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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第21話 その2(1870年~1920年)

今回も1870年~1920年の日本を、世界の歴史との関係を意識しながら見ていきます。以下の4期に分けてお送りしています。
その1 1870~1880年
その2 1880~1895年(今回)
その3 1895~1910年
その4 1910~1920年

この時期になってもまだ憲法はできていないんですよね。

―そう。
 政府も、政府に敵対するグループも、「憲法は必要だ」という点では一致していた。
 でも「どんな憲法にするべきか」をめぐっては、いろんな意見があったんだよ。

たとえば?

―政府の有力者(注:伊藤博文(下図))としては、欧米のさまざまな例を参考にした結果、まずは政府の仕組み(注:官僚機構)をつくってしまって、その後で議会をつくったほうが「国内はまとまる」と考えていた。
 それに、教育をしっかりコントロールすることも大事だと考えた。

どういうことですか?

―「あまり自由にしすぎると、かえってまとまらなくなる」と考えたんだ。

 小学校には道徳の授業が導入され(注:修身)、国による教科書のチェック(注:検定制度)も導入された。まだ小学校(注:尋常(じんじょう)小学校)は義務教育ではなかったけど、学校教育のしくみも整備されていった(注:学校令)。


教育を受けられるところは公立だけだったんですか?

―民間の教育機関も相次いで設立されているよ。
 特に、キリスト教の精神に基づく学校(注:ミッションスクール)が相次いで設立されて、自由な学問の発達に貢献しているよ。
 明治大学(注意:明治法律学校)や中央大学(注:イギリス法律学校)のもとができたのも、この時代のことだ。

学問的にはどんな成果があったんですか?

―この時期にはイギリスやアメリカの影響を受けた「文系」の学問が発達しつつある。
 ヨーロッパ流の「野蛮な状態から文明に向かってレベルを上げていくのが人類の歴史だ」という観点から、日本の歴史を描くテキスト(注:田口卯吉(たぐちうきち)の『日本開化小史』国会図書館コレクション(Kindle))も登場した。また、歴史研究を科学的にすすめようとする歴史研究グループ(注:史学会)も結成されたよ。


これだけ新しい情報が増えると、「もっと情報がほしい」という声もあがりそうですね。

―そうだよね。
 江戸時代からの「出版文化」の積み上げもあったからね。

 新聞だけではなく、いろんなジャンルの雑誌の刊行が相次いだ。
 こうした「紙のメディア」は政治や経済の議論する場だけでなく、エンタメの舞台にもなった。
 はじめは政治的な主張を物語にした政治小説(注:矢野竜渓)が人気を博し、しだいにヨーロッパの影響を受けた芸術的な小説が日本語でも書けるんじゃないかという人々があらわれた。「小説は人生をあるがままに写すべき」と考えた小説家(注:坪内逍遥(つぼうちしょうよう))は、イギリスの文学を多数翻訳して日本文学をアップデートしようと尽力した。同じような改革を詩の世界でやろうとした人たちもいる(注:外山正一(とやままさかず)、矢田部良吉井上哲次郎)。


日本語でラップをやるにはどうするか」っていう感じでしょうか。

―そうそう。
 本当にラップを日本語でやるためには、単に洋楽を「マネ」するだけではなくて、「ひと工夫」が必要だよね。
 当時の芸術の世界も、はじめは「単にヨーロッパの作品をマネしているだけ」っていうだけだったんだけど、それだけじゃ「かっこわるい」でしょ。
 いろんな人が「日本らしいやり方」を模索する中で、さまざまな個性が生まれていくことになるんだ。
 例えば日本画の世界でも、西洋のテクニックを取り入れつつ、長い伝統を持つ日本の美を守っていこうとするグループが活動を開始している(注:東京美術学校(東京芸大美術学部のもと)、のち日本美術院が独立)。一方、西洋風のアーティストたちも、「欧米化に反発する風潮を受けつつも活動を発展させていっているよ(注:工部美術学校明治美術会)。


ところで景気はどんな感じだったんですか?


