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11.2.3 ヴィクトリア期のイギリス 世界史の教科書を最初から最後まで

「ヨーロッパ大戦争」でもあったクリミア戦争以降、なかなか産業を発達できないロシアを尻目に、イギリスの産業社会はさらに発展。人々の生活は豊かになり、政治も安定した。


“ヴィクトリア朝” の発展


この「ヴィクトリア時代」のイギリスを覗いてみよう。

1837年にジョージ3世に代わって即位したヴィクトリア女王(在位1837〜1901年)の下、

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1851年にロンドンで万国博覧会が開催された。

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会場は「クリスタル・パレス」。鉄骨の骨組みにガラスをはめ込んだ ”近未来的“ の建物に、人々は確かにそこにある「未来」を見たはずだ。

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武力だけでなく、圧倒的な技術と資本にもとづく経済力が国の命運を決める時代のはじまりだ。



政治の舞台では、1860年代から自由党と保守党のツートップの政党が、総選挙の “勝った負けた” によって交替し、政権を担当した。
19世紀半ばに、トーリ党は保守党、ホイッグ党は自由党と呼ばれるようになっていた。

保守党の大物はディズレーリ(1804〜81年)、

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自由党の大物はグラッドストン(1809〜98年)。

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どちらも首相をなんども経験した重鎮だ。

1867年には第2回選挙法改正で、保守党によって都市の労働者に念願の参政権が与えられた。都市の労働者を支持基盤に取り込もうとした保守党の作戦だ。


それに対して、1884年には第3回選挙法改正が実行され、自由党により農業労働者などが選挙権を獲得した。
人口に占める割合が高くなっていった労働者を、各党とももはや無視できなくなっていたわけだ。

また、1871年には労働組合法により、組合の法的地位が認められた。労働運動を合法化することで、“ガス抜き” を図ったのだ。労働条件にクレームがあるなら、正式な形で交渉しなさいね、というわけだ。


そして、注目すべきは1870年に制定された教育法
これにより読み書き計算を習う初等教育が公的に整備されるようになっていった。
イギリス国民としての自覚や一体性こそが、国力を高めるために必要と考えられたのだ。



しかし、こうした繁栄が永遠に続くわけではなかった。
1873年からはじまった不況が長期化したのだ(不況自体は、以前から繰り返し起こっていた)。
「植民地は不要じゃないか?」という議論もあったけれど、この大不況」(グレート=ディプレッション)以降は、国民の多くが海外の植民地帝国をいっそう重視するようになっていく。


1887年に行われたヴィクトリア女王の在位50年記念セレモニーや、1897年の60周年セレモニーには、イギリス内外のさまざまな人々が勢揃いし、「イギリス帝国の結束」が誇らかに宣伝されたよ。

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「植民地帝国は必要なんだ」と主張したジョゼフ=チェンバレン(1836〜1914年)は、グラッドストン内閣と対立して1886年に自由党を分裂させ、1895年に植民地大臣として保守党内閣に参加。
「自由党」の勢いはその後弱まっていくこととなる。



アイルランドの悲劇

なお、クロムウェルによる事実上の植民地化と、1801年の正式な併合によって、イングランド王を中心とする「ユナイテッド=キングダム」(連合王国)に組み込まれていたアイルランドでは、ローマ=カトリック教徒であるケルト系住民(アイルランド人)が、イングランドやスコットランドに住む地主の支配に苦しんでいた。


アイルランドの土地はアイルランド人のものとはならず、不在地主によってレンタルされ、小作料(レンタル代)を支払わなければいけないものだったんだ。


その後、1840年代半ばにジャガイモにかかる病気の大流行

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をきっかけに大飢饉(グレート=ファミン(ジャガイモ飢饉))が勃発。

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多数の犠牲者を出し、わずか数年で100万人以上の人々が移民としてアメリカ合衆国に移住した。

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現在のアメリカにいるアイルランド系の住民のほとんどは、この時の移民がルーツ。
のちのケネディ大統領(在任1961〜63年)もその一人だ。



アイルランド人の食糧を確保しようとしても必要な穀物は輸出に回されてしまうという構造的な問題や、飢饉の勃発に際して何ら対策をとってくれないという政策的な問題が表面化し、イギリス支配に対する不満も高揚。



1880年代以降には、自由党のグラッドストンがアイルランド自治法案を提出したものの、ジョゼフ=チェンバレン(1836〜1914年)の反対によって議会を通過することができず、アイルランド問題は未解決のまま20世紀を迎えることとなる。



ヴィクトリア朝の繁栄のダークサイドには、アイルランドはじめ世界各地の人々に対する有形無形の “暴力” があったのだ。



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現在のガーナにあったアシャンティ王国に対する暴力

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現在の南アフリカ共和国にいたオランダ系住民に対する暴力(強制収容所)

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現在のスーダンに建てられた政権(マフディー国家)に対する暴力

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アヘン戦争(1840〜42年)で中国の清の軍隊と戦うアイルランド人の連隊(支配されていたアイルランド人も、海外ではイギリス人として暴力をふるった。19世紀の世界を覆った暴力は、“支配する側” と “支配される側” という単純な“白黒”図式ではなく、幾重にもかさなりあったものだったのだ)


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