ヴェルサイユ条約の規約に基づき発足する。
 第一次世界大戦前の勢力均衡論(バランス・オブ・パワー)に代わる、新しい安全保障システムを目指すものだ。すなわち、君主・政府による秘密外交から、国民による民主的な外交の統制へ、二国間同盟と協商を張り巡らせた安全保障から、集団安全保障への転換である。

 国際連盟には、設立を提案したアメリカや、ソヴィエト・ロシアやドイツも当初加盟できず、侵略に対する制裁も経済的な手段に限られていたため、順風満帆とは言えぬ船出となった。

資料 アメリカが不参加となったことに対する風刺画 


資料 ウィルソン「十四箇条の平和原則」

連邦議会の皆さん・・・

われわれの希望と目標は、和平の過程が開始されるときには、それが完全に開かれたものとなり、それから後、いかなる種類の秘密の合意も含まず許可しないものになることである。征服と強大化の日々は過去のものである。同様に、特定の政府の利益のために、そしておそらく思いがけない時に世界の平和を乱すために締結される秘密の盟約の日々もまた、過去のものである。この喜ばしい事実は、死滅し過ぎ去った時代に拘泥することのない新しい考えを持つ、あらゆる公人にとって今では明白であり、それは、世界の正義と平和に合致する目的を持つあらゆる国家が、今、あるいはいかなる時においても、その目指す目標を明言することを可能にしているのである。

われわれがこの戦争に入ったのは、権利の侵害が発生したためである。それは、われわれを深く傷つけた。そして侵害が是正され、その再発に対して世界の安全が最終的に確保されない限り、わが国民の生活が不可能になったのである。従って、この戦争でわれわれが求めるものは、われわれ自身にとって特別なものではない。それは、この世界を住みやすく安全なものにすることである。そして特に、わが国のように、自分の生活を営み、自分の制度を決定し、世界の諸国民から力と利己的な攻撃ではなく、正義と公正な扱いを保証されることを望むすべての平和を愛する国民にとって、世界を安全なものにすることである。この件に関しては、世界中のすべての人々が事実上の伴侶である。そしてわれわれ自身に関する限り、他者に対して正義を行われなければ、われわれに対して正義が行われることもない、ということが非常に明確に見えている。従って、世界平和のための計画は、われわれの計画である。そしてその計画、われわれが見るところ唯一の可能な計画は、以下の通りである。


 Ⅰ 開かれた形で到達した開かれた平和の盟約。その締結後は、いかなる種類の秘密の国際的合意もあってはならず、外交は常に率直に国民の目の届くところで進められるものとする。

Ⅱ 平時も戦時も同様だが、領海外の海洋上の航行の絶対的な自由。ただし、国際的盟約の執行のため の国際行動を理由として、海洋が全面的または部分的に閉鎖される場合は例外とする。

Ⅲ 和平に同意し、その維持に参加するすべての諸国間における、すべての経済障壁の可能な限りの除 去と貿易条件の平等性の確立。

Ⅳ 国家の軍備を、国内の安全を保障するに足る最低限の段階まで縮小することで、適切な保証を相互に交換。

Ⅴ 植民地に関するすべての請求の、自由で柔軟、かつ絶対的に公平な調整。その際には、主権に関するそうしたすべての問題の決着に当たっては、当事者である住民の利害が、法的権利の決定を待つ政府の正当な請求と同等の重みを持たされなければならない、という原則に基づくものとする。

Ⅵ すべてのロシア領土からの撤退と、ロシアに影響を及ぼすあらゆる問題の解決。それは、ロシアに 対して自らの政治的発展と国家政策を独自に決めるための、制約と障害のない機会を得させるために、世 界各国の最良かつ最も自由な協力を確保し、またロシアが自ら選んだ制度の下で、自由な諸国の社会に真 摯に迎えられることを保証するだろう。また歓迎にとどまらず、ロシアが必要とし希望するあらゆる援助 の提供も保証するだろう。今後何カ月かの間に、ロシアに対して姉妹諸国が支える待遇は、それら諸国の善意と、彼ら自身の利益と切り離してロシアが必要としているものへの理解と、彼らの知的で、しかも利 己主義を排した同情心の試金石となるだろう。