―好景気が続いていてね、政府が近代化のためにいろんなことをしなきゃならないので、とにかくたくさんお札を刷ったこともあって、世の中のお金の量がどんどん増えていき、物価が上がり続ける現象が起きていた(インフレ)。

 そこで、この時期に政府(注:大蔵卿(おおくらきょう)の松方正義(まつかたまさよし))は、出回りすぎたお札の量を減らしていく改革に着手した。

どうしてですか?

―世の中に出回ったお札の量が多すぎると、お札1枚の価値が下がり、物価がどんどん上がってしまう。
 これはビジネスをやる人にとっても国にとっても、痛手になっちゃう。

刷るお札の量をコントロールすればいいんじゃないですか?

―そう。このときにようやく、国が主導して「お札を刷ることができる唯一の銀行」(注:日本銀行)を設置することができたんだ。
 こうして、政府は日本銀行にお金を借りる形で、この「政府とは別の組織」からお札を発行してもらうということができるようになったんだ。別の組織に刷ってもらうことで、政府による刷りすぎを防ごうとしたわけだ。


 ただ、刷ったお札に「信用」を持たせるだけの十分な金(きん)は準備できず、銀によって信用を裏付ける制度となった(注:銀本位制)。

 でも政府が使うお金を減らしたおかげで、しだいに物価は下がっていくようになり(注:松方デフレ)、米の価格も下がったことでわずかな土地を持つ農民の暮らしは苦しくなっていった。

 「このままでは生活できない」ということで、土地を手放す人も現れ、地主名義の土地を耕す貧しい農民(注:小作人)になるか、都会の工場で生活する人(注:労働者)が増えていくことになった。これを「農民層の分解」というよ。

産業革命がすすんでいったときのイギリスに似ていますね。

―その通り。
 だから、このときの政府の対応によって、日本は「資本主義社会」になる準備が整ったんだ、という言い方をすることもある。

 資本主義社会というのは、誰もがビジネスをして「もうけ」を追求するチャンスのある社会だ。

でも、お金がない人にはそんなことはできないんじゃないですか?

―いや、お金が手元になければ他人からお金を借りて、それを元手にすればいいわけ。
 でも、誰にでもできることじゃないよね。いろんな要素が必要だ。
 ビジネスは「早い者勝ち」の面も大きいから、ほとんどの人は誰かのもとで「自分の時間や能力を売って働く」生活をする人になっていくことになる。

 そういうわけでこの時期の不況によって「働き手」となりうる農民の数が増え、少数の地主や商工業者のもとに資金が集まっていくようになったことは、これから日本が「資本主義社会」になっていくきっかけをつくったといえるわけだ。


産業がさかんになっていったってことですか?

―政府(注:松方正義 大蔵大臣)が世の中に出回っているお金の量を減らそうとしたので、一時的に経済は不況になった。
 しかし、信用力のあるお金の制度が整えられていくにつれ、経済は調子を取り戻し、鉄道や糸づくり(注:紡績)の分野で多くの株式会社が設立されていった。

 鉄道は、軍事的に国にとって大切な交通機関なので、国が主導して計画し(注:鉄道敷設法)線路を敷いていくことになる(注:この時期には東海道線(新橋~神戸))。それと競うように民間も会社を設立している(注:この時期の終わりまでに上野~青森。日本鉄道会社)。


鉄道って全部が全部、国によって敷かれた路線じゃなかったんですね。

―鉄道敷設には莫大な資金がかかるからね。
 一方、海のルートでも業界の再編がすすみ、政府の保護を受けた巨大船会社(注:三菱汽船会社+共同運輸会社=日本郵船会社や、大阪商船会社)が海外ルートも急速に整備していった。

どうして海外へ?

