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2.3.3. 初期王朝の形成 世界史の教科書を最初から最後まで

中国の歴史の考え方

中国の歴史」というと、卵からうまれた中国というヒナが、殷→周→東周…と大きくなって、春秋戦国でバラバラになり、
それが秦によってもう一度まとまって、
漢→バラバラ→隋→唐・・・元→明→清→中華民国→中華人民共和国
のように、成長していくようなイメージがあるかもしれないね。

もちろん勉強するときには「中国王朝の覚え方」のように、広い範囲を支配する王朝の順番が頭に入っていたほうが理解はすすむ。

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けれども、“中国”という範囲がはじめから決まっていて、「中国」という固定的な範囲と固定的な「中国人」をまとめていく歴史として「中国の歴史」をとらえると、分からなくなることがたくさん出てくる(というか正しくない)。


どうしてトルコ系の言葉を話す人が中国の皇帝になれるのか?
どうしてモンゴル系の言葉を話す人が中国の皇帝になれるのか?
そもそも「中国人」って誰なのか?


「中国」という地理的な範囲を “当たり前” のものとせずに勉強していくと、こういう引っかかりがほどけるようになっていくはずだ(下の方に参考にできる本を挙げておきます)。


黄河流域に注目する


さて、新石器時代の文化の終わり頃、中国各地で城壁で囲まれた大規模な集落が見られるようになっていた。

このうち、黄河の中流・下流エリアの城壁で囲まれた都市に注目することが多い。

この地域は 「農業を営むエリア」と、「農業ができず遊牧で生活できるエリア」の、ちょうど間に位置するエリア(森安孝夫のいう農牧接攘地域、妹尾達彦のいう遊牧-農業境界地帯)にあたる。
一般に、異なるライフスタイルの交わるところでは、互いのエリアでとれたものを交換したり、ときに奪ったりと、物や情報が集まる重要ポイントとなりやすい。

そういうわけで黄河の中流・下流エリアは、のちのち「中国の文明」の “土台” を築き、広い範囲に影響を与えていくことになるのだ。

なお、長江流域など、ほかのエリアでも農耕をベースにした都市は生まれているけれども、現行の教科書ではあくまで「黄河の中流・下流エリア」に注目するかたちで、中国の歴史の勉強がはじまっていくよ。



さらに複数の都市をまとめあげる広い国家組織を立てる王様が現れた。
これを(シア)王朝という。

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以前は特に日本の学会で夏王朝の実在を否定する声が多かったけれど、現在では中国だけでなく日本の研究者の中でも存在を認める説が増えてきている。
夏王朝の都の有力候補は二里頭遺跡(にりとう、アーリートウ)だ。大規模な建造物があったことがわかっているよ。



その後、(いん)と呼ばれる王朝が、やはり黄河流域を中心に組織された。


王に支配される側の人々は「自分たちは共通の祖先を持つ」という仲間意識を持っており、それぞれ(ゆう)という城郭を持つ都市の支配層でもあった。
王はをとりつぶすことはせず、ラーメンの器のマークのような複雑な文様(饕餮紋)を持つ青銅器を与えるなどして心をつかんだ。

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そして神の意思を占いによって授かり、それに基づいて多くの人々を支配したようだ。神の絶対的な権威にもとづいて服属させる形をとったのだ。

20世紀初めに発見された殷墟(いんきょ、インシュー)には、巨大な王の墓と宮殿がある。

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ここには、王の婦人の棺とともに多くの人間・家畜が一緒に埋められた跡や、占いに用いられた亀の甲羅や動物の骨(甲骨)が見つかった。占いに使われた文字(甲骨文字)は解読され、漢字のルーツであることが明らかになっているよ。


しかし、殷の「神の権威による支配」は、西方の民族の反抗を招くことに。

殷の最後の王(紂王(ちゅうおう))は「酒池肉林」や「妲己(だっき)」の故事にあるように極悪非道な王様として記録されている。
けれども歴史というのは勝者の書いたものだから、本当にそうだったのかどうかは、割り引いて考えないといけないだろう。

前11世紀頃(今から3100年ほど前)に殷は滅ぼされ、代わって周という王朝が建てられた。


都は鎬京(こうけい)に置かれ、一族や忠実な家臣、それに各地の異民族に対して土地を分け与え、代々その土地を継がせることにしたんだ。

現在の国家のように「領域内の国民をがっちり支配している国家」(領域国民国家)ではなく、実際には以下のような表し方が、周という王朝が支配をおよぼしたエリアの実態に合っている。

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https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/



周の王は家来たちを、いくつかの位にランク付けした。王の家来である諸侯。そして諸侯の家来である(けい)、大夫(たいふ)、(し)のようにね。
直接がっちりと支配するのではなく、各地の都市・農村の支配権を認め、統治を任せることは、当時「封建」(ほうけん)と呼ばれた。


「封建」の制度のもとでは、家柄が重んじられ、その家柄内で誰がいちばん偉いのか?といった序列を定める「宗法」(そうほう)もつくられていった。

こうした複数の家柄を、周の王様は「天の命令」(天命)を受ける形で支配するという“設定”で束ねようとする。王はあくまで天子(天の子)として振る舞い、天の神に対する儀式が国家の行事として重んじられたのだ。

甲骨文字から発展した金文(漢字の祖先)の刻まれた青銅器の祝杯をプレゼントされることは、家来たちにとって飛び上がるほど嬉しい名誉だった。当然プレゼントされる青銅器の個数も、ランクによって定められていたんだ。

このように周の王様は、殷の王様のように神に対する占いによる支配ではなく、土地(封土)、そして戦争・貿易・貢ぎ物などの収益を家来たちに分配することで、人々の心をつかもうとしたんだね。
特別な青銅器を製造・分配し、神に対する儀式を執り行うことができることが「すごい!」という気持ちだ。

周の初期には周公旦(しゅうこうたん)のように、「中国の歴史」の英傑として後の世に語り継がれる人物も現れた。しかし、間もなく周の王様の権威は揺らいでいくことになるよ。


参考文献

複数のエリア(遊牧エリアと農耕エリア、山地・山間盆地・平地、沿海部と海域エリア)や主体(漢人と漢人以外、違う文明圏からやってきた人々、女性)を盛り込む観点から中国史を組み直した通史のシリーズとしては、以下のようなものがある。

通史以外のもので読みやすいものとしては、以下がある。

もう少し詳細な後付けのあるテキストとしては、以下が手頃だと思う。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