Ⅶ ベルギーが他の自由諸国と同様に享受している主権を制限しようとする試みがあってはならない。 ベルギーから撤退し、同国を復興させなければならない。このことについては、全世界が同意してくれる はずである。各国が相互の関係を管理するために自ら設定し決定した法律に対する信頼を回復する上で、 これほど貢献する措置はないだろう。この治癒的行為がなければ、国際法全体の構造と正当性は永久に損なわれる。

Ⅷ フランスの全領土が解放され、侵略された部分は回復されるべきである。また、1871 年にアルザ ス・ロレーヌ地方に関してプロシアがフランスに対して行った不法行為は、50 年近くも世界の平和を乱し てきたのである。全員の利益のためにもう一度平和が確保されるために、この不正行為は正されるべきで ある。

Ⅸ イタリア国境の再調整は、明確に認識できる民族の境界線に沿って行われるべきである。

X われわれは、オーストリア・ハンガリー国民の諸国間における地位が保護され確保されることを望 む。彼らには、自治的発展の最も自由な機会が与えられるべきである。

XI ルーマニア、セルビア、モンテネグロからの撤退が行われるべきである。占領された領土が回復さ れ、セルビアは海への自由かつ安全な交通路を与えられ、いくつかのバルカン諸国間の相互の関係が、忠 誠心と民族性という歴史的に確立された方針に沿って、友好的な協議により決定され、またいくつかのバ ルカン諸国の政治的、経済的な独立と領土保全に関する国際的な保証が結ばれるべきである。

XII 現在のオスマン帝国のトルコ人居住区域は確実な主権を保証されるべきだが、いまトルコ人の支配 下にある他の諸民族は、確実な生命の安全と自立的発展のための絶対的に邪魔されることのない機会を保 証されるべきである。そしてダーダネルス海峡は、国際的保証の下で、すべての諸国の船舶と通商に自由 な通路として恒久的に開かれるべきである。

XIII 独立したポーランド国家が樹立されるべきである。そこには議論の余地なくポーランド人である 人々の居住する領土が含まれ、彼らは海への自由で安全な交通路を保証され、政治的、経済的な独立と領 土保全が国際的盟約によって保証されるべきである。

XIV 大国にも小国にも等しく、政治的独立と領土保全の相互保証を与えることを目的とする具体的な盟 約の下に、諸国の全般的な連携が結成されなければならない。


以上に述べたような、間違いの根本的是正と正義の主張に関しては、われわれ自身も、帝国主義者に対 抗して団結するすべての政府と国民の親密な仲間であると自認している。われわれの利害をめぐって対立したり、目的をめぐって意見が割れたりすることがあってはならない。われわれは最後まで団結する。


われわれは、こうした協定と盟約のために戦い、それが達成されるまで戦いを続ける意志がある。ひと えにその理由は、正義が勝利する権利を望み、公正かつ安定した平和を欲することにある。そのような平 和は、戦争の主要な挑発要因を除去することによってのみ達成できるが、この計画は、そうした要因を除 去するものではない。われわれは、ドイツの偉大さを何も嫉妬してはいないし、この計画にはドイツの偉 大さを損なう要素は全くない。われわれは、ドイツの実績や、あるいは羨望に値する輝かしい経歴をドイ ツに与えた傑出した学問や平和的事業を、何もねたんではいるわけではない。われわれは、ドイツを傷つ けたり、ドイツの正当な影響や力を、いかなる形でも阻止したりすることを望んではいない。ドイツが正 義と法と公正な取引の盟約によって、われわれと世界平和を愛する諸国家と連携する意志があるなら、わ れわれは兵器によってにせよ敵対的協定によってにせよ、ドイツと戦うことは望まない。われわれが望む のは、ドイツが支配者の地位ではなく、今われわれが住む新しい世界の諸国民の間の平等な場所を受け入 れることである。

