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9.1.2 イギリス革命 世界史の教科書を最初から最後まで

17世紀中頃の「17世紀の危機」を代表する揉め事が、「イギリス革命」だ。

この革命を通して、新興の資本主義的な商工業者(有産市民;ブルジョワジー)の発言力が高まり、海外進出によって経済停滞をなんとかしていこうという動きがますます加速していくことになるよ。


ことの発端は、テューダー朝(1485〜1603年)最後の女王エリザベス1世が、後継ぎを残さず亡くなったこと。

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親戚関係からスコットランド王国ステュアート家からジェームズ1世(在位1603〜25年)が王に即位することになった。

スコットランド王でありながら、同時にイングランド王でもある。
同君連合」の方式を取ったのだ。

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しかし、スコットランド王国といえば、中世以来イングランド王国の宿敵。




しかもジェームズ1世はイングランドの伝統を無視し、「王の権力は神から授かった物だから、人民の意見にはしばられない」という王権神授説をとなえたことに、広大な土地を持つ、貴族や 地方の地主貴族のジェントリ(郷紳)が反発。


「勝手に税をとったり、少数の商人だけをひいきにするのはおかしい」と批判が強まった。

また、ジェームズ1世はカルヴァン派(英語ではピューリタンと呼ばれた)にも批判的で、弾圧を加えたため、一部の人々は北アメリカへと移住。
彼らはのちの「アメリカ合衆国」の“父祖たち”だということになっていく。


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その後も混乱はおさまらない。
1628年、国王の所業は「イングランドの歴史的な慣例にそむいている!」と訴える権利の請願という文書が、大地主の貴族やジェントリの参加する議会で可決されたのだ。

史料 権利の請願(1628年)
第5項 前述の諸法律その他以上の目的のために定められた陛下の王国の正しい諸法律の趣旨に反し、最近多数の陛下の臣民が、なんら理由も示されずに監禁された。…
第10項 したがって、国家に召集された僧俗の貴族および庶民は、謹んで至尊なる陛下につぎのことを嘆願したてまつる。すなわち、今後何人も、国会制定法による一般的同意なしには、いかなる贈与、貸し付け、上納金、税金、その他同種の負担をなし、またはそれに応じるよう強制されないこと。…自由人は、前記(第5項)のような方法によって拘禁または抑留されないこと。…というのは、…陛下の臣民が、国の法律および特権に反して、危害を加えられたり、死に至らしめられたりしないためである。

歴史学研究会編『世界史史料5』


これに対し1629年に議会を解散したのが、ジェームズ1世の息子チャールズ1世(在位1625〜49年)だ。

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彼もやはり、イングランド王とスコットランドの王を兼ねていた。

しかし、故郷のスコットランドにおいて30年代末に反乱がおきると、「鎮圧するのに新たな税が必要だ」と議会を招集。

「解散しておいて、都合がいいときに招集するとは何事だ」って感じだよね。


1640年に招集されたこの議会は、すぐに解散され(期議会)、同年秋に財政上の必要からもう一度招集された。

再度招集された議会のほうは1653年までひらきっぱなしの状況となるので、こちらを期議会というよ。

この長期議会での対立が、1642年にそのまま議会派と国王派の間の武力衝突にもつれ込むことに。

内戦には、スコットランド王国とアイルランドの勢力も絡んで複雑化。

この中で、議会派の主導権をにぎったのが、カルヴァン派の勢力(ピューリタン清教徒)だ。

新型兵器を整え、よくコントロールされた鉄騎隊(議会派の軍隊「ニューモデル軍」の中核となった)という軍をひきいたクロムウェル(1599〜1658年)は、議会派を勝利に導くことに成功。

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彼は「ピューリタン」でくくられる勢力の中でも「国教会から分離するべきだ」と主張する分離派(アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズもこの一派)ほど過激ではない、独立派という一派に属していた。

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議会派が王党派に勝利した1645年の決戦(ネイズビーの戦い


その後、クロムウェルの軍事勢力は、議会の中の長老派を追放。
長老派は「国王は残すべきだ」「英国国教会からは分離すべきではない」と主張し、スコットランド王国とも友好関係を築こうとしたグループだった。

さらに1649年には国王チャールズ1世を公開処刑するに至った。

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どんどん過激になっていったクロムウェルは「共和政」(コモンウェルス)を宣言、イングランド初の「王様のいない体制」が実現したのだ。



クロムウェル自身は大地主を持つ地主貴族であるジェントリ(郷紳)出身だったから、あくまで地主としての利益を追求する。



軍の担い手でもあった、「民主主義」や「自由に信仰する権利」を主張する「水平派」(レヴェラーズ)というグループは容赦なく弾圧。
混乱の中、「「神の国」がついに地上に出現するのだ!」(千年王国説)というムードが社会全体に広まる中、真正水平派(ディガーズ)のように、貧しい人々も平等な社会をつくろうというグループも現れるけど、クロムウェルはこれも容赦なく押さえ込んだ。

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さらに王党派のねじろになっているとして、アイルランドやスコットランドを征服する。

スコットランドは、今後イングランド人の影響を強く受けるようになり、アイルランドでは、土地が没収され、事実上イングランド人の“植民地”として支配を受けるようになっていった。

史料 アイルランド侵攻を正当化するクロムウェルの宣言
 
われわれは、無法の反徒たちの力を破壊すべくやってきた。反徒どもは、イングランドの権威をないがしろにし、人間社会の敵として生きている。世間がすでに経験したことであるが、反徒どもの主義は、彼らに従わない人間すべてを滅ぼし屈従させようとするものである。われわれは神の御加護のもと、イングランドの輝きと栄光を推進し維持すべくこの国〔アイルランド〕に来たが、この国でそうする権利をわれわれは疑いもなくもっているのである。

歴史学研究会編『世界史史料5』


クロムウェルはまた貿易を推進する政策を打ち出し、物流ルートを拡大していたネーデルラント連合共和国に対抗する航海法(こうかいほう)を制定した。

この法では、イングランドやその植民地への輸入品は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の船ではなくイングランドの船で輸送することとされ、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)に打撃を与える。

そのため1652〜1654年には、イングランド=ネーデルラント連邦共和国(オランダ)戦争(英蘭戦争)が勃発。
1660年代にも70年代にも繰り返され、結果てきにイングランド優勢のうちに終結した。


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その過程でイングランドは、しだいにヨーロッパとアメリカ・アフリカ・アジアを結ぶ物流ルートを押さえていくことととなるのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