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11.1.2 ウィーン体制の動揺と七月革命 世界史の教科書を最初から最後まで

ヨーロッパで自由な思想や運動をリセットするためのウィーン体制が成立すると、それに対抗する動きが早速巻き起こった。

ドイツでは、学生組合(ブルシェンシャフト)による改革の要求運動が起きた。その活動のシンボルとなったのは、1517年にルターがはじめた宗教改革で重要な役割を果たしたザクセンのヴァルトブルク城。


ここでルターが聖書を「ドイツ語」に訳したんだったよね。
ナポレオンの支配に置かれていた時代、ドイツ地方の人々はフランス人の「自由と平等」に基づく「工業化」と「国づくり」に圧倒されていた。「一刻もはやくドイツという国をつくり、ドイツ人としてまとまらなければ!」という危機感が広がったものの、ウィーン会議で決められたのは「ドイツ連邦」という、「神聖ローマ帝国」を蒸し返したようなバラバラの枠組み。
「こんなんじゃまとまるはずがない!」と、学生たちが中心となって反発したんだ。

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スペインでは、ナポレオンの兄の支配下で制定された憲法(カディス憲法)を、復活したブルボン家の王様が廃止したことに反対する革命が勃発した(スペイン立憲革命)。

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ブルボン家の王(フェルナンド7世)



イタリアでは、秘密結社カルボナリの蜂起が起きた。


また、1825年にはロシアでニコライ1世(在位1825〜55年)が即位式典をおこなったさい、貴族の青年将校が改革を求める蜂起をおこしている(デカブリスト(十二月党員)の乱)。

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反乱に先立ち、スペイン1812年憲法(カディス憲法)やアメリカ合衆国憲法をモデルとし、立憲君主制や連邦制にもとづく憲法もニキータ・ムラヴィヨフによって起草された。
反乱に加わった将校たちには、ナポレオン戦争中にフランスの啓蒙思想に接した者たちも多かった。
ナポレオン戦争に勝利したものの、敵国の政治制度や政治思想を目の当たりにして、「ロシアはなんて遅れているんだ」という意識を抱かざるを得なかったのだ。

「親衛隊の青年将校でデカブリストでもあったニキータ・ムラヴィヨフ(1796〜1843)もまた、[…]ドイツ・フランス・アメリカ・英国の各種文献を参照して連邦国家ロシアの憲法草案を書き上げた。その草案には、彼が受けた啓蒙教育も部分的に影響していた。しかし、ムラヴィヨフが国をこえた物の見方に親しみをいだくきっかけは、1814年にロシアの占領軍の一員としてパリに滞在し、その地で大学の講義を聴講し、自由主義哲学者にして理論家のバンジャマン・コンスタンと信仰を結んだことにもあった。」

(出典:リンダ・コリー「憲法を起草することと世界史を書くこと」、羽田正編『グローバル・ヒストリーの可能性』山川出版社、2017年、304-331頁。Linda Colley, ‘Writing Constitutions and Writing World History’ , James Belich, John Darwin, Margret Frenz, Chris Wickham (eds.), The Prospect of Global History, Oxford University Press, 2016, pp. 160-177.の邦訳。  



こうした運動はすぐに鎮圧されてしまうけれど、同時期にはギリシアの独立ラテンアメリカでの独立ラッシュなど、ヨーロッパの周縁部やアメリカ大陸では自由を求める運動が成功したケースもあった。



オーストリアのメッテルニヒはこうした動きにひとつひとつ目を光らせた。

「ウィーン体制の秩序を乱す運動はすぐにでも鎮圧する」としたけれど、アメリカ大陸にあるスペインやポルトガルの植民地で起きた独立運動については、イギリスのカニング外相(外相任1807〜09、22〜27年)が独立をサポート。

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イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリア、フランスの五国同盟のメンバーであったイギリスは、オーストリア主導のウィーン体制に対し、距離をとるようになっていったのだ。




フランスでも1830年にかけて段階的にウィーン体制に対する批判が高まっていった。
1814年に即位したルイ18世を継いだシャルル10世(在位1824〜1830年)は、きびしすぎる制限選挙をとって、革命前のように貴族・聖職者を “ひいき” する政治をおこなった。


これに対する不満をそらすため、1830年にオスマン帝国の支配していたアルジェリアへの遠征を実行した(現在のフランスでアルジェリア人移民がダントツで多いのは、これがルーツだ)のだけれど、

選挙では反政府派が圧勝。


シャルル10世は選挙結果を認めず、議会を開く前に解散するという荒技に出た。
これに対し1830年7月にパリで革命が勃発。

シャルル10世は亡命し、代わってブルボン家の親戚のオルレアン家が国王に認められた。
これを七月革命という。


自由主義者として評判のあったルイ=フィリップ(在位1830〜48年)が、自由な競争にもとづく経済を実現させようとする銀行家や産業資本家のバックアップで即位したのだ。

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これ以降、1848年までの王政を、七月革命によって成立したので七月王政というよ。



七月革命の影響は大きかった。
今まで我慢していた諸民族の鬱憤(うっぷん)が爆発したんだね。

1830年にはオランダ王国の支配を受けていたベルギーで蜂起がおこり、1831年にベルギー立憲王国として独立した。


1832年にはイギリスで第一回選挙法改正がおこなわれた。工場で労働者を雇って商品を生産させて資本を増やす産業資本家をはじめ、産業革命で豊かになった中流階級が発言力を強めることとなった。


しかしその影で、ロシアの事実上の支配下に置かれていたポーランド立憲王国、イタリア地方で起きた蜂起は失敗している。

ポーランド人の作曲家ショパン(1810〜49年)の「革命のエチュード」という曲には、このときのポーランドでの蜂起がロシア帝国によって鎮圧されたことに対するショックの気持ちが込められているよ。


”フランスが風邪をすると、ヨーロッパはくしゃみをする“ということわざがあるくらい、フランスはヨーロッパの政治における”インフルエンサー“だったんだね。

1830年というのは、ヨーロッパの国際関係における一つの転換期。

七月革命以降、西ヨーロッパ諸国は、オーストリアのメッテルニヒによる「自由主義反対! 民族主義反対!」の姿勢に必ずしも「うんうん」と同調しなくなっていく。

それでも「自由主義反対! 民族主義反対!」という態度をとりつづけたオーストリアやドイツなどの中央ヨーロッパ地域(中欧地域)では、やがて1848年にそれに対する不満が爆発することとなるんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