そしてまた、われわれは、ドイツの諸制度のいかなる変更ないしは修正をも提案するつもりはない。だ が、われわれが率直に言っておかなければならないことがある。われわれがドイツとの間に何らかの知的な関係を持つための前提として必要なことがある、ということである。それはドイツの代弁者がわれわれに向かって発言する時、それは誰のために発言しているのか、ドイツ議会の過半数のためなのか、あるいは軍事政党と帝国的支配を信条とする人々のためなのかを理解する必要がある、ということである。

これでわれわれは、これ以上の疑いも質問の余地もないほど、具体的な言葉で述べ終えた。私が概要を述べたこの計画全体には、明確な原則が貫いている。それは、すべての国民と民族に対する正義であり、そして強い弱いにかかわらず、互いに自由と安全の平等な条件の下に生きる権利である。この原則が土台となっていない限り、国際正義という建造物は、どの部分もしっかり立つことはできない。合衆国の国民は、これ以外の原則に従って行動することはできない。そして、この原則を守るために、自分の生命、栄誉、持っているものすべてを捧げる準備ができている。このことの道徳的な頂点、人類の自由のための最終的な絶頂である、その戦争が訪れたのである。合衆国国民は、自分の力、自分の最も崇高な目的、そして自分自身の品位と献身を試してみる準備ができている。

https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2386/

 一方、ドイツは全植民地を失い、多額の賠償金を背負うなど、その処分が苛烈に過ぎるという意見は、当時からあった。



資料「われわれが失うもの」というポスター(1919年、Louis Oppenheim (1879–1936)作



 しかし、未曾有の大戦を経験したイギリス、フランスにおける大衆の被害感情は強く、ルール占領(1923)のような危機的状況も生じた。


 しかし戦費を調達したアメリカ合衆国にとって、ドイツを早期に復興させることは、賠償金をイギリス、フランスに返還させ、イギリス、フランスがアメリカに戦債を償還させるためにも必要なことであった。
 そのためアメリカ合衆国は、ヨーロッパの安全保障に積極的に関与し、ヴェルサイユ体制を維持しようとした。
 すなわち1925年にヨーロッパの集団的安全保障をロカルノ条約で定めたのち、西欧諸国は次つぎとソ連を国家承認。1926年にはドイツが国際連盟に加盟すること認めた。1928年には、アメリカの国務長官とフランスの外相の提案により、パリ不戦条約が締結されている。

資料  不戦条約(1928年)(外務省『日本外交年表並主要文書』)
「第1条 締約国は国際紛争の解決のため戦争に訴ふることを非とし、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を抛棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す  
第2条 締約国は相互に起ることあるべき一切の紛争または紛議のその性質または起因のいかんを問はず平和的手段によるのほか之が処理または解決を求めざることを約す」


 しかし、アメリカがヨーロッパ諸国の安全保障に関与することに対しては、国内世論の反発が強かった。連邦議会がヴェルサイユ条約を否決したため、アメリカは国際連盟に加盟することができなかった。そのため、上記のような関与をのぞいては、アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に対して政治的な孤立主義に回帰した。


 こうした状況を前に、アメリカやロシアなど、あらたに台頭してきた国々にヨーロッパ諸国が対抗するためには、国境を越えた連帯が必要だという考え方も生み出されていった。
 次の文章は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族を父にもち、日本人を母にもつクデンホーヴェ=カレルギによる『パン・オイローパ(ヨーロッパ)』(1924年刊)という著作である。
 この運動はのち、フランスの首相ブリアンのヨーロッパ連合構想(1930年)に引き継がれ、第二次世界大戦後のヨーロッパ統合に継承されていくことになる。

サブ・サブ・クエスチョン
カレルギは、ヨーロッパをどのように変革していくべきであると主張しているだろうか?