―日本の主力輸出品である綿花の材料は、輸入に頼るしかない。
 アジアの一大産地であるインドからの輸入が増えると、コストを下げるために、自国の船会社によるルートが必要とされたんだよ。
 しかし、日本とインドをむすぶルートは、もともとイギリス、イタリア、オーストラリアの船会社連合が支配し、新規参入の壁は高かった。
 そこに手を差し伸べたのは、インド人の起業家(注:タタ)。激しい競争を勝ち抜いて、日本とインド(注:ムンバイ)の海運ルートが確立したんだ。


TATA商会の人々日本郵船ウェブサイトより。出典「富を創り、富を生かす−インド・タタ財閥の発展」(サイマル出版会))


植民地だったインドでも、インド人による産業はさかんだったんですね。

―植民地支配を「受けた」面ばかりクローズアップされるけど、それぞれの環境の下で「なんとかしよう」とがんばっていたんだ(注:アジア間交易)。

 この時期には、アメリカに滅ぼされる寸前のハワイ王国の国王(注:カラカウア)が、「日本政府がはじめてお招きする海外元首」として、日本で歓迎を受けている(注:これを報じた新聞)。彼は、移民を受け入れてハワイ王国を立て直すため、欧米諸国との関係を築こうと「世界一周の旅」に出ていたんだ。



 もちろん、「海のルート」が安全に保たれていたのは、イギリスが「7つの海」を支配するほどの支配力をもっていたことも大きいけどね。


こうした基盤が整備されて、国内の産業は伸びていったんでしょうか。

―そうだね。大きな会社が中心に、産業がぐんと伸びていくことになる。
 もともと政府の所有している鉱山や工場が、政府とコネのある大商人グループ(注:政商)に安く払い下げるようになり、豊富な資金力をバックに鉱物を掘ったり商品をつくったりする「巨大産業グループ」(注:財閥)へと発展を遂げることとなる。

どんな商品ですか?

―蒸気機関を動力にした布織り機(注:ミュール紡績機)をイギリスから輸入した会社(注:大阪紡績会社)が、夜に日本初の電灯を導入して昼夜フル稼働方式で大成功をおさめた。

 これ以降、関西地方では、手動(注:手織りやガラ紡)ではなく機械による布の生産がどんどん盛んになっていったよ(注:大阪紡績会社鐘淵(かねがふち)紡績(カネボウですね)、摂津(せっつ)紡績)。こうして綿の糸は輸出の主力品になっていったんだ。しかし、より繊細な絹の糸では、機械だけでなく手作り(注:座繰(ざぐり)製糸)も生き残った。

農村はどういう状況なんですか?

―工業がさかんいなったといっても、まだほとんどの人は農業にかかわっていた。
 でも都市が発展するにしたがって、より多くのお米が必要になると、農村でも新しい肥料(注:大豆粕(だいずかす))をお金で買ったり、品種改良がこころみられたりして、しだいに生産量は伸びていったよ。

* * *

―さて、「自分たちの意見を政治に反映させようとする運動」(注:自由民権運動)は、不況の影響を受けつつも、依然として続いていた。
 2つの政治的なグループが主導し、フランス流の「とことん自由な社会をめざす」グループ(注:板垣退助の自由党⇒「自由党盟約」)と、イギリス型の政治をめざすグループ(注:大隈重信の立憲改進党)がたがいにしのぎを削っていた。どちらも「日本がしっかりと独立」し、「ヨーロッパと肩を並べる国を目指す」点では政府と一致していたんだけどね。
 

 この動きに対し政府は運動の弱体化をねらって、フランス流のグループの指導者(注:板垣退助)をヨーロッパ旅行に行かせる作戦に出た。これには政府とも関係の深い巨大ビジネスグループ(注:三井)のサポートもあったんだよ。


えっ、当時のフランスは?

―王様のいない共和政(注:第三共和政)という政治体制になっていたけど、ドイツとの戦争(注:普仏戦争)に負けた後でもあり、政治はたいへん混乱していた。
 植民地を拡大しようと当時ベトナムへの侵略を強めていたんだけど、軍事費の増大に対して反対する声も高まっていたんだ。

 これを見た先ほどの指導者は、「憧れのフランス」の混乱ぶりにかなりがっかりしたようだ。

 一方、国内では東日本を中心に大規模な暴動事件(注:福島事件)が多発してしまう。
 とくに秩父では、当時ヨーロッパを襲っていた不況(注:大不況)による絹糸の大暴落の影響も受け、お金に困った農民たちが立ち上がっている(注:秩父事件)。

どうなってしまうんですか? 

