見出し画像

「北緯30度線」から遠く離れて “今”と”過去“をつなぐ世界史のまとめ③

前3500年〜前2000年の世界

画像7

まず北緯30度をたどって、前3500年〜前2000年の地球を空から観察していこう。名付けて “北緯30度線ツアー” だ。

旅の起点は北アメリカ大陸。ミシシッピ川沿いには、狩猟採集生活を送る人たちの姿が見える。

画像2



そのまま大西洋を超え、

画像3


アフリカ大陸に入ろう。

画像4


当時、急速に乾燥化が進んでいたサハラ砂漠の東端に、ナイル川という大河が大量の水を北の地中海に注いでいる。エジプトではウシを使って大規模な農耕が行われ、その富を吸い上げたファラオが、神の権威の下に巨大なピラミッドを作らせている。現代に比べれば人口密度ははるかに低いものの、この時期のナイル川沿いの定住農耕人口の多さには、やはり目を見張るものがある。

画像5


前27〜前22世紀にかけて栄えた王朝は古王国と総称され、主都はメンフィスに置かれた。しかし前21世紀には別の系統の王朝が生まれ、こちらは中王国(前21〜前18世紀)と呼ばれる。主都はテーベに置かれた。

ナイル川や紅海に浮かぶ、頼りなさげな商船の航跡を片目に、エジプトをあとにする。

***


ペルシア湾に注ぐユーフラテス川とティグリス川下流域には、シュメール人の都市国家が生まれている。やはりを吸い上げた支配者が、神の権威の下に巨大なジッグラトという神殿を築かせた。

このエリアには、前3500年頃からウル、ウルク、ラガシュなどシュメール人の都市国家が形成され、前24世紀〜前22世紀にかけてアッカド王国、前22〜前21世紀にかけてウル第3王朝が支配した。こうしたことが分かるのは、トークンから発達した楔形文字という文字が記録が残っているからだ。
彼らの編み出した60進法は、1ダースとか、1日24時間といった数え方の中に、いまだに影響を与え続けている。

具体的には、シュメールの経済は神殿と宮殿の複合体であり、そこには聖職者、役人、職人、商人、農民や牧畜民など数千人のスタッフがいた。神殿の働き手には大麦が給付され、その価値は銀と紐づけられていたものの(1月分の大麦1ブッシェル=1シェケルの重量の銀)、さまざまな支払いはツケ(信用)でまかなわれ、収穫期になると大麦やその他の物品でおこなっていたようだ。神殿の管理官は、メソポタミアでは産出されない石・木、金属、銀を輸入するため、官民により編成される地元商人のキャラヴァン(隊商)に前もって貸し付け、海外遠征をさせ、交易・略奪によって獲得したモノから分け前を徴収した。また農民に対しても同様の貸付をおこなっていた。

***


ザグロス山脈を東に超え、イラン高原を東に進もう。

するとヒマラヤ山脈から流れてきたインダス川に行き当たる。
インダス川流域ではモエンジョ=ダーロやハラッパーなどの都市が建設され、交易が行われていた。当時はサラスヴァティー川も大タール砂漠を貫き併流していたようだから、インダス文明もさながら南アジアのメソポタミア(川の間の土地)であると言えよう。
インダス川流域のモヘンジョ=ダーロには入念な都市計画に基づく街路が見られ、沐浴場とみられる大浴場らしき施設も見られた。身分の差があったことはわかるが、王宮は見られない。見つかった印章にはインダス文字が刻まれていた。

***

ヒマラヤ山脈を超えると、長江の源流にたどり着く。三江併流と呼ばれる雄大なエリアだ。


四川盆地や長江下流域には稲作を基盤とする大きな集落が見える。下流の河姆渡遺跡が代表例だ。

前3000年ごろからは同じく長江下流に良渚文化が、河姆渡文化や現在の上海を含むより広い範囲で栄えている。

北緯30度付近から北に視点をずらすと、黄河中・上流域でもすでに前5000年ころから仰韶文化と呼ばれる農耕文明がおこっていた。主要な作物はアワやヒエだ。黄河流域の文明は長江文明とは別の系統だ。農耕エリアと遊牧エリアの境界域に位置することから、中央ユーラシアを通して西方の影響も受けていた。
小規模な環濠をもつ集落が特徴で、ブタ・ニワトリ・イヌなどを家畜化。中流域の渭水盆地は「関中」と呼ばれ、内陸の乾燥エリアや北方の遊牧エリアとの窓口として重要だった。黄河の湾曲部では遊牧も灌漑農業もできるため、さまざまな人々がその支配をめぐり凌ぎを削った。