資料 クデンホーヴェ=カレルギによる『パン・オイローパ(ヨーロッパ)』(1924年刊)
「時は切迫している。明日になると、おそらくヨーロッパ問題の解決には手遅れになる。したがって、今日それに着手する方がよい。
 自信をほぼ失ってしまったヨーロッパは、外からの支援を期待している。一つはロシアからの、今一つはアメリカからの支援である。
 しかしその期待はいずれもヨーロッパにとっては致命的となる危険をはらんでいる。……ロシアはヨーロッパの征服を欲し、アメリカはヨーロッパを買い取ろうとしているのだ。
 (中略)
 パン・ヨーロッパへの第一歩は、ヨーロッパのひとつもしくはいくつかの政府が呼びかけて、パン・ヨーロッパ会議を開催することである。(中略)
 パン・ヨーロッパへの第二歩は、大陸ヨーロッパのすべての民主主義国間で、強制的な仲裁条約と保障条約とを締結することである。(中略)
 パン・ヨーロッパへの第三歩は、パン・ヨーロッパ関税同盟を作り上げ、一体となった経済地域へとヨーロッパをまとめあげていくことである。(後略)」

(出典:木畑洋一・訳『世界史史料10』岩波書店、140-141頁)「クデンホーヴェ=カレルギが考えたパン・ヨーロッパは、本史料に引いた部分からも分るように、ロシアをはっきりと除外するものであったと同時に、イギリスも含まないものであった。また、このパン・ヨーロッパがアフリカ大陸や東南アジアにおけるヨーロッパ列強の植民地をも含むものであったことにも注意しておく必要があろう。」(木畑洋一)



■ワシントン体制と軍縮

サブ・クエスチョン
・第一次世界大戦後のアジアと太平洋では、どのような国際秩序が成立したのだろうか?


 第一次世界大戦中に日本が太平洋と中国のドイツ植民地を占領し、中国の袁世凱政権に二十一箇条要求をおこなったことは、西欧諸国の日本にたいする態度を硬化させた。

 上述のようにアメリカ合衆国のヨーロッパ諸国に対する関与は限定的だったのに対し、アジアと太平洋地域に対しては、自国でワシントン会議を開催し、積極的に国際的な秩序をつくろうとした(これをワシントン体制という)。
 どうしてアメリカ合衆国がアジアや太平洋に?と思うかもしれないが、アメリカはフィリピンやグアムを領有しており、日本の太平洋への進出への警戒が強まっていたのだ。


 アメリカは、四カ国条約によって日英同盟を廃棄させ、イギリスにアメリカと対等の海軍力を保有することを認めた。その上で日本にも米英につぐ海軍力保有を認めるとともに、イタリア、フランスを含む列強間の軍縮を進めることを海軍軍縮条約で定めた。
 列強間の協調関係による平和の回復をめざそうとしたのである。

 日本は国際連盟の常任理事国として、ドイツの太平洋植民地(南洋諸島)の一部を委任統治したものの、ヴェルサイユ条約によってドイツから継承していた山東さんとう省の権益は中国に返還した。

史料 国際連盟憲章第22条...これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては...資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのに最も適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し...後見の任務を遂行させる...。
(『世界史史料10』岩波書店)

 日本は国際協調路線にしたがい、幣原喜重郎しではらきじゅうろう外相は中国内政不干渉を掲げる幣原しではら外交(協調外交)を展開した。「ワシントン体制をきっかけに、日米政府に対立が生まれた」といわれることがある。同時期にアメリカで制定された移民法に対する反発の世論があったのはたしかだが、政府はあくまでアメリカ合衆国との協調に努めていたことに注意しよう。

 しかし1930年のロンドン海軍軍縮条約調印に際しては、統帥権干犯とうすいけんかんぱん問題(浜口・民政党内閣が、海軍に明確な賛同をとりつけることなく軍縮条約に調印したことに対し、野党・政友会が、大日本帝国憲法における天皇の統帥権を犯すのではないかと避難した問題)が生じるなど、国際協調に反発する動きも起きつつあった。