―早いところ「日本がしっかりと独立」し「ヨーロッパと肩を並べる国を目指す」ためには、内側でぐちゃぐちゃ争っている場合ではないよね。

 そんな中、お隣の国朝鮮では大きな混乱が起こる。
 第一に、王様の妃(注:閔妃(びんひ))一族を中心に「日本のサポートのもとで、欧米流の「あたらしい国」をつくろう」という改革がすすめられていたところ、王様の父(注:大院君)が「そんなことは伝統に反する」とクーデタを起こした。首都にあった日本の外交官事務所は燃やされ、日本人たちも殺された(注:壬午軍乱(じんごぐんらん))。これを武力で解決したのは中国だ。
 日本は朝鮮との条約で、守備のための兵をそのまま置くことを認めさせたけど、王様の妃(注:閔妃)一族はその後は中国側に立場を変えることになった。

 第二に、「日本のサポートのもとで、欧米流の「あたらしい国」をつくろう」というグループが、王様に対してクーデタを起こす事件が勃発した(注:甲申事変)。

 当時の朝鮮は、まだ形式的には中国の「家来」だったわけなので、これには中国もだまっていない。
 政府は中国と話し合って、このクーデタを「見放した」。


そんなことがあったんですね。

―彼らを後押ししていた思想家(注:福沢諭吉)は、このとき「朝鮮や中国にはもう期待できない。朝鮮や中国を見捨てても、日本だけでも独立を守るためには「アジア」から抜けて「ヨーロッパ入り」を目指し、近代化をさらにすすめるべきだと主張したんだ(注:脱亜論)。

 でも、お隣の国でそんな事件があったからには、「見放せない」「助けたい」という活動家(注:大井憲太郎)もいて、「みんなでいっしょに武器を持って朝鮮に行こう!」という計画も起きた(注:未遂で検挙。大阪事件)。

 要するに、朝鮮を中国から切り離し、日本が主導して「近代的な国」につくり変えて「日本チーム」に加えることは、「日本がしっかりと独立」し「ヨーロッパと肩を並べる国を目指す」ために必要なことだと考えられていたわけだ。
 その点では、政府側も反政府側も大差はない。


じゃあ政府側も反政府側は、何をめぐって争っているんですか?

―「あたらしい国」における主導権をめぐって争っているんだ。

 「国の取扱説明書」である憲法や、「国のきまりをつくる」議会ができたからといって、現在主導権をにぎっている少数の有力者に「都合のいい」制度がつくられてしまったら、そこから排除される人たちにとっては「復活のチャンス」はほぼなくなるでしょ。
 制度っていうのは、一回つくられてしまうと壊していくのは難しいからね。

 で、政府の方針に反対するグループ(注:民権派)の人たち(注:後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、星亨(ほしとおる))は、「議会ができたら、みんなで力を合わせて過半数をとろう! 一部の藩の出身者だけで政治・経済をまわそうとするのには反対だ!」という運動(注:大同団結運動)を起こしたわけ。
 さらに政府が「不平等条約改正に失敗している」ということをネタに、「土地税を減らせ!」(⇒これを入れれば、農民層の理解も得られるよね)「自由に発言させろ!」という3つのスローガンを掲げた運動も連動した(注:三大事件建白運動)。


条約ってまだ改正できていないんですか。

―かつて江戸幕府が結んだ条約の中に取り決めのあった、「外国人なら日本の法律をスルーできる」という制度と、「安い値段で日本に商品を販売できる」という制度が、日本の発展にとって大きな足かせとなっていたんだ。


 そこで、当時の外務担当者(注:外務卿の井上馨(いのうえかおる))が、不平等条約を改正するにあたり、欧米諸国に対して日本の国内でビジネス、旅行、生活することを認め(注:内地雑居)、さらに裁判所に外国人の判事を採用し、法律を欧米風に変える代わりに、条約の内容を緩和するという甘甘な取り決めにゴーサインをだしたことにある。
 
 彼は外国人のごきげんをとるために、レンガづくりの立派なダンスホールを外国人(注:コンドル)につくらせ、ここで外国人と日本人を混ぜたダンスパーティーもひらいている(注:鹿鳴館外交)。
 しかし、おりしも、日本人やインド人の乗組員を見捨てた外国人の船長に「甘い判決」が出たことに批判が集まっていたこともあり(注:ノルマントン号事件)、そのやり方には批判も大きく、外務担当者は辞任。そして、先ほどの運動に発展したというわけだ。

運動に対する対応は?

