■ヴェルサイユ体制と国際連盟
スペイン風邪が世界各地で猛威を振るう中、1919年1月にパリ講和会議が開かれ、同盟諸国との間に講和条約が結ばれた。これにより、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国は解体され、革命により崩壊したロシア帝国の領域内も含め、新興の独立国が誕生した。これにはロシア革命が西ヨーロッパに波及することを防ぐ意図もあった。
結果的に複数の帝国が地図上から姿を消すこととなり、これまで帝国の支配下にあった東ヨーロッパ、中等、バルカン半島で国境線が変化した。これにともない、独立国家を持つにいたった民族もあったが、少数派となった民族も生み出された。
また、翌年1920年には国際連盟が、ヴェルサイユ条約の規約に基づき発足する。
第一次世界大戦前の勢力均衡論(バランス・オブ・パワー)に代わる、新しい安全保障システムを目指すものだ。すなわち、君主・政府による秘密外交から、国民による民主的な外交の統制へ、二国間同盟と協商を張り巡らせた安全保障から、集団安全保障への転換である。
国際連盟には、設立を提案したアメリカや、ソヴィエト・ロシアやドイツも当初加盟できず、侵略に対する制裁も経済的な手段に限られていたため、順風満帆とは言えぬ船出となった。
資料 アメリカが不参加となったことに対する風刺画
一方、ドイツは全植民地を失い、多額の賠償金を背負うなど、その処分が苛烈に過ぎるという意見は、当時からあった。
資料「われわれが失うもの」というポスター(1919年、Louis Oppenheim (1879–1936)作)
しかし、未曾有の大戦を経験したイギリス、フランスにおける大衆の被害感情は強く、ルール占領(1923)のような危機的状況も生じた。
しかし戦費を調達したアメリカ合衆国にとって、ドイツを早期に復興させることは、賠償金をイギリス、フランスに返還させ、イギリス、フランスがアメリカに戦債を償還させるためにも必要なことであった。
そのためアメリカ合衆国は、ヨーロッパの安全保障に積極的に関与し、ヴェルサイユ体制を維持しようとした。
すなわち1925年にヨーロッパの集団的安全保障をロカルノ条約で定めたのち、西欧諸国は次つぎとソ連を国家承認。1926年にはドイツが国際連盟に加盟すること認めた。1928年には、アメリカの国務長官とフランスの外相の提案により、パリ不戦条約が締結されている。
しかし、アメリカがヨーロッパ諸国の安全保障に関与することに対しては、国内世論の反発が強かった。連邦議会がヴェルサイユ条約を否決したため、アメリカは国際連盟に加盟することができなかった。そのため、上記のような関与をのぞいては、アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国に対して政治的な孤立主義に回帰した。
こうした状況を前に、アメリカやロシアなど、あらたに台頭してきた国々にヨーロッパ諸国が対抗するためには、国境を越えた連帯が必要だという考え方も生み出されていった。
次の文章は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族を父にもち、日本人を母にもつクデンホーヴェ=カレルギによる『パン・オイローパ(ヨーロッパ)』(1924年刊)という著作である。
この運動はのち、フランスの首相ブリアンのヨーロッパ連合構想(1930年)に引き継がれ、第二次世界大戦後のヨーロッパ統合に継承されていくことになる。
■ワシントン体制と軍縮
第一次世界大戦中に日本が太平洋と中国のドイツ植民地を占領し、中国の袁世凱政権に二十一箇条要求をおこなったことは、西欧諸国の日本にたいする態度を硬化させた。
上述のようにアメリカ合衆国のヨーロッパ諸国に対する関与は限定的だったのに対し、アジアと太平洋地域に対しては、自国でワシントン会議を開催し、積極的に国際的な秩序をつくろうとした(これをワシントン体制という)。
どうしてアメリカ合衆国がアジアや太平洋に?と思うかもしれないが、アメリカはフィリピンやグアムを領有しており、日本の太平洋への進出への警戒が強まっていたのだ。
アメリカは、四カ国条約によって日英同盟を廃棄させ、イギリスにアメリカと対等の海軍力を保有することを認めた。その上で日本にも米英につぐ海軍力保有を認めるとともに、イタリア、フランスを含む列強間の軍縮を進めることを海軍軍縮条約で定めた。
列強間の協調関係による平和の回復をめざそうとしたのである。
日本は国際連盟の常任理事国として、ドイツの太平洋植民地(南洋諸島)の一部を委任統治したものの、ヴェルサイユ条約によってドイツから継承していた山東省の権益は中国に返還した。
日本は国際協調路線にしたがい、幣原喜重郎外相は中国内政不干渉を掲げる幣原外交(協調外交)を展開した。「ワシントン体制をきっかけに、日米政府に対立が生まれた」といわれることがある。同時期にアメリカで制定された移民法に対する反発の世論があったのはたしかだが、政府はあくまでアメリカ合衆国との協調に努めていたことに注意しよう。
しかし1930年のロンドン海軍軍縮条約調印に際しては、統帥権干犯問題(浜口・民政党内閣が、海軍に明確な賛同をとりつけることなく軍縮条約に調印したことに対し、野党・政友会が、大日本帝国憲法における天皇の統帥権を犯すのではないかと避難した問題)が生じるなど、国際協調に反発する動きも起きつつあった。
資料 石井・ランシング協定
資料 九カ国条約
資料 サイパン島の神社(彩帆香取神社)