資料 幣原外交について
1924年(大正13年)6月11日、第一次加藤高明内閣が成立し、幣原は外交官領事官試験合格者出身の外交官として初めて外務大臣に就任しました。当初加藤内閣の外相には幣原ではなく駐仏大使の石井菊次郎が内定していましたが、石井が外相就任を辞退して幣原を推したこともあり、組閣間際になって幣原が外相に決まりました。
 駐米大使の任を終え待命の立場にあった幣原は、外相就任直後から自らの外交姿勢を積極的に打ち出しました。その基軸になったのが、自らが全権として深く関与した「ワシントン体制」の維持であり、「ワシントン会議の精神」の尊重でした。
 組閣当日、親任式を終えた幣原は談話を発表し、「今や権謀術数的の政略乃至侵略的政策の時代は全く去り、外交は正義平和の大道を履みて進むにあり」と述べたうえで、「日本は、巴里講和条約・華盛頓会議諸条約諸決議等に明示又は黙視せられたる崇高なる精神を遵守拡充して、帝国の使命を全ふすることに努力せんと欲するものなり」との決意を表明しました。
 幣原の外交姿勢は、7月1日に開会した第49臨時議会での外交方針演説でより明確なものとなりました。この演説は幣原自身が起草したものですが、その中で、世界平和の維持を根本方針として掲げ、外交政策の継続性により「国家ノ威信モ保タレル」と説くとともに、「(ワシントン諸条約の)規定スル政策ハ我々ノ採ラントスル政策ト全然一致スルモノテアリマスカラ政府ハ同条約ノ精神ニ依リテ終始セムトスル次第テアリマス」と弁じて、政府の方針を内外に示しました【展示史料3】。こうした「ワシントン会議の精神」を外交の基調とした幣原の外相就任は、アメリカをはじめとする欧米諸国や中国などからも好感をもって迎えられました。
もちろん、「ワシントン会議の精神」を基調とする外交方針を唱えたのは幣原が最初というわけではありません。例えば、幣原の前任者である清浦奎吾内閣の松井慶四郎外相もまた同年1月の議会演説で「華府会議ニ於テ協定セラレタル諸条約及決議ノ精神ヲ十分ニ尊重イタシ」と述べており、ワシントン体制の維持は同会議後の日本外交にとって既定の方針であったといえます。しかし、それでもやはり幣原は、外相在任期間を通じて、「ワシントン会議の精神」の体現者として、また、「ワシントン体制の擁護者」として、常にその役割を果たすべく努力したといえるでしょう。

 ちなみに、幣原の外交姿勢のほかに、あるいはそれ以上に、この時の議会演説で注目されたのは、対米問題に言及した部分でした。アメリカでは同年5月に排日移民法が成立し、演説当日はまさに同法の施行日にあたっていました。同法に関して幣原は、対米抗議を表明する一方、日米両国間の永遠の親交を確保するため努力するとの決意を述べましたが、国内世論は同法に対して強く反発しており、同日には在京米国大使館の星条旗が窃取される事件が発生しました。これに対して幣原はすぐさまアメリカ側に陳謝し、翌日には犯人が逮捕され、星条旗も無事に返還されました。こうした日本側の敏速な対応に対してアメリカ政府は満足の意を表し、「本事件に関し日本政府は何等負ふべき責任はない」と発表しました。その後も排日問題について幣原は、執拗に反論しても「徒ニ両国ニ於ケル国民的感情ヲ刺戟スル」だけであるとして慎重な態度をとり、日米協調に努めることになります。

(出典:外務省>外務本省「第一次外相時代 ワシントン体制の擁護者として」、https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shidehara/02_1.html


資料 石井・ランシング協定

資料 九カ国条約



資料 サイパン島の神社彩帆香取神社さいぱんかとりじんじゃ

1930年代に撮影。パブリック・コモンズ、https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Saipan_Shrine_in_1930s.JPG





このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