前3000年ころからは、中下流域から淮河・山東半島にかけてのエリアで龍山文化(〜前1500年)が栄えている。黄河中下流域の一帯は「中原」と呼ばれ、漢人による中国文明の発祥の地となっていく。ヒツジやウシなどおびただしい数の家畜を用いており、城壁に囲まれた大規模な集落が形成されるようになっている。

大規模な定住社会が北緯30度付近に見られた西アジアや南アジアとは違い、東アジアにおいて北緯35度付近にも農耕を基盤とする大規模な定住社会が見られたのは、巨大河川が2つ並行して流れていたことや、農耕エリアが北緯40度付近にかけて広がっていたからであろう。黄河・長江流域における両文明の交流と抗争の中から、やがて中国文明が姿を現すことになるのである。

***


以上で北緯30度ツアーはおしまいだ。

けれども上に紹介したエリア以外では、いまだ狩猟最終生活を営む人々が支配的だった。本当はそこまでを勘定に入れなければなるまい。

北緯30度ラインにおいて “立派” な国が誕生していた時期に、いまだに狩猟採集生活や「原始」的な農耕を営んでいたのだから、さぞかし野蛮なエリアであったと思うかもしれない。

しかし農耕社会には、狩猟採集社会には存在しなかった格差が出現している。穀物栽培にあたる人々は、支配者によって囲い込まれ、収奪の対象となった。その暴力性を考えれば、国家から逃れ、狩猟最終や「原始」的な農耕を営んでいたほうが、よっぽどお気楽である。
狩猟採集社会ではメンバー間の関係も平等であり、負債を一方的に押し付け続けるなんてことも起こらない。というか、そんなことはできやしない。容易にコントロールできない自然の中で、確実なことなど何ひとつありはしないのだから。


画像6


そもそも狩猟採集を基盤とする社会では権力が特定の誰か(たいていは女性、子供を支配する男性)に集中しにくい仕組みが備わっているもの。リーダーシップを発揮する人物がいたとしても、誰か一人が突出して富を独占することはない。というか、独占を可能にする資源なんてないのである。


ところが、家畜・奴隷と大河川の水資源を利用した灌漑農耕によって、より多くの食べ物を蓄えることができるようになると、そのアクセス権をめぐり所得や富の格差が生まれ、権力に格差が生じていった。社会を形成するメンバーが増えれば、見知らぬ人との間に “血の通わない” 人間関係が生まれる。血の通わない ”人間関係“ においては、相手に対して何かを負っているという感覚が強調される。それがさらなる格差を生み出すこととなるのだ。

デヴィッド・グレーバーの指摘するように、狩猟採集社会における交易が、しばしば祝祭的で「継続的な関係ももつことがないようなよそ者どうしの交流」の形をとるのは、誰かに対する負債が継続的に発生しないような原理を組み込んでおくためでもある。

画像6


集団内部で物々交換をする場合でも、誰が誰に対してより多くの負債を負っているといった力関係が生じぬよう、贈与が繰り返されることが多い。現代の贈り物やクラウド・ファンディングに至るまで、こうした工夫は、“血の通った” 人間関係を守り、国家や市場における冷徹な債務関係に抗う役目を果たしている。


***



しかし紀元前2000年の時点で、すでに債務をめぐる問題が噴出していたことは、次の時期に国家により制定されたハンムラビ法典(紀元前18世紀)において、債務の帳消しと、紛争の穏当な解決方法が提示されていることからもわかるだろう。

特定の領域の人々・家畜を暴力的に囲い込んで政治権力を握った君主は、その暴力を覆い隠す役割を果たす聖なる権威を背景にして、「人間の世界」における債務を帳消しにすることで人々の同意を取り付けた。

けれども同時に支配者は、先述の通り被支配者に対し新たに何らかの債務を課し直し、集めた富を再分配することによって人々にその統治を納得させようとしていくことになる。負い目による人間のコントロールと、それをたくみに交わし、避けようとする心性。こうした「人間の社会」の基本パターンは、前3500〜前2000年期の定住社会に胎動し、“今”のわれわれの世界へと繋がっている。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