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12.3.3 国内動乱と近代化の始動 世界史の教科書を最初から最後まで

アヘン戦争後、重税による窮乏化や清朝統治に対する不安感のために、民衆のあいだでは結社をつくってたすけあい、 生活をまもろうとする動きが高まった。

19世紀半ば、そうした結社は中国各地で反乱を起こす中、最大のものが洪秀全(ホンシウチュエン;こうしゅうぜん。1813〜64年)が広東(カントン)ではじめた拝上帝会(はいじょうていかい)による反乱だった。



儒教を攻撃し、民間信仰の神々を偶像として破壊する拝上帝会の活動は弾圧をうけたが、洪秀全らがに1851年に広西(グァンシー;こうしゅう)で挙兵して太平天国(タイピンティエングオ;たいへいてんごく)を建設すると、その運動は、貧困を逃れ救済を求める民衆をまきこんで急速に広がった。



太平天国軍は湖南から北上して長江流域にいたり、1853年に南京を占領


南京を天京(ティエンジン;てんけい)と名付け首都とした。



滅満興漢」(めつまんこうかん)のスローガンを掲げて清朝(しんちょう)の打倒をめざし、アヘン吸引や纏足(てんそく)などの悪習の廃止、土地の均等な配分(天朝田畝(てんちょうでんぽ)制度)などの政策をうち出して、支配下の男女を戦闘・労働に動員した。太平天国軍はその後、中国北部や長江上流に軍をすすめた。


しかしながら、やがて天京の政府は “内輪揉め” により混乱。

清軍の正規軍(緑営)だけでなく、


漢人官僚がふるさとで組織した義勇軍(郷勇)によって、太平天国はしだいに追い詰められていった。

郷勇の代表は、曽国藩(ツォングオファン;そうこくはん、1811〜72年)の組織した自前の軍隊(湘軍(しょうぐん))、


李鴻章(リーホンヂァン;りこうしょう、1823〜1901年)の淮軍(わいぐん)などだ。

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当初は太平天国の乱に同情的だった諸外国は、北京条約で清朝に要求をのませると、清朝をサポートする方針に転換。
アメリカ人のウォード(1831〜62年)のつくった民兵に、イギリス人のゴードン(1833〜85年)

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率いるイギリス軍が参加して組織した常勝軍(じょうしょうぐん)も、中国に滞在するイギリス人・アメリカ人の命と財産を守るため、頼りない清に協力することとなった。


結局1864年に天京は陥落。
太平天国は滅んだけれども、動乱は清朝の中央や軍隊の無力ぶりを明るみに出し、漢人の役人が勢力をのばすきっかけとなった。


太平天国が滅んだ後、国内の秩序は一時的に安定(同治の中興)。

この間、曽国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らは富国強兵をめざして、西洋の学問や技術を導入した(洋務運動)。
おもなプロジェクトとしては、兵器工場や紡績工場、汽船会社を設立、鉱山開発や電信技術などがある。
しかし、洋務運動のスタンスは、中国の伝統的な道徳倫理を根本としながら、西洋のテクノロジーを利用するという「中体西用」の立場。

オスマン帝国の西欧化改革(タンジマート)や日本の明治維新のように、「法の下では、国民はみな平等」といった国の制度改革には至らなかった点が、洋務運動の限界だった。

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