―これに対し政府は「東京の外に出て行け」と、活動家450人あまりを追放してしまう(注:保安条例)。後任の外務大臣(注:大隈重信)も国別に交渉していく作戦に転換するけど、なかなかうまくいかない。

こんな状況では、政府としては、さっさと憲法と議会をつくってしまいたいでしょうね。

―批判の矛先を交わすためにも、それが必要だ。
 そのために、政府の中枢にいた人物(注:伊藤博文)は一連の混乱に先立ってヨーロッパにわたり、ドイツ、オーストリア、イギリスの学者らから「ヨーロッパ諸国の憲法や政治制度はどうなっているのか」をじきじきに学んだ。


自分で学びに行ったってところがすごいですね。

―そうだね。

 視察の結果、ドイツ帝国を構成する国であるプロイセンの憲法がふさわしいということになった。
 はじめからドイツの制度にしようとしていたわけではなくて、幅広く知識を世界に求め、比較検討されたんだよ。

たとえばイギリスでは、女王は君臨するのみで、統治するのは議会に責任を負う内閣だ(注:議院内閣制)。


―ちなみに当時のドイツには、のちに体験をもとに小説を書くこととなる医学者(注:森鴎外)もわたっている。留学生仲間(注:北里柴三郎)とともに、当時最先端の細菌研究者(注:コッホ)のもとにも訪れているよ。

 さて、本格的に政治改革がはじまる。
 議会は上院と下院の二院制で、上院には「上流階級」(注:華族)が「5段階のランク」に振り分けられて任命されることとなった。
 この階級には従来の大名や公家だけでなく、「国づくりに貢献した」と認められた人がメンバー入り。当時の政府の中枢部の人のほとんどが対象になった。


高い階級を与えられただけで「満足」する人もいそうですね。

―だよね。反対派を取り込み、「一致団結」させるための作戦でもある。

 また、議会をつくるよりも先に、天皇を中心に実際に政治を運営する仕組みを次々と整えていった(注:内閣制度、国務大臣、内閣総理大臣)。
 従来のゴチャゴチャした役職をなくし、天皇に関する職務は政治から切り離した。これ以降、天皇家に関する業務は内大臣や宮内省が担当しすることとなり、天皇家の財産(注:皇室財産)も保護された。
 政治の責任の所在をハッキリさせようとしたわけだ。


内閣ができたのに、議会や憲法はまだできていないんですか?

―うん。議会や憲法の制定に先行して、まずは国の組織づくりを優先したんだ。
 しかし、内閣は総理大臣以下、10名は薩摩藩と長州藩の出身者で占められ、「これじゃあ不公平だ」という声も当然あがる。


 で、ようやく次は議会づくりというわけだ。

 国の議会をつくる前に、混乱を防ぐために地方の有力者を政府の味方につける戦略がとられた(注:市制・町村制府県制・郡制)。
 ドイツの学者(注:モッセ)の意見を取り入れた、中央政府の力が強い支配方法だ。
 元・武士の反乱も収束し、ようやくしっかりと政府が地方をガッチリ支配できるようになったわけだね。

 そして、国の議会(注:帝国議会)の方式も、ドイツ人の学者たち(注:ロエスレル、モッセ)のアドバイスを受けつつ確定されていき、最後に天皇や長老クラスの政治家(注:元老。「建国の父」レベルのすごい方々)のあつまる会議(注:枢密院(すうみついん))で話し合われていく。
 議長となったのは、先ほどのドイツに直接学びに行った政治家(注:伊藤博文)。
 この会議での修正を受けたのち、発表されたのが大日本帝国憲法だ。


天皇の力がとても強いんですよね。

―カンタンにいうと、天皇を中心にさまざまな機関が「房(ふさ)」のように垂れ下がっている状態をイメージするといい。

Photo by Samuel Zeller on Unsplash

 「房」のトップには「すごい」存在である天皇がいる。


どう「すごい」んですか?

