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11.2.5 イタリアの統一 世界史の教科書を最初から最後まで

クリミア戦争終結後、ヨーロッパ諸国は産業力が試される「新しい」国づくりと海外進出に大忙しとなった。



そのスキに、まとまった国が建設されたのがイタリア地方だ。


当時のイタリアには多数の国家が分立。




北イタリアのミラノやヴェネツィアはウィーン会議でオーストリア帝国の領土となっており、中部イタリアにはローマ教皇の国(ローマ教皇領)、


南イタリアには、ナポリを都にブルボン王家の両シチリア王国が君臨する状況だった。


まず、動いたのは自由主義を掲げ反オーストリアとイタリア独立を目指すグループ「青年イタリア」を指導してきたマッツィーニ(1805〜72年)。

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1848年に二月革命が起きてウィーン体制が崩壊すると、

同年にローマ教皇がローマを脱出していたローマに、再び「古代共和政ローマ」を復活させることを目標に、

1849年にローマ共和国を建設。

しかしガリバルディ(1807〜1882年)

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らの奮闘もむなしく、フランス軍に倒されてしまった。



また、北西部のサルディーニャ王国も、イタリア統一の障害になっていたオーストリアと正面切って戦ったものの、あえなく敗北。

このときのオーストリア側の将軍の戦勝記念マーチが「ラデツキー行進曲」



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しかしサルデーニャ王国はあきらめない。

その後まもなくサルディーニャ王国の国王となったヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(在位1849〜61年)は、失敗をバネにオーストリアに対するリベンジのため、近代化をトップダウンで進めていく。
推進したのは自由主義者のカヴール(1810〜1861年)。鉄道を建設するなどインフラ整備をすすめていった。

さらに外交的には、秘密裏にフランスのナポレオン3世を味方に引き込むことでオーストリアに対抗しようと画策。密約を結んだ上で、1859年に再びオーストリアに開戦した。

今度こそは用意周到。
サルデーニャ王国は戦いに勝利した。

ところがどっこい、フランスのナポレオン3世は途中でオーストリア帝国と和平を結び、戦線離脱。
この“寝返り” によって、オーストリアはヴェネツィアを確保。
サルデーニャ王国は、ロンバルディア地方しか獲得することができない結果に終わった。

そんな中、なんとナポレオン3世が「サルデーニャ王国が中部イタリアを領土に加えたいのであれば、フランス国境近くのサヴォイアとニースはフランスによこせ」とサルデーニャ王国に要求する。

サヴォイアといえば、サルデーニャ王国の王家の“ふるさと”だが、背に腹は変えられない。
1860年にサヴォイアとニースをフランスにゆずることで、中部イタリアを併合することに成功した。

中部イタリアにはいくつかの国があったものの、オーストリア帝国の脅威もあって、すでにサルデーニャ王国の“属国” と化していた。

このときサルデーニャ王国に併合されたエリアとしては、

モデナ公国、

パルマ公国、

フィレンツェを都とするトスカーナ大公国、

そしてローマ教皇領の北部が含まれる。



この時点でサルデーニャ王国は、北イタリアから中部イタリアまでを確保する状態に。
今でこそ「イタリア」といえば “長靴の形” をしているものという先入観があるけれど、サルデーニャ王国の国王も宰相カヴールとしては「これでひとまずイタリアは統一できた。残るは、オーストリア帝国に支配されているヴェネツィアと、教皇の支配するローマをなんとかするだけだ」という認識だった。


しかし、事態は思わぬ展開に。

サルデーニャ王国の宰相カヴールが大嫌いな、自由主義者ガリバルディが、南イタリアのナポリ王国を「ブルボン朝から取り戻す」計画を実行。
プライベートな私設軍隊「千人隊」を、ナポリ王国支配に抵抗する反乱の起きていたシチリア島に上陸させた。

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赤シャツをきていたので「赤シャツ隊」ともいわれる彼の兵隊は、さらにナポリにも進撃。
なんと、ナポリ王国を滅ぼしてしまったのだ。

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これにはサルデーニャ王国の国王も宰相カヴールも仰天!

国王のいない国をつくろうとしているガリバルディが南イタリアを握ってしまったのは、国王ありきの国づくりを進めるサルデーニャ王国にとっては大きな痛手だ。


しかし、両者のにらみ合いを断ち切るように、ガリバルディはすんなりサルデーニャ国王に、ナポリ王国の領土をゆずる決断をする。

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この結果、1861年3月にイタリア王国が成立し、サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(在位1861〜78年)がイタリア国王に就いたのだ。

その後、イタリア王国は、オーストリア帝国がプロイセン王国で敗北したスキをついて、ヴェネツィアを併合


フランスのナポレオン3世がプロイセン王国との戦争で敗北したスキをついて、ローマ教皇領も併合し、1871年に首都もローマにうつしている。




しかし、イタリア語を話す住民のいるトリエステ、南チロルなどオーストリア領にとどまるエリアものこされ、「まだ“未回収のイタリア”がある」と宣伝された。

また、ローマ教皇は「領土を奪ったイタリア王国を許さない!」その後もイタリア政府との対立を続けていくこととなった。


しかも、近代化がすすみ、工業の発達した北部と、貧しい南部の経済格差は、その後も解消されず、イタリアからは多くの移民がアメリカ合衆国に渡っている。前途多難だね。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