11.1.1 ウィーン会議 世界史の教科書を最初から最後まで
1814年から1815年にかけ、フランス革命とナポレオン戦争によってゴチャゴチャになったヨーロッパ諸国の関係や国境線をいったん確認し、革命的な運動をおさえるための会議が、オーストリア帝国(注)の都ウィーンのシェーンブルン宮殿で開かれた。
(注)すでにナポレオンによって1806年に、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は退位し、神聖ローマ帝国は消滅していた。もともと「オーストリア大公」が神聖ローマ皇帝に即位するのが慣例化していたわけだけど、神聖ローマ帝国が消滅する少し前(1804年)に「オーストリア皇帝」を名乗るようになっていたため、この時点では「オーストリア大公国」ではなく「オーストリア帝国」であることに注意しよう。
ここにはオスマン帝国をのぞく全ヨーロッパの君主があつまったけれど、議長となったオーストリア帝国の外相(のち宰相)メッテルニヒ(1773〜1859年)が主導権をにぎっていた。
彼は大国どうしが合意することで、国際的な秩序を再建するべきだと主張。
フランス王国の得たもの
まずは、革命の震源地となったフランス王国のタレーラン外相(1754〜1838年)も、「フランス革命の前の状態に、国も制度も戻しましょう」という考え(正統主義)にもとづいて、①フランス王国、②スペイン王国、③南イタリアとシチリア島(あわせて両シチリア王国)にそれぞれのブルボン王家の復活がみとめられた。
ポーランドにナポレオンが建てた「ワルシャワ大公国」はとりつぶされ、ロシア皇帝がポーランド国王を兼任する「ポーランド王国」が建てられた。
プロイセン王国の得たもの
ナポレオン退治で活躍したプロイセン王国は発言力を高め、ライン川流域エリアやザクセンの北部などをゲットし、東西に領土を広げた。
しかし、東プロイセンと西プロイセンの間を移動するには、別の国を通る必要があり、これが悩ましい問題として残された。
オーストリア帝国の得たもの
やはりナポレオン退治で活躍したオーストリア帝国は、北イタリアの領土を獲得し、念願の地中海への進出を果たす。
これにより、ミラノ含むロンバルディア地方と、
ヴェネツィアは
オーストリアの支配下に置かれることとなった。
イギリスの得たもの
海外において勢力を獲得したのはイギリスだ。
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が、ナポレオンによってフランス帝国に組み込まれると、それに乗じてネーデルラント連邦共和国の植民地だった現在のスリランカ(セイロン島)や、]
南アフリカのケープ植民地を占領。
この領有が認められた。
セイロンには19世紀にイギリスによってお茶のプランテーションが導入されていく。「リプトン」が有名だよね。
もともとケープ植民地に移住していたオランダ系の人々(アフリカーナー(ボーア人))は、イギリス人によってしだいに奥地へと追いやられていくことになるよ。
また、スイスは「永世中立国」とされた。
ドイツ地方はどうなった?
神聖ローマ帝国が消滅していたドイツ地方には、北部の「プロイセン王国」、イギリス王家を輩出した「ハノーヴァー王国」、南部の「オーストリア帝国」、「バイエルン王国」、それに中世以来の自治権を持つ商業都市(ハンブルク、ブレーメン、リューベック、フランクフルト)などが乱立。
神聖ローマ帝国亡き後、ドイツ地方をガッチリまとめておかないと、東からロシア帝国が拡大してくる恐れがあったから、ドイツ人としても、イギリスやフランスとしても、なんらかの政治的まとまりを作っておきたいところだった。
そこでウィーン会議で話し合った結果、オーストリアとプロイセン以下35の君主国が、ハンブルクなど中世以来の自治権を持つ4つの自由市と「ドイツ連邦」を組織することになった。
つくられた秩序と、それに対する反発
こうして再定義された各国の勢力範囲は、ヨーロッパの “秩序” を守るため、絶対のものとされた。
二度とフランス革命やナポレオンのような暴虐が現れないようにするための、“平和システム” を構築しようとしたわけだ。
だから、このシステムをぶっこわそうとする特定の民族による民族運動(民族主義)は、今ふうにいえば“テロ”として取り締まられることになった。
また、自由な競争にもとづく実力本位の社会づくりを目指す考え方・運動(自由主義)も、王家や貴族といった身分への挑戦と受け止められて、やはり危険な運動とされ取締りの対象となったんだ。
このような国際秩序のことを、ウィーンで定められたのでウィーン体制というよ。
大国同士のバランスをとる「列強体制」
何か問題が起きたときには、大国が話し合ってバランスをとることで平和を保とうというしくみを政治学では「列強体制」という。
19世紀半ばにいったんぐらついたほかは、20世紀の初めまで、列強体制によってヨーロッパの平和が保たれていくことになるよ。
ある意味、現代の政治も大国主導で行なわれている
海のイギリス、陸のロシア
このようにしてヨーロッパは、海の大国「イギリス」が地中海から北海までをぐるりと囲み、東に陸の大国「ロシア帝国」が君臨。
この二大強国が「列強体制」の2大柱だった。
イギリスは圧倒的な海軍力と経済的な繁栄を武器に、大きな発言力を持った。ウィーン会議当時の国王はジョージ3世(在位1760年〜1820年)。イギリスがドシンとかまえていたおかげで、国際的には比較的平和な時期が続くんだ。これを古代ローマ帝国の「パクス=ロマーナ」にならって、「パクス=ブリタニカ」というよ。
一方、巨大な陸軍が自慢のロシアは、1815年に皇帝アレクサンドル1世が神聖同盟という新秩序を提唱。
キリスト教の「信仰」にもとづき平和な秩序をつくっていこうとするもので、イギリスやローマ教皇をのぞき、ヨーロッパのほとんどの君主を参加させている。
ロシアとイギリスは“絶交”することなく、プロイセンとオーストリアとともに四国同盟を締結。のち1818年にフランスを加えた五国同盟に発展する。
対抗しつつも正面衝突を避けることで、ヨーロッパの平和の要としての役割を果たして行ったんだね。
細かく見ていくと、西にはスペイン、フランスのブルボン朝の大国が並び立ち、中央部には新興のプロイセンやオーストリア、サルデーニャ王国といった国が並び立っている。
プロイセン、オーストリア、イタリアの争いの中から、19世紀後半になると、中央部に「ドイツ」と「イタリア」という国が誕生することになるよ。
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