―たとえば「天皇は神聖不可侵」とある。
 これは、イギリスで古くから「王は悪をなさず」という原則(注:君主無答責の原則)があったように、ヨーロッパの君主の規定にならったものだ。
 
 また、議会のスタートと解散、法律にゴーサインを出す「裁可」、陸海軍の「統帥」(とうすい)、緊急事態におけるルールの制定(注:緊急勅令)などが定められていた。

 でも、「強い」といってもその「限界」がハッキリ定められていることがポイントだ。
 「この憲法の条規により」統治しなきゃいけないと、規定されていることからもわかる(第四条:天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ)。

 実際に、天皇が自分から積極的に権力をふるって政治を束ねようとしたことはなく、実質的には長老クラスのすごい政治家(注:元老)に実権があった。
 この人たちの意向は「鶴のひとこえ」のようなもので、息のかかった人たちなら、組織を超えてうごかすことのできる「調整力」を持っていた。


逆にいえば、そういう人たちがいなくなっちゃったら、大変ということですね?

―そう。それぞれの房が「暴走」する恐れもある。
 これが明治憲法体制の限界だ。


議会はどういうポジションだったんですかね?

―議会と内閣との関係については、憲法に規定されていない
 だから、内閣が「失敗」したことについて、議会・国民に対して責任を負うべきかどうかは、不透明なままだ。

 例えばイギリスでは、内閣は「議会」に対して責任を負うっていうことがしっかり慣習になっていたのに比べると、当時の日本の憲法は「議会の権利が弱い」憲法といえるね。

 でも、憲法には「年1回」少なくとも議会をひらかなきゃいけないと規定されていたから、議会がNOといえば増税だってできないということになる。
 そう考えると、無制限に君主の力が強いっていうわけではないよね。

 問題があるとすれば、さっき言ったように天皇を中心にさまざまな機関が「(ふさ)」のように垂れ下がっている状態であるがゆえに、「誰に責任があるのか不透明」「組織を超えた連携がとりにくい」というところにあったといえる。

 それでも、アジア諸国の中ではもっとも古い時代に制定された憲法であり、これでようやく日本は「欧米流の一人前の国」になるきっかけをつかむことになったわけだ。
 政府反対派の評価も「意外に良い内容じゃん」と、上々だったんだよ。


とにかくここまで、欧米の文化をがむしゃらに取り入れてきましたもんね。

―この時代の終わりごろになると、「欧米のものを形式的に何でもかんでもとりいれる」のではなく、ちゃんと「一人ひとりの自由や平等」を実質的に守ろうという立場(注:平民的欧化主義)も生まれている。
 また、「日本らしさ」の価値を守るべきだとする主張(注:国粋保存主義)もみられるようになっている(注:三宅雪嶺(みやけせつれい))。


不平等な条約はどうなったんですか?

―外務大臣(注:青木周蔵)はイギリスと交渉にあたり、あとちょっとで解決しそうなところまでいった。
 ところがその矢先、ロシアの皇太子(注:のちのロマノフ2世)が日本の滋賀県で警官に襲われて負傷するという大事件が起きたんだ。


どうして日本にきていたんですか?

―じつはこの前後はヨーロッパの国際関係が大きくうごいた年にあたる。

 イスラーム教を広めた預言者(注:ムハンマド)の代理人(注:カリフ)を皇帝とする帝国(注:オスマン帝国)の国力はいよいよ衰え、地中海とインド洋を結ぶビジネスに進出しようとイギリスやフランスだけでなく、後から成長したドイツも進出を強めていた(注:東方問題)。

 そんな中、当時の日本はこの帝国と友好関係をむすぼうと、使節を送っていた。
 その「お礼」に、皇帝(注:アブデュルハミト2世)は日本の天皇宛てに使節を送り、日本側の大歓迎を受けた。
 しかし、その帰路に軍艦が和歌山県の沖合で沈没(注:エルトゥールル号遭難事件)。



 沿岸の住民が熱心に遭難した人たちを助けたことが、いまにもつながる両国の友好関係につながっているんだ。

 この帝国は、当時ヨーロッパ諸国の進出を受け、大変な状況だったわけだけどね。
 

当時の領土の取り合いということになると、国と国との関係も複雑化しそうですね。

―これまで国際関係のバランスをとっていたドイツ帝国の宰相(注:ビスマルク)が国王(注:ヴィルヘルム2世)と、方針の違いをめぐって対立。
 ドイツとロシアの関係が悪化し、ロシアはフランスと同盟関係(注:露仏同盟)をむすんだので、ドイツはロシアとフランスの「はさみうち」を受ける格好になってしまった。
 さらにドイツは、当時加速していたアフリカの植民地化に遅れて乗り出そうとし、そのために海軍力を急ピッチでたかめようとしていった。そのため、イギリスとの関係が一気に悪化することになったんだ。

 一方、ロシアも国を強くするために海への進出を目指したのだけど、ユーラシア大陸の西側はイギリスにふさがれてしまっているし、インド洋にも何度も進出をこころみたけどなかなか下がれない。

 そこで、フランスのサポートを受ける形で、ユーラシアの東端につながる大陸横断鉄道(注:シベリア鉄道)の敷設をスタートさせていたんだ。
 その起工式を、日本海に面する港町(注:ウラジヴォストーク)ということで出席するために向かう途中に、日本に立ち寄っていたわけだ。


皇太子は助かったんですか?

―さいわい一命は取り留めたし、問題が長期化することもなかった。 
 条約改正のほうも、次の外務大臣(注:陸奥宗光(むつむねみつ))の努力によって、イギリスとの間で、ついに外国人が日本で犯罪をおかしたときにも日本の法が適用されるということになった(注:日英通商航海条約)。関税に関してはまだ不平等な点がのこっていたけど、大きな一歩だ。


どうしてイギリスは応じたんでしょうか?

―ロシアが大陸横断鉄道を建設していることを警戒していたんだよ。
 イギリスとしては直接軍事力を使うよりも、日本を成長させて、代わりにロシアをブロックしてもらったほうが楽でしょ。

 日本としても、朝鮮にロシアが勢力を拡大させるのは、安全保障上の大問題だ。
 そこで、いつ戦争になってもいいように、軍事にまわす予算をしだいに増やしていくことにしたんだ。


で、どうなったんですか?

―朝鮮で大規模な農民反乱が起きた(注:甲午農民戦争)。
 朝鮮の政府は中国にSOSをおくったけど、それに対抗して日本も兵隊を送った。
 日本と中国は「いっしょに朝鮮の政治改革をしよう」と提案するも決裂。
 イギリスの期待も受けた日本は強気となり、中国との戦争をはじめることとなった(注:日清戦争)。


国内では批判的な意見はなかったんですか?

―戦争がはじまると、ムードは一変。
 これまで政府に批判的だった政党も「国を挙げて」予算に賛成したよ(注:第2次伊藤博文内閣に自由党の板垣退助が入閣、さらに第2次松方正義内閣に元・立憲改進党進歩党)の大隈重信が入閣(松隈(しょうわい)内閣))。

 対する中国(清)には議会もなければ憲法もない
 「みんなで一致団結しよう」という雰囲気もない

 圧倒的に日本が優勢のうちに、戦争は1年足らずで幕を閉じたんだ。

結果は?

―山口県の料亭で条約(注:下関条約)がむすばれた。


 これにより朝鮮は中国の「コントロール」から外れ、独立した国となった。
 さらに日本は台湾や、北京の近くに半島(注:遼東半島)などを獲得。
 このとき獲得した莫大な賠償金を元手に、日本の本格的な産業革命がスタートすることとなる。
 これまで中国は「眠っているライオン」だといわれ、実力十分と考えられていただけあって、その後のヨーロッパ諸国は次々に中国への進出を進めることとなるよ。

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